トラファルガー広場 Trafalgar Square
広場・公園
4.10
クチコミ 14ページ目(276件)
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ロンドンっ子の待ち合わせ場所
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- 旅行時期:2009/07(約16年前)
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人が集まる広場
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- 旅行時期:2009/07(約16年前)
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観光客だらけ
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- 旅行時期:2009/07(約16年前)
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THE 大英帝国
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- 旅行時期:2009/05(約17年前)
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ナショナルギャラリー前の広場です
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- 旅行時期:2009/05(約17年前)
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トラファルガー広場にはライオンがいます
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- 旅行時期:2009/02(約17年前)
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三越のご本尊様です。
投稿日:2009/02/10
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Trafalgar Square
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- 旅行時期:2009/02(約17年前)
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Nelson の像はそれはそれは高い。50メートルあるそうです。
投稿日:2009/02/09
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トラファルガー広場の夜
- 4.0
- 旅行時期:2008/12(約17年前)
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非常に広い広場
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- 旅行時期:2007/11(約18年前)
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ロンドンらしさを体感
- 3.5
- 旅行時期:2006/05(約20年前)
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ロンドンの中心
- 3.5
- 旅行時期:2004/08(約21年前)
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ロンドンの名所の中心
- 3.5
- 旅行時期:1999/04(約27年前)
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賑やかで、行くだけで楽しいイベント広場!
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- 旅行時期:1983/03(約43年前)
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セピア色の思い出:英国・日本の海の英雄、ネルソン提督と東郷元帥を思う。
- 4.0
- 旅行時期:1978/08(約47年前)
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<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセ... 続きを読むルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号、④バッキンガム宮殿と衛兵交代式、午後は⑤トラファルガー広場とライオン像、⑥大英博物館などを巡った。
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⑤Trafalgar Squareトラファルガー広場のライオン像とネルソン提督像
ウェストミンスター広場に1805年のトラファルガーの海戦における勝利を記念して造られたトラファルガー広場で当初は「ウィリアム4世広場」という名前だった。
60mの高さのネルソン提督の像・記念柱(1843年完工、大理石)は噴水の隣に、巨大な4頭のライオンのブロンズ像に囲まれて建っている。
名将ネルソン提督とトラファルガーの海戦:
子爵Horatio Nelsonホレーショ・ネルソン(1758年~1805年)はフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収めて、ナポレオンによる制海権獲得・イギリス本土侵攻を阻止した。ネルソン自身は同海戦で戦死した。イギリス最大の英雄とされている。
「Battle of Trafalgarトラファルガーの海戦」は1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で行なわれた海戦である。ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、皇帝ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。
ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。
後に「Nelson Touchネルソンタッチ」と呼ばれる事になる、彼の新戦術は敵味方の艦隊同士が、戦列(Line)を形成して平行に並んで撃ち合うという、当時の海戦の常識を破り、艦隊が一直線に敵中腹に飛び込み、敵艦隊を分断した後に分断した艦隊に集中砲火を浴びせ、分断した敵の1/2を殲滅するものであった。
この作戦の難点は分断する為に先頭に立つ艦が集中砲火を浴び危険である事で、ネルソン自身、その役を自ら買って出る。
激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。
一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦ルドゥタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。
ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。
日本で言えば、東郷平八郎元帥(1848年~1934年)であろう。
日露戦争においては、連合艦隊を率いて「日本海海戦」で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、Admiral Togoアドミラル・トーゴー(東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。
明治38年(1905年)5月27日、東郷元帥は敵前で大回頭(だいかいとう:敵前Uターンのこと。日本艦隊は旗艦「三笠」を先頭に、一斉に左舷に回頭、ロシア艦隊と並進する針路をとろうとする。 海戦史上名高い戦法である)を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。
この回頭は「トウゴウ・ターン」と称された。
当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。
この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。(Wiki)
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縁側にたたずむ東郷元帥の写真1枚が母の遺品から出てきた。最初祖父の写真かと思ったのだが、よく見ると鋭い眼光、白い髭の様子が東郷元帥だった。
若い時に7年(大正末期から昭和)ほど宮中奉公をした母には、国民的人気の元帥の写真は一種のお守りであったのかもしれない!
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