コニンブリガ モノグラフ博物館 Museu Monografico de Conimbriga
博物館・美術館・ギャラリー
3.20
施設情報
- 施設名
- コニンブリガ モノグラフ博物館
- 英名
- Museu Monografico de Conimbriga
- 住所
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- Conímbriga 3150-220 Condeixa-a-Velha
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- カテゴリ
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クチコミ(3件)
1~3件(全3件中)
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遺跡ほどではないがモザイクとフレスコ画の断片など展示してある
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イベリア半島最大のローマ都市遺跡・・・・?
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ルジタニア(ポルトガル)の人、歴史の原点を探る
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- 旅行時期:2011/08(約14年前)
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コニンブリガの遺跡は、ポルトガル最大で重要な遺跡。古代をたどることができ、ポルトガルの人、歴史時代を探るには、ここから。
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コインブラ駅前からコンデイシャ行きのバス(1時間に2便)のうち数便がコニンブリガ博物館まで延長され、運行されています。(2.3ユーロ)
コンデイシャの町でバスを降りた場合は遺跡までタクシー(4〜5ユーロ)。
基層に先住民イベロ族の青銅器時代があるとされ、次いで、鉄器文化をもたらしたケルト人がピレネーを越え波状的に来襲(ブリガはケルト語の要塞といわれています)して混血、イベロ・ケルト族を形成して住んでいたルシタニア人のコニンブリガを紀元前139年ごろローマ帝国が攻略し、町を作り変え、基地にしたとされています。
テージョ川からドウロ川の間に住むルシタニア人は、圧倒的なローマ軍に対し100年間激しく抵抗したと、ローマ側に,族長ヴィリアトの名前とともに記録されている。
紀元前19年皇帝アウグストゥスが自らドーロ川以北を征服し、イベリア半島全体を完全にローマの支配下に置いたといわれているので、アウグストゥスもこのローマ軍基地を訪れたに違いありません。
ローマ時代、自治都市となり、大いに栄え、遺跡はイベリア半島一の規模と言われていますが、まだ発掘面積は10%であるという。発掘済み面積は、見た目にはセヴィージャ近郊のロ−マ遺跡のほうが広いかもしれません。
この時代に今のポルトガル語の古い形の俗ラテン語が共通語となったようです。
5世紀前後に西ヨーロッパをゲルマン諸族が荒らしまわりましたが、そのうちのスエヴィ族が465年コニンブリガを略奪荒廃させ、住民は今のコインブラに追いやられたといわれています。
古代の市壁の一部、アウグストゥスが通ったかも知れないローマ街道がそのまま残り、写真にある噴水の館のモザイクは保存状態が大変よいものです。
カンタベルの館は、基礎、壁、門、柱もそれぞれ一部ですが残存しており、浴場跡ではダクト跡が見られ、博物館には陶器、彫刻、モザイク床などがあります。
博物館付属カフェがあり、ゆっくり、ポルトガルの古代、その後の、スエヴィ王国、西ゴート王国、イスラム化、レコンキスタと、歴史に思いをはせることができます。
100年間の辺境の民・ルシタ二ア人のローマ帝国との戦いの記憶は、ローマ時代にも独立心が保持され、少数の西ゴート人を吸収し、イスラム化に耐え、レコンキスタに奔走中も他のイベリア半島諸王国からのけん制を排除して、レコンキスタと独立を果たし、保持し、今にいたることに繫がったのでしょう。
ポルトガルとスペインとの国境には、ピレネー山脈もなく、ライン川もありません。カタロニアやバスクはスペインからいまだに脱っし切れてはいません。
ユーラシア大陸の東の辺境の民は、日本海で護られ独立を保持し、西の辺境の民は、かくよく独立を保持するどころか南米、極東の島国まで羽ばたいた。
コインブラやポルトで土産物として売られている陶器は、遺跡から2.5キロのコンデイシャの町で作られており、コニンブリガ焼きと呼ばれています。
2011年8月16日(火)コインブラ滞在中、訪問しました。フランスからの自動車旅行者多し。
往(バス、タクシー)復(バス)
閉じる投稿日:2013/02/11
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