野崎観音【慈眼寺】
寺・神社・教会
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野崎観音【慈眼寺】 クチコミ・アクセス・周辺情報
大東・四条畷 観光 満足度ランキング 2位
飯盛山の山麓にあり、「野崎観音さん」と親しまれてきた慈眼寺。行基が彫ったと言われる十一面観世音菩薩を本尊とする。永禄8年(1565)の三好・松永の兵により寺は全焼し、本尊の観音像だけが残った。元和2年(1616)青厳和尚が寺を復興、元禄宝永ごろ(1688?1710)、野崎参りが盛んになると共に、お寺も繁栄。「野崎参り」とは、春秋に無縁経の法会に参拝することだが、舟で行く人と陸で行く人とで罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたという俗信があり、たいへん賑わっていたと、近松門左衛門の「女殺油地獄」や、近松半二の「新版歌祭文」、落語の「のざきまいり」、東海林太郎の「野崎小唄」、お染久松の恋物語などからも伝わっている。現在も、毎年5月1?10日の期間中には、JR学研都市線野崎駅前より野崎観音までの参道には300軒ほどの露店が建ち並び20万人を越える人出で賑わう。寺宝として釈迦涅槃図を蔵しており、境内には、松尾芭蕉の句碑などもある。
クチコミ・評判 2ページ目
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「野崎小唄」、「お染久松の心中」で知られる野崎観音
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- 旅行時期:2009/10(約16年前)
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福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)は、大東市にある寺院で通称野崎観音(のざきかんのん)として知られている。
すべてのも... 続きを読むのに感謝を捧げる参拝「野崎参り」で知られ、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん1653−1725年)の「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」、近松半二(ちかまつ はんじ1728−1786年)のお染久松の心中を扱った新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)の「野崎村の段」、落語「のざきまいり」、東海林太郎(しょうじ たろう1898−1972年)のヒット曲「野崎小唄」など人形浄瑠璃、落語、歌謡曲などいろいろな分野の作品にたくさん登場している。境内には南條神社や修験道の開祖とされ通称役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる役小角(えんのおづぬ伝634−706年)の像もあり、野崎観音に神仏習合や修験道など多様な宗教の歴史があったことを示している。
本堂の隣には中興の祖といわれる摂津国の遊女で長者・江口の君を祀り、婦人病と子授けに御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子・十六羅漢(じゅうろくらかん)を祀る羅漢堂、「野崎小唄」の歌碑、お染・久松の「供養塚」などがある。
慈眼寺は天平年間(749−757年)にインドから来朝した婆羅門僧正(バラモンそうじょう704−760年)が行基(ぎょうき668−749年)に「野崎は釈迦が仏法を説いたサルナートに似ている」と語り行基が十一面観音を刻んで安置したのが始まりと伝えられる。
かつては大坂からつながる深野池があり、大坂・天満橋の八軒家船着場(はちけんやふなつきば)から野崎参りの屋形船が行き来していたようすが名曲「野崎小唄」に描かれている。
野崎小唄
今中楓渓( いまなか ふうけい1883−1963年 ) 作詞
大村能章(おおむら のうしょう1893−1962年) 作曲
野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んで見ようか 土手の人
野崎参りは 屋形船でまいろ お染久松 切ない恋に 残る紅梅 久作屋敷 今も降らす 春の雨
野崎参りは 屋形船でまいろ 音にきこえた 観音ござる お願かけよか うたりょか滝に 滝は白絹 法の水
野崎観音の南條神社の境内からは屋形船はもう見えないが野崎周辺の街並みが良く見えた。
野崎観音--http://www.nozakikannon.or.jp/about/index.html
日本の旅 関西を歩く 大阪、大東市の野崎観音周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10393264/
(写真は野崎観音)
閉じる投稿日:2010/11/10
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