塩浜は142町歩、田畑200町歩を有する備前きっての大地主野崎武左衛門の大邸宅
- 5.0
- 旅行時期:2013/06(約11年前)
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by 吉備津彦さん(男性)
鷲羽山・児島・瀬戸大橋周辺 クチコミ:4件
素晴らしい大邸宅でした。江戸時代後期、天保から嘉永年間に次々と増築された建物がある邸宅です。敷地面積は約3000坪・建物延床面積は、1000坪弱。
野崎武左衛門の生家は多田屋と言う。もともと裕福な家だったが、父貞右衛門のとき、塩浜に手を出して失敗、家財を失ったため、武左衛門は貧苦のなかで育った。彼はその頃、児島郡で繁盛していた機織りに目をつけ、足袋の製造及び行商を開始し、その販路を九州から大坂まで広げたが、やがて足袋製造業の限界を見極め親戚筋にあたる播磨屋喜太郎・中島富次郎らの協力を得て、塩田開発に着手した。
まず最初に手がけたのが味野村・赤碕村の沖に築いた野崎浜48町8反歩の塩田で、1827(文政10)年から1829年にかけて完成した。野崎の姓はこの塩浜の名からとったものである。児島駅付近はその跡地で、その東側の児島味野町は、製塩に使用した石炭殻・コークスかすのアスを捨てて埋め立てた所である。武左衛門は、その後、日比村・向日比村(現玉野市)沖に亀浜を開き、さらに山田村・胸上村(現玉野市)沖一帯に73町9反余の野崎浜を開いた。現在はその一角でイオン交換樹脂膜法による電気製品の内海塩業の山田工場が操業を続けている。
武左衛門は塩浜だけでなく、耕地の開発も行っており、福田新田は、現在、水島臨海工業地帯の一部や背後地となっている。塩浜は142町歩、田畑200町歩を有する備前きっての大地主となった武左衛門は、塩田と新田開発の功労によって大庄屋格となった。
江戸時代後期商品経済が発展し豪商や大庄屋に富が集まり武士階級を凌駕していたことを如実に表す豪邸でした。
太平洋戦争中に造られた防空壕がとても印象的でした。
近くには桃太郎ジーンズ店もあり楽しめます。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2013/06/22
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