安土宗論が行われた寺院である。
- 5.0
- 旅行時期:2021/10(約4年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
近江八幡・安土 クチコミ:10件
現在の浄厳院の地には室町中期に近江守護佐々木氏頼によって建立された天台宗寺院の慈恩寺威徳院があったが兵火により焼失している。その後天正年間に織田信長が金勝山の浄土宗の僧浄厳坊明感を安土に招き、慈恩寺跡地に明感を開山とした浄土宗寺院である浄厳院を建立したことにより歴史が始まった。
佐々木氏・六角氏・浅井氏と言った近江を治めていた大名を滅ぼし比叡山を焼き討ちした信長は、自らが手に掛けた寺院などから建物・仏像等を略奪してきたとされており、それらを浄厳院の建造物として用いたとされている。入手方法はともかく重要文化財や県・市指定の有形文化財として今日でも見ることができるものとなっている。
安土城が完成しその城下町を形成するにあたって作られたとされるここ浄厳院で、浄土宗と法華宗の僧による安土宗論が信長の裁定により行われることとなった。所謂宗教論争ではあるがこれには信長の強い政治的思考が大きく関っており、事を荒立てず内々に済ませたい信長の意向に従った浄土宗側に対し、争う意思を曲げなかった法華宗側を〝今後の成り行き〟を考えて裁いたとも言われている。宗論に負けた法華宗側では在家信者や宗論出席した僧が斬首されるという厳しい処分を受けた。加えて〝宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、この度宗論に負けた以上今後は他宗を誹謗しない〟との詫証文を欠かされたとされている。
これは信長が天下統一を果たした過程に於いて〝一揆〟と戦い続けて来た経験が影響しているようにも見えて来る。今後統治者として〝暴徒化する集団とどう向き合うか?〟という考えは勿論持ち合わせていたであろう。一歩間違えれば日本の中心となった安土の城下町を一揆で失うことを未然に防いだと考えられ、それなりの評価は受けている裁量だったと言われているようだ。
浄厳院の位置する慈恩寺という地名は、元々この地にあった旧慈恩寺に由来している。参拝者が私の他1人居たが、500年程の歴史の割には静かな境内に〝歴史資産〟とも言える文化財が所狭しと建立されていることに違和感すら感じる場所でもあった。城下町としての安土の歴史は10年もなかった話である。そんな安土に於いてはやはり歴史建造物に当たるのかとふと不思議に感じた私であった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 安土駅から徒歩10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は1人の参拝客が居た。
- バリアフリー:
- 4.0
- メインは砂利敷きだが、石畳もひかれている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 歴史的価値のある建物が数多く建立されている。
クチコミ投稿日:2021/10/16
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