八重山列島の独立を真に考えていた男なのかも…。
- 5.0
- 旅行時期:2016/08(約9年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
波照間島 クチコミ:15件
遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)、波照間島で生まれ後に石垣へと移った15世紀末の豪族です。その生い立ち等には不明な点が多いものの、日本人離れした精悍な顔つき、赤茶けた縮れ毛といった独特の風貌の持ち主であり、そのことから?アカハチ?と名付けられたとされる伝承も残っています。
石垣島大浜を拠点としたオヤケアカハチは、ほとんどの島の住民を味方に引き入れ、当時別勢力であった宮古島の仲宗根豊見親と八重山の長田大主が計る琉球王府に従うことに真っ向から対立したことによって溝を深めていきました。そして折しも第二尚氏王朝第三代尚真王は中央集権化を進めることによって強力な王府を作り上げる最中という状況下にありました。そこに出てきたオヤケアカハチという人物、王府に従うことに対して八重山になにもメリットがないという信念で?義民兵?を募るものの、これが仲宗根豊見親によって琉球王府に伝えられ、それによって琉球王府は八重山に大軍を率いて押し寄せます。
オヤケアカハチの軍勢は約1,500人と言われています。そこに乗り込んできた軍船46隻に3,000名もの兵士の上陸を躊躇わせたのは、急峻な地形と住民の女性による呪文だったとされています。しかし竹やりや鎌くらいしか武器を持たないアカハチの軍勢は多勢に無勢1週間ほどでオヤケアカハチも討たれ、八重山の反乱は沈静化されました。
そして琉球王国の属国となった八重山諸島を更なる悲劇が襲います。1609年に琉球に侵攻した薩摩藩の圧力を受け、宮古・八重山の島々に?人頭税?を課されることになります。370年もの間八重山や宮古を苦しめた悪税の発端は、考え方によっては琉球王府に近付こうとして近付けなかったオヤケアカハチの乱の鎮圧に始まっているのではと思えるところが多々あります。結局中山の臣下として役職は与えられたものの、それは個人の問題であって住民のことなど何も考えていなかったためと考えることが理に適っていると思えてなりません。今なおオヤケアカハチを慕う人々がたくさんおられるというのは、個人的な利権に捉われず?義?を貫き通した彼に賛同する気持ちが持てるということに他なりません。武器らしい武器もなく、戦いを挑むのは無茶だったかも知れませんが、それには大義名分があったと思えてなりません。
オヤケアカハチの碑はアカハチ生誕の地とされていますが、歩いてすぐの所に後にて敵対した長田大主生誕の地があるのは、なにか因果めいたものを感じずにはいられませんでした。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港から車で15分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもおられません。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があり、舗装もされていません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 石碑が残るのみです。
クチコミ投稿日:2016/08/13
いいね!:9票
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