南北朝期の公卿藤原藤房が眠る場所と伝わっている。
- 5.0
- 旅行時期:2022/04(約2年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
甲賀 クチコミ:14件
鎌倉時代末期から南北朝・室町初期に渡る公卿であった藤原藤房。倒幕に加担したり後醍醐天皇と対したりと波乱の人生を送った人物のようである。公卿まで昇り詰めるも39歳の年で出家し、京都大本山大徳寺開山の大燈国師に就いて参禅、授翁宗弼と号して諸国を行脚された後、臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の無相大師について修行、大悟されて正平15(1360)年に妙心寺の二祖となっている。その諸国行脚の際、元知行国であったこの地に庵を結び、その語後醍醐天皇の念持仏〝千手観音〟を奉安する持仏堂を建立したものが妙感寺の始まりだと寺伝には伝わっている。20年もの間妙心寺に住したが、その後病を得てこの妙感寺に隠棲され、天授6(1380)年に85歳で亡くなったと言われている。
この〝藤房卿遺跡〟が何を指すかは語る者によって若干の違いはあるようだが、本堂奥にある〝開山塔〟が墓所と伝わっている。ここには〝遺髪〟を埋めたという説もあり、別名〝髪塔塚〟とも呼ばれている。
同じ〝藤房卿遺跡〟というものが国内にいくつかあるため、実際逝去の場所は不明な点もある。藤房は戦死した兵を弔うために日々地蔵菩薩を朝夕信仰したと伝わっている。境内後方の山中にその〝磨崖地蔵尊〟が現存していることがその〝逸話〟を強力に裏付けているように私には思えたのだった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR三雲駅から車で10分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時には誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場は砂利敷きである。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 聖地の如く囲いがあることに信憑性を感じる。
クチコミ投稿日:2022/04/28
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