該社は秩父市中心部に所在する創建2000年余と伝承される古社で、宝登山神社、及び、三峰神社と共に秩父三社と称されるが、武蔵...
続きを読む國に於ける一之宮は該社を含め3社存在するが、氷川神社、氷川女躰神社に対し、該社は後述する成立過程の関係から、前記2社に対し新一之宮として位置付けられる。
該神社祭神は、
八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
知知夫彦命(ちちぶのみこと)
天之中主神(あめのみなかぬしのかみ)
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひと しんのう)
の御4柱である。
現在に於ける旧秩父郡は古代期に於いて武蔵國とは別個に知知夫國を形成する独立した存在だった。
即ち、第10代崇神帝(すいじん てんのう)(開化10年(前148年)〜崇神68年(前29年)1月29日)在位中に、國政務や祭祀奉伺の國造が知知夫國に設置されたのは、武蔵國に先達約1世紀以前だった史実は、國造本紀に拠り明白であり、更に、國造本紀に於ける記述に、國造任命と共に該社創建が併記されている。
然るに、現存する天正20年(1592年)に該社再建時の棟札に、「当社開基者仁王三十代、欽明天皇御宇 明要六年丙寅奉祝 以而来今天正廿年壬辰 一千百四十六年也」
との記述が有り、仮に該記述が事実なら、第29代 欽明天皇(きんめい てんのう)(継体3年(509年)〜欽明32年(571年)5月2日)の御世が事実ならば、崇神帝より19代後の時代である事になるが、該社が既に古代期に成立を見た事は間違い無い様である。
その後、奈良期末期に知知夫國は武蔵國に編入されたが、平安初期に於いてですら尚相当勢力を有しており、該社も諸勢力に支援され繁栄が継続されていたものと推定される。
天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月に於ける30年間の記録を編纂した 三代実録(さんだい じつろく) に於いて、全国各地に所在する神社に対する神階奉授記録を精査すると、武蔵國西北部、即ち、現在の埼玉県内に於ける神階奉授初期の段階では、該社が最高位に叙され、次いで、足立郡氷川神社が位置するが、貞観7年(885年)ともなると、該社が正五位上に位置するのに対し、氷川神社は正四位下に昇進し上下位関係が逆転する。
延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に於いて、氷川神社、及び、金佐奈神社が名神大に位置するのに対し、該社は名神小に位置し、勢力上に於ける変遷を証明するものと推定される。
然るに、該社は延喜式記述を最後に、明治維新に至る約940年間、歴史上から該社が登場する事も無くなり消滅する。
即ち、京都朝廷勢力衰退と共に律令制度に於ける保護制度が崩壊をもたらし、該社支援の地方豪族衰退と共に該社も亦衰徴した為であると推定される。
天慶ノ乱(てんぎょうのらん)(天慶2年(939年)に於いて、平将門(たいらの まさかど)(生年不詳〜天慶3年(940年)3月25日)を相手に戦った平 良文(たいらの よしふみ)(仁和2年(886年)4月29日〜天暦6年(953年)1月11日)は、染谷川合戦(そめやがわのかっせん)直前に、上野國群馬郡花園村在の妙見菩薩に願を掛け将門軍撃破に成功した事から、該合戦以降、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後に、孫の、千葉将常(ちば まさつね)(生没不詳)が秩父に於いて居住時に花園村妙見菩薩を勧請した事から秩父妙見社創建嚆矢となったが、秩父平氏が成立し妙見社繁栄に反比例し、次第に式内社秩父神社が忘却される結果を招いた。
妙見社勧請当時は大野原に鎮座したが、嘉禄元年(1235年)に該社が落雷被害に遭遇し社殿が全焼した為に、翌嘉禄2年(1236年)に鎌倉幕府は該社再建を命じたが、然し、着工に至るまで年月を要し、正和3年(1314年)に社殿が竣工し遷宮が実施された。
然るに、該社復興は応永4年(1397年)7月に、鎌倉幕府が命令が発せられるまで困難を極める。
武田信玄(たけだ しんげん)(大永元年(1521年)12月1日〜元亀4年(1573年)5月13日)は、永禄12年(1562年)に甲斐國から秩父に攻入り、敵方有力拠点殲滅の為に、秩父郡内有力社寺を焼捨され、鎌倉期に造営された該社建築物は尽く烏有に帰したが、同年に信玄が病没し武田家が混乱状態の為に戻り落ち着きを見せた事から、地元氏子達は天正元年(1573年)に直ちに復旧に着手し仮殿が設置された。
天正7年(1579年)に、鉢形城主 條氏邦(ほうじょう うじくに)(天文10年(1541年)〜慶長2年(1597年)9月19日)は、社領7石を寄進すると同時に該社再建に乗り出したが、天正18年(1590年)6月14日に鉢形城が落城し降伏した為に、氏邦に依る再興は成立し得なかった。
然し、翌天正19年(1591年)に徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日〜元和2年(1616年)6月1日)より社領50石が加増された事で計57石となり、此れを基に、翌20年(1592年)に本殿、拝殿、及び、幣殿が造営され、此れらは殆ど現存する。
江戸期作成の絵図面に拠れば、境内中央に妙見社が存在し、該社殿を取り囲むが如く、天照大神宮(伊勢内宮)、豊受大神宮(伊勢外宮)、神宮司宮、及び、日御崎社が配されているが、神宮司社こそ、実は、秩父神社の衰徴した末の姿であるとされていたが、本来神社境内にも拘らず、我が国固有の神々が仏教寺院を囲僥すると言ふ、半ば変態的形態を呈していた。
明治維新(めいじいしん)(明治元年(1868年)の神仏分離では、該社は妙見社から古来の秩父神社の旧号に復名され、祭神も、八意思兼命、及び、知知夫彦命の2柱に改められ、神宮司社は廃止された。
また、妙見社祭神たる妙見大菩薩は天之御中主神として祀られるなど、他の神社の如き明治維新の王政復古と共に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響は少なく、神仏分離後に於いても、妙見に対する一般庶民信仰は尚衰える事無く推移し、今日に於いても 妙見様(みょうけんさま)の通称で親しまれている事は廃仏毀釈に依り、仏教関係が徹底的に排除された他神社と比較して恵まれた存在だったと言える。
秩父宮雍仁(ちちぶのみや やすひと)(明治35年(1902年)6月25日〜昭和28年(1953年)1月4日)親王は、大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)の第2子で昭和天皇(しょうわてんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)の弟宮である。
雍仁親王の秩父方面初訪問は、大正3年(1914年)11月2日に長瀞を探索されたのが嚆矢である。
大正11年(1922年)6月25日に成年式挙行に際し独立し、宮号に就いて、それ迄の慣習として主として山城大和方面の地名から選別されていたが、近畿の名称に命名されず関東地区たる秩父宮と称号された事から、秩父方面住民にとって感極まる事態と言えた。
同年10月26日に該社に初行啓されたのを嚆矢とし、大正14年(1925年)5月11日に再行啓、勢津子妃との婚姻後たる昭和8年(1933年)8月15〜20日には秩父方面に御滞在された際も行啓し計3回参拝された。
秩父宮は該地域を再訪される事無く昭和28年(1953年)1月4日に薨去されたが、該神社では秩父宮の生前の遺徳を偲び、同年11月26日に御尊霊を合祀され現在に至る。
明治4年(1871年)7月1日附 郷社指定
明治6年(1873年)4月 縣社指定
昭和3年(1928年)11月10日 國幣小社指定
秩父神社(ちちぶ じんじゃ)
秩父市番場町1−3
?: 0494−22−0262
5〜9月 5:00〜20:00
3〜4月、及び、10〜11月 5:30〜20:00
12〜2月 6:00〜20:00
秩父鉄道秩父駅 徒歩2分
http://www.chichibu-jinja.or.jp/
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投稿日:2012/10/25