歴史上最大の天守を誇った城址!
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- 旅行時期:2020/01(約6年前)
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by norisaさん(非公開)
静岡市(葵区・駿河区) クチコミ:17件
駿府城は元々三重のお堀で囲まれていたそうで、外堀、中堀、内堀と呼ばれていましたが外堀と内堀は一部を残すのみですーー。
この城址はここ数年で発掘が進み、戦国時代後期から江戸時代前期の歴史を塗り替える発見が相次ぎました!!
今ではお城の石垣とごく一部の再現された門しか残っていない駿府城。
しかし、実際には日本の歴史を通じて最大の天守が存在していた日本最重要の城郭でした。
この事実はここ2,3年の発掘作業の大幅進展により明らかになってきました。
城郭の大きさでは小田原城の総構えが有名ですし、天守の大きさでは大阪城、そして江戸城が挙げられます。
しかし、実は江戸時代だけでなく、有史以来最大の天守閣を誇ったのは今では人口70万人の静岡市の中心にある駿府城でした。
これには壮大でしかも執念に満ちた歴史ドラマがあります。
徳川家康は愛知県の三河の生まれでしたが、幼少の頃から今川氏の人質として駿府に送られます。
人質と言いながら、さすが大大名の今川氏、家康には清見寺で立派な教育を施します。
その後三河に戻った家康でしたが、40代半ばから70代で亡くなるまで再度駿府に戻ってきます。
その理由こそ天下人となった家康の深謀からの英断でした。
つまり、一応の天下統一はなったものの西日本には心から服従したとはいえない外様藩が多々あります。
その反徳川勢力が結集して東征することになればその最優先ルートは東海道になります。
中山道や北陸道は距離もアップダウンも多いため、最短最速のルートは東海道というわけです。
しかし、地図を見れば直ちに理解できますが、東海道は平たんとは言え静岡市近辺では迂回路はありません。
ということは静岡、即ち駿府を抑えておけば反乱軍の江戸侵攻を防ぐことができるわけです。
そこで、当然のように駿府には江戸城をもはるかにしのぐ巨大な城が造られたわけです。
しかし、この巨城は簡単に造られたわけではありません。
40代に駿府に舞い戻った家康はそれなりに立派な城を造りました。
しかし、小田原攻めで東進してきた豊臣秀吉がこの新築の城を貸せと指示します。
断れば反逆したとして滅ばされるやもしれず、家康は泣く泣く駿府城を秀吉に引き渡しました。
で、駿府城を手に入れた秀吉はどうしたかというと完膚なきまでに破壊して金の装飾をちりばめた秀吉風駿府城を建ててしまいました。
その城が南北約37m×東西約33m の天守台(同時代では最大級の大きさ)として最近発掘されたわけです。
また、発見された石垣の近くから、文様部分が金箔で装飾された瓦(金箔瓦)も見つかりました。石垣の形状や瓦の特徴などから、豊臣秀吉が家臣の中村一氏に命じて築かせた城であることが判明したわけです。(HP参照)
しかし、秀吉の死後の関ヶ原の決戦で天下を取った家康は、最終仕上げにかかります。
それが新駿府城というわけですが、今度は秀吉の城を徹底破壊することからスタートしました。
その新駿府城、いや新々駿府城の天守台は西辺約68m×北辺約61mであることが確認され、江戸城、大阪城、秀吉の駿府城と比べても圧倒的に大きな天守であったことがわかります。
これにより西国の不満分子ににらみをきかせ、さらに自分の死後は久能山東照宮に亡骸を安置させることにより、物理的にも精神的にも守りを固め300年近い平和な時代を築いたというわけです。
この巨大な城はその後たびたび出火し、最終的に燃えてしまいますが、参勤交代のたびにこの巨城を見た外様大名が震えあがったことは想像にかたくありませんーー。
駿府城の天守台跡は随時見学会も行われていますので、それに参加すればさらに詳しく理解できます。
アクセスは駅から徒歩10分強ですが駐車場はありませんので近隣駐車場を使うしかありません。
是非訪れたい史上最大の天守台跡ですーー。
- 施設の満足度
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4.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2020/01/19
いいね!:44票
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