琉球王国時代の築城の名手護佐丸が構築した名城~座喜味城跡~
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- 旅行時期:2015/06(約11年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
恩納・読谷 クチコミ:14件
沖縄島中部読谷村に位置する座喜味城跡(ざきみぐすくあと)は、琉球王国(中山)の按司(あじ:豪族のような地方の支配者)であった築城の名手護佐丸の手によって作られたとされています。琉球王国第一尚王朝二代国王尚巴志の北山征伐軍の総大将に若くして抜擢され、北山攻略の立役者となります。その後北山守護職となった護佐丸は、旧居城から石材を運ぶなどして?新居城?を構築、石積みの手法を考えて強度と曲線美を兼ね備えた?座喜味城?は、見る人々を唸らせ、?築城の名手?と呼ばれるようになりました。その後中山から尚忠が北山守護として送られ、居城である座喜味城跡にて18年間静かな生活を送ったそうです。
その後中城に転封となり、中城城を構築するも謀反の疑いを掛けられて、琉球王府の軍勢に攻め立てられます。武将としての名声もあった護佐丸でしたが、?王府に対し謀反の心なし?と伝え、王府軍に抵抗もせず妻子とともに自害しました。
諸説はあるものの護佐丸がこの座喜味城で過ごした18年間が、なにもなくて一番幸せな機関だったとされています。鉄の暴風の戦場にあって少し軍施設と離れていたことが被害を少なくしたひとつの理由でもありました。戦後は米軍のレーダー基地が置かれた時期もありましたが、本土返還を機に国の史跡に指定されました。
沖縄本島で全く沖縄戦に無関係な場所は皆無だと思います。しかしこの座喜味城跡はその戦いの中を掻い潜ってきて、往時の様子を今に伝える数少ない史跡のひとつです。城壁からは残波岬や慶良間諸島までも望むことができます。戦争の爪痕そのものの史跡を訪れることは勿論有意義なことですが、逆に爪痕の残っていない史跡で戦争を考えること、それも必要なことかも知れません。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 国道58号線から20分位。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元はあまりよくありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 石組は勿論風景も!
クチコミ投稿日:2016/01/04
いいね!:5票
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