開南の名前は今でも使われています。
- 5.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
-
-
by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
糸満・ひめゆり クチコミ:207件
旧制開南中学は昭和11(1936)年4月現在の樋川1丁目開南交差点南西(現在ローソン那覇開南バス停前店)付近に開校した。当時沖縄県内には4校の中学があったがの中で唯一の私立中学校であった学校である。沖縄での地上戦が始まる前の昭和19(1944)年半ば、校舎は沖縄陸軍病院に徴用され、同年10月10日の那覇大空襲によって校舎は焼け落ちてしまう。そのうち第32軍司令部より〝学徒隊〟動員の作戦命令書が届く昭和20(1945)年3月25日前後だったが、学校からは纏まっての入隊は困難なので、各自で所属部隊へと入隊するよう指示が出た。第62師団歩兵第64旅団独立第23大隊(大隊長:山本重一少佐)に配属となった〝開南鉄血勤皇隊〟、そして第24師団に配属となった〝通信隊〟(隊長:保科清一郎大尉)。通信隊の一部は第32連隊司令部(連隊長:北郷格郎大佐)と行動を共にしていたという説もある。鉄血勤皇隊は嘉数や前田の戦いで部隊が全滅し、通信隊も有線・無線・信号の区別はあれど、戦争末期にはそんなことも関係ないまま砲弾の飛び交う戦場に駆り出されることととなり、71名の学徒動員者に対し生存者はわずかに4名だったとされている。その後戦後を迎えるも開南中学校は復することなく9年に満たない歴史を閉じることとなった。戦後になり児童数の増加により学校名を冠した開南小学校が泉崎に開学するも直接の繋がりは何もない。しかし学校名は消えたものの〝開南〟という地名は今なお利用されており、住所名ではないにも拘らず学校跡地一帯には〝開南〟という屋号を使用したいる店舗なども多く存在する。
この場所を訪れる者が少ないのは残念ではあるが、忘れ去られることはないだろう。
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 米須霊域からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 今日の日は花も手向けられていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は整地されておらず良くはありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 訪れる度に毎回考えさせられることがあります。
クチコミ投稿日:2019/11/05
いいね!:8票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する