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虹澗橋

名所・史跡

虹澗橋 施設情報・クチコミに戻る

名を残して没落。

  • 5.0
  • 旅行時期:2022/05(約4年前)
旅好者さん

by 旅好者さん(男性)

豊後大野 クチコミ:63件

虹澗橋は国道502号線が三重川を渡る新虹澗橋の下流200mくらいのところにありました。右岸側が臼杵市野津町、左岸側が豊後大野市三重町となる三重川に架かっている石橋です。現在は車の通行は出来ない様になっていましたが、橋の中心には中央線が残っていて、近年まで現役だったことが偲ばれました。1821年(文政4年)に起工し、1824年(文政7年)に竣工した単アーチ橋で、橋長は31m、幅員は6.1m、ほぼ半円形のアーチ径間は25.1mあり、架橋時、石橋の径間長として日本一だったとのことです。
ここは、臼杵藩時代の臼杵城下と三重郷とを結ぶ主要道で「柳井瀬の渡り」と呼ばれた三重川の渡河地点だったとのことです。切り立った両岸を上り下りするだけでなく、川は飛石を伝って渡るという、とんでもない難所だったのです。人の往来も物資の流通も増えた時代ですから橋は必須だったのでしょう。その橋は商人が架けた橋といわれています。臼杵藩に架橋の許しを得て、臼杵城下畳屋町の甲斐源助(商売不明)、三重市場村の(油商、問屋、金貸)多田富治、(海産物商、問屋、金貸)後藤喜十郎という豪商3人が資金を提供し、下ノ江村大野の井沢織平が石工棟梁を務めたそうです。
この工事には着工から3年半も掛ったそうですね。アーチ径間が約25mと、長い径の初の試みだったこともあって、相当の難工事だったのだと思います。相応に工事費用も膨らんだとは思いますが、完成からしばらくして、資金提供をした3家は没落してしまったそうですね。また、石工棟梁は工事の前も後にもまったく経歴が残っていないのだそうですね。どちらも、単純にそうですかとは納得出来ないところです。何か裏があったのではないかと、つい穿った見方をしてしまいますね。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
友人
アクセス:
3.0
人混みの少なさ:
5.0
見ごたえ:
5.0

クチコミ投稿日:2022/09/13

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