榎本武揚は、明治時代に、事業の一つとして、ここ飯田町で北辰社と称する牧場を経営したという。
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- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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by ワンダラーさん(男性)
神楽坂・飯田橋 クチコミ:2件
地元の飯田橋商店街振興会が、目白通りを飯田橋の散歩路にすべく、飯田橋駅から九段下駅にかけての両側歩道に石の標柱13本を建て、この町の移りかわりを示している。その中の1つの石柱がこの「北辰社牧場跡碑 」。
縄文時代には海面が上がって(縄文海進)このあたりは溺れ谷の入り江の海の中だった。その後、海が後退して、太田道灌のころは、平川の氾濫原の葦原になっていたという。
徳川家康が江戸城の大規模拡張工事を行い、神田川工事などで平川の流入もなくなり、このあたりは湿地から幕府から拝領した大名屋敷や旗本屋敷に変わったという。
明治になってこれらの武家屋敷街は住人がなくなり、失業した武士を救済する農業に利用されることが多かった。茶畑や桑畑もあったが、需要が増えて長距離輸送が困難な牛乳生産のための牧場にも利用された。
幕末に酪農王国のオランダに留学した榎本武揚は、事業の一つとして、ここ飯田町で北辰社と称する牧場を経営したという。今では、近世にそんな施設があったとは思えない場所に感じる。
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2021/06/21
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