安土城に次ぐ近江の名城と言われていました。~坂本城~
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- 旅行時期:2016/02(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
大津 クチコミ:111件
琵琶湖西岸の坂本の地に城が築かれたのは元亀3(1571)年織田信長の比叡山焼き討ちの後、配下の築城の名手明智光秀によって築かれたました。比叡山と京の都の抑えとしての役割と、琵琶湖を下る物資の管理等を行うべく作られたようです。
湖城・平城という形態は後の大津城や膳所城と同じで、決して戦向けのものではありませんでした。天正8(1580)年には丹波亀山城主となるも坂本城主も兼ねていた光秀でしたが、天正10(1582)6月2日に主君織田信長を本能寺に急襲し、信長・信忠親子を自害に追い込みます。しかし6月13日には天王山の戦いに於いて秀吉に敗れた光秀は、坂本城へと落ち延びる途中、山科の小栗栖で農民の竹槍に刺されて深傷を負い自害しました。
一方安土城を攻め落とした娘婿の明智秀満は、天王山の敗戦を知り坂本城へと引き返すものの、途中秀吉方の猛将堀秀政に攻められて、手勢のほとんどを失います。そこで秀満が取った行動がなんと?琵琶湖に馬に乗り入れる?ことでした。これには堀秀政も呆気に取られたと同時に、武士の情けで攻撃を止めさせたとの逸話も残っています。
無事柳が崎付近に上陸はできたものの、坂本城は既に堀秀政をはじめとする秀吉方に取り囲まれていました。もはやこれまでと悟った秀満は、光秀の妻子を殺害し城に火を放ちました。弾薬庫につけられた火は誘爆を引き起こし、城郭は木っ端微塵に飛び散ったとされています。
その後秀吉の天下統一の過程に於いて地の利を生かした坂本城は、丹羽長秀によって再建はされますが、その後天正14(1586)年浅野長政により大津城が築城され、坂本城は廃城となります。
不思議と言えば不思議なことなのですが、実はこの坂本城跡、昭和54(1979)年まで一度も発掘されていませんでした。たまたま城跡中心部で大規模な宅地開発かされることに伴った発掘によって明らかにされたものが大半であることは知らない方も多いと聞いています。主君に刃を向けた明智光秀は、?逆賊?として有名になってしまっているところはあるものの、やはり地元では名君の誉れ高く伝わっています。
琵琶湖を望める湖城の跡、景色は変わりましたが今なお絶景が広がる場所として訪れて頂きたく思います。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 国道161号線沿いにあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見学に来られている方はおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあります。明智光秀が見ていただろう琵琶湖の景色が広がります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 明智光秀が見ていただろう琵琶湖の景色が広がります。
クチコミ投稿日:2016/02/23
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