インパクトのある赤間神宮の片隅にある塚に秘められた...
- 3.0
- 旅行時期:2014/03(約12年前)
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by rupannさん(女性)
下関 クチコミ:16件
旅行記を残すようになって
旅先の色々を戻ってから調べるようになりました。
片隅にひっそりとあった塚に諸々ある事を知りました。
天明年間(1781-1789)のこと、海峡に嵐が続き
九州へ渡る船や漁船の遭難が続出し
海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは
生計がたたず大変困っていた。
そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に
泣き叫ぶ男女の声を聞いたので闇をすかしてみると
そこには成仏できずに海上をさまよっているたくさんの平家武者と
官女の亡霊の姿があった。
漁師たちはこの災難は平家一族の怨念によるたたりであろうと考え
其れまで供養する人もなく荒れるにまかせていた平家の墓を一カ所に集め
京都の方に向けて手厚く供養したところ翌日からは嵐はうそのように
おさまったという。
この七盛塚は前列右から有盛(ありもり)、清経(きよつね)、資盛(すけもり)、教経(のりつね)、経盛(つねもり)、知盛(とももり)、教盛(のりもり)。後列は徳門、忠光、景継、景俊、盛継、忠房、二位となっており、盛りの付くのは六基しかないが、俗に七盛塚と言われ墓碑ではなく平家一門の供養塔と考えられている。
また七盛塚の後ろには、たくさんの小さな五輪塔が
肩を寄せ合うように埋もれているが、紅石山の土が雨に洗われるたびに
少しずつ姿を現すと言われ、平家痛恨の執念を見るような雰囲気である。
小泉八雲の「耳無し芳一」が平家武者の怨霊にとりつかれて、真夜中にこの一門の前で琵琶を弾じたことを想像すると、今にもチラチラと鬼火が浮かんでくるような怪しい心地がして、平家滅亡の哀れさがしみじみと胸にせまってくる。
(サンデー下関 1997年11月7日号より引用)
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2014/04/24
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