津市一身田(いしんでん)町は、弥生文化の原始時代から小さな農業集落だったが15世紀に高田(栃木県)専修寺真慧(しんね)が...
続きを読む専修寺(当時は無量壽院)を建設し東海北陸地方の布教活動の拠点としたことで発展し、後に戦火で荒廃した高田専修寺にかわり一身田が高田教団の中心となり寺内町・一身田はさらに発展した。JR一身田駅から徒歩約5分で津市一身田(いしんでん)町まで行ける。
一身田(いしんでん)町は16世紀からは、町の周囲に環濠を作り、専修寺を中心とした宗教都市の様相を呈するようになった。「戦国時代、真宗寺院を中心に濠・堀などで防禦された自治都市」を寺内町というが一身田はその典型と言われている。
濠(堀)は東西約500米、南北400米で、町への入口は「黒門」「赤門」「桜門」の3箇所しかなく、夜は閉じて不審者を侵入させず一身田町民は全員が真宗高田派の門徒で「同行」と言われる隣組に組織された住民自治が進んだ。専修寺は幕府から専修寺に渡された銀子を低利で融資したので商工業が発展した。
環濠は昔にくらべて幅が狭くはなっているが昔のままのところに残っている。 ”一身田”という地名は、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に特別にその身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたといわれている。
明治以降一身田町の支配は本山から離れ、1874年には桜門・黒門・赤門の三門が売りにだされ、寺内町も解体された。現在は、当時の面影を残す所は数少なくなったそうだが環濠をはじめ、古い寺内町の雰囲気がよく残っている。
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投稿日:2012/02/18