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日本百名城の名古屋城の紹介です。再建工事の最終段階が近付いてきた、本丸御殿の建設現場を紹介します。ヘルメットを被っての見学でした。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

2017春、日本百名城の名古屋城(4/6):本丸、東南隅櫓、本丸御殿建設現場、施工説明パネル

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2017/05/24 - 2017/05/24

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旅人のくまさん

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日本百名城の名古屋城の紹介です。再建工事の最終段階が近付いてきた、本丸御殿の建設現場を紹介します。ヘルメットを被っての見学でした。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

交通手段
私鉄

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  • 国の重要文化財の『本丸表二之門』の光景です。名古屋城に残る、数少ない創建当時からの建造物の一つです。(同上)

    イチオシ

    国の重要文化財の『本丸表二之門』の光景です。名古屋城に残る、数少ない創建当時からの建造物の一つです。(同上)

  • 『本丸表二之門』を潜る前に撮影した、国の重要文化財の『東南隅櫓』の光景です。普段は閉鎖されていますが、イベントの際などには内部が開放されることがあります。(同上)

    『本丸表二之門』を潜る前に撮影した、国の重要文化財の『東南隅櫓』の光景です。普段は閉鎖されていますが、イベントの際などには内部が開放されることがあります。(同上)

  • 半ば松の庭木に隠れてしまいましたが、『本丸表二之門』近くから眺めた、『西南隅櫓』の光景です。こちらも国の重要文化財の建物です。(同上)

    半ば松の庭木に隠れてしまいましたが、『本丸表二之門』近くから眺めた、『西南隅櫓』の光景です。こちらも国の重要文化財の建物です。(同上)

  • 『本丸表二之門』のタイトルがあった説明立札の光景です。旧名は名古屋南門、現存する名古屋城築城当時の建築物であり、国の重要文化財であることなどが紹介されていました。(同上)

    『本丸表二之門』のタイトルがあった説明立札の光景です。旧名は名古屋南門、現存する名古屋城築城当時の建築物であり、国の重要文化財であることなどが紹介されていました。(同上)

  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて、城の整備を進めました。慶長6年(1601年)の膳所城に始まり、加納城、二条城、伏見城、江戸城、彦根城、駿府城、篠山城、丹波亀山城などの築城・拡張を行いました。慶長15年(1610年)1月、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請を命じました。その当時からの石垣のようです。(同上)

    慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて、城の整備を進めました。慶長6年(1601年)の膳所城に始まり、加納城、二条城、伏見城、江戸城、彦根城、駿府城、篠山城、丹波亀山城などの築城・拡張を行いました。慶長15年(1610年)1月、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請を命じました。その当時からの石垣のようです。(同上)

  • 内側から眺めた、『本丸表二之門』の光景です。説明立札には、本瓦葺きの高麗門と紹介されていました。本丸御殿工事中の損傷防止に、その門の内側には臨時設置された養生用の門がありました。(同上)

    内側から眺めた、『本丸表二之門』の光景です。説明立札には、本瓦葺きの高麗門と紹介されていました。本丸御殿工事中の損傷防止に、その門の内側には臨時設置された養生用の門がありました。(同上)

  • 全体の建物の完成が近くなってきた、本丸御殿の玄関光景です。完成した分は、入場見学ができます。見学用の入口はこの玄関ではなく、この建物の右奥に設けてあります。(同上)

    全体の建物の完成が近くなってきた、本丸御殿の玄関光景です。完成した分は、入場見学ができます。見学用の入口はこの玄関ではなく、この建物の右奥に設けてあります。(同上)

  • 玄関より左手側の建物光景です。この辺りは既に工事が完了し、内部開放されているエリアです。左端に、現在の工事区域の屋根覆いが見えました。(同上)

    玄関より左手側の建物光景です。この辺りは既に工事が完了し、内部開放されているエリアです。左端に、現在の工事区域の屋根覆いが見えました。(同上)

  • 今日の本丸御殿の見学目的は、完成した部分ではなく、工事中の部分です。ヘルメットを着用しての見学になります。その入口の案内表示です。(同上)

    今日の本丸御殿の見学目的は、完成した部分ではなく、工事中の部分です。ヘルメットを着用しての見学になります。その入口の案内表示です。(同上)

  • 最終になる第三期工事は、上洛殿・黒木書院・御湯殿書院など、約850平方メートルの建物工事です。第三期工事は、2014年1月に工事着手され、2018年3月の完成目途とされます。四年余の工事期間です。檜皮葺らしい、大屋根工事の現場光景です。(同上)

    最終になる第三期工事は、上洛殿・黒木書院・御湯殿書院など、約850平方メートルの建物工事です。第三期工事は、2014年1月に工事着手され、2018年3月の完成目途とされます。四年余の工事期間です。檜皮葺らしい、大屋根工事の現場光景です。(同上)

  • 見学通路の各所に掲示してあった説明文と写真などです。この説明パネルのタイトルは、『本丸御殿の概要』でした。その見出しの『本丸御殿の概要』では、かつては、二条城の『二の丸御殿』と並ぶ武家風書院建築の双璧と紹介されていました。『重要文化財について』の見出しでは、名古屋城五本丸御殿の障壁画は、狩野派の狩野定信や探幽により描かれたと紹介されていました。(同上)

    見学通路の各所に掲示してあった説明文と写真などです。この説明パネルのタイトルは、『本丸御殿の概要』でした。その見出しの『本丸御殿の概要』では、かつては、二条城の『二の丸御殿』と並ぶ武家風書院建築の双璧と紹介されていました。『重要文化財について』の見出しでは、名古屋城五本丸御殿の障壁画は、狩野派の狩野定信や探幽により描かれたと紹介されていました。(同上)

  • 『在りし日の本丸御殿』のタイトルの説明パネルです。『本丸御殿』は慶長20年(1615年)に完成し、初代義直公の住居と藩の政庁として使われましたが、義直公が『二の丸御殿』に移ってからは、将軍上洛時の宿舎となったことが紹介されていました。4枚の写真は、第二次大戦での焼失前のものです。(同上)

    『在りし日の本丸御殿』のタイトルの説明パネルです。『本丸御殿』は慶長20年(1615年)に完成し、初代義直公の住居と藩の政庁として使われましたが、義直公が『二の丸御殿』に移ってからは、将軍上洛時の宿舎となったことが紹介されていました。4枚の写真は、第二次大戦での焼失前のものです。(同上)

  • 『本丸御殿の美術』のタイトルの説明パネルです。『本丸御殿』の各部屋に飾られていた襖絵、天井画などは狩野派によるもので、取り外して戦災を免れた障壁画は、戦後3回に亘って、計1047面が国の重要文化財に指定されたことが紹介されていました。玄関、表書院、対面所と上洛殿の主な作品が写真紹介されていました。(同上)

    『本丸御殿の美術』のタイトルの説明パネルです。『本丸御殿』の各部屋に飾られていた襖絵、天井画などは狩野派によるもので、取り外して戦災を免れた障壁画は、戦後3回に亘って、計1047面が国の重要文化財に指定されたことが紹介されていました。玄関、表書院、対面所と上洛殿の主な作品が写真紹介されていました。(同上)

  • 全体の完成が近付いてきた、本丸御殿の工事現場の光景です。檜皮葺らしい大屋根の工事が着々と進んでいました。『檜皮葺(ひわだぶき)』は、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工します。 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法とされます。(同上)

    イチオシ

    全体の完成が近付いてきた、本丸御殿の工事現場の光景です。檜皮葺らしい大屋根の工事が着々と進んでいました。『檜皮葺(ひわだぶき)』は、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工します。 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法とされます。(同上)

  • 同じく、建物全体の工事完成が近づいてきた、本丸御殿の工事現場の光景です。1階辺りの作業現場の光景です。木造建築ですが、足場は金物で組まれていました。中国や東南アジアの国ですと、丸竹の足場になるところです。(同上)

    イチオシ

    同じく、建物全体の工事完成が近づいてきた、本丸御殿の工事現場の光景です。1階辺りの作業現場の光景です。木造建築ですが、足場は金物で組まれていました。中国や東南アジアの国ですと、丸竹の足場になるところです。(同上)

  • 建物全体の工事完成が近づいてきた、本丸御殿の工事現場の光景が続きます。中央やや左奥に組み上がった屋根が見えていました。まだ檜皮は葺かれていません。少し小型の建物でした。檜皮は、樹齢70年以上の充分な樹径のある檜からむいた皮を成型した檜皮を用います。 檜を伐採せずに、表皮だけを剥がすように採取されます。(同上)

    建物全体の工事完成が近づいてきた、本丸御殿の工事現場の光景が続きます。中央やや左奥に組み上がった屋根が見えていました。まだ檜皮は葺かれていません。少し小型の建物でした。檜皮は、樹齢70年以上の充分な樹径のある檜からむいた皮を成型した檜皮を用います。 檜を伐採せずに、表皮だけを剥がすように採取されます。(同上)

  • 四段階に分けて解説してあった、『土壁』の説明パネルです。その内容は、<br />①荒壁土作成:土と藁に水を加えて練り、半年寝かせた素地です。<br />②小舞下地:割竹を藁で縛った、土壁の下地となる骨組みです。<br />③荒壁塗:こてを使った土塗です。<br />④斑直し:荒壁面の凹凸などの修正です。<br />の四段階でした。(同上)<br />

    四段階に分けて解説してあった、『土壁』の説明パネルです。その内容は、
    ①荒壁土作成:土と藁に水を加えて練り、半年寝かせた素地です。
    ②小舞下地:割竹を藁で縛った、土壁の下地となる骨組みです。
    ③荒壁塗:こてを使った土塗です。
    ④斑直し:荒壁面の凹凸などの修正です。
    の四段階でした。(同上)

  • 16枚の写真で説明されていた、『障壁画復元工程」のタイトルがあった説明パネルです。『復元模写』の工程解説でした。併せて、東京芸大で学ばれた指導者の加藤純子さんのことが紹介されていました。平成15~17年に、『国宝・源氏物語絵巻』を復元模写された方です。(同上)

    16枚の写真で説明されていた、『障壁画復元工程」のタイトルがあった説明パネルです。『復元模写』の工程解説でした。併せて、東京芸大で学ばれた指導者の加藤純子さんのことが紹介されていました。平成15~17年に、『国宝・源氏物語絵巻』を復元模写された方です。(同上)

  • 『絢爛豪華な室内装飾』のタイトルがあった説明パネルです。建物そのものが『美術館』と呼ぶに相応しい、室内装飾の写真紹介でした。徳川御三家の筆頭の格式を意識させる豪華さです。(同上)

    『絢爛豪華な室内装飾』のタイトルがあった説明パネルです。建物そのものが『美術館』と呼ぶに相応しい、室内装飾の写真紹介でした。徳川御三家の筆頭の格式を意識させる豪華さです。(同上)

  • 1615年(慶長20年)に完成した、『在りし日の本丸御殿』のタイトルの説明パネルです。当初は初代藩主の義直公の住居で、尾張藩の成長となりましたが、義直公が二の丸御殿に移ってからは、将軍上洛の際の宿舎となりました。写真の緋狩り橋は、焼失した室内装飾光景、その右の列が取り外されて焼失を免れた障壁画などです。(同上)

    1615年(慶長20年)に完成した、『在りし日の本丸御殿』のタイトルの説明パネルです。当初は初代藩主の義直公の住居で、尾張藩の成長となりましたが、義直公が二の丸御殿に移ってからは、将軍上洛の際の宿舎となりました。写真の緋狩り橋は、焼失した室内装飾光景、その右の列が取り外されて焼失を免れた障壁画などです。(同上)

  • 『年表』のタイトルがあった縦書きの一覧表です。右端が一番古い時代の1600年(慶長5年)の関ヶ原での徳川家康の勝利、尾張を手中に収め、四男の松平忠吉を清州城主にしました。左端が、1959年(昭和39年)の天守閣の再建の記述です。(同上)

    『年表』のタイトルがあった縦書きの一覧表です。右端が一番古い時代の1600年(慶長5年)の関ヶ原での徳川家康の勝利、尾張を手中に収め、四男の松平忠吉を清州城主にしました。左端が、1959年(昭和39年)の天守閣の再建の記述です。(同上)

  • 『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルです。着工前の空撮写真、昭和期の実測平面図をベースに、その周りに、本丸御殿のモノクロ写真などが添えられていました。(同上)

    『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルです。着工前の空撮写真、昭和期の実測平面図をベースに、その周りに、本丸御殿のモノクロ写真などが添えられていました。(同上)

  • 『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルの中の、着工前の空撮写真のピックアップでの紹介です。右下に、名古屋空襲で焼失する前の天守閣と本丸御殿が一緒に写ったモノクロ写真が添えられていました。(同上)

    『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルの中の、着工前の空撮写真のピックアップでの紹介です。右下に、名古屋空襲で焼失する前の天守閣と本丸御殿が一緒に写ったモノクロ写真が添えられていました。(同上)

  • 『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルの中の、昭和期の実測に基づく『本丸御殿・平面図』のピックアップです。周りに、かつての『本丸御殿』のモノクロ写真が添えられていました。(同上)

    『名古屋城本丸御殿復元工事』のタイトルがあった写真パネルの中の、昭和期の実測に基づく『本丸御殿・平面図』のピックアップです。周りに、かつての『本丸御殿』のモノクロ写真が添えられていました。(同上)

  • 『名古屋城本丸御殿復元工事』と題されたイラストと、工事がいようと高低などの紹介パネルです。本丸御殿の完成予想図の背後には、大天守と小天守も描かれていました。(同上)

    『名古屋城本丸御殿復元工事』と題されたイラストと、工事がいようと高低などの紹介パネルです。本丸御殿の完成予想図の背後には、大天守と小天守も描かれていました。(同上)

  • 纏めて4枚紹介した、説明パネルの光景です。左上のパネルが、『上洛殿』の昭和初期の写真と完成予想図、その右のパネルが、上洛殿の装飾の細部説明でした。下の段の左のパネルは、第三期工事の上洛殿・上段之間の障壁画の紹介、その右のパネルが、上洛殿・一之間や三之間等の障壁画の紹介でした。『上洛殿』のほか、『黒木書院』と『湯殿書院』の障壁画の紹介でした。(同上)

    纏めて4枚紹介した、説明パネルの光景です。左上のパネルが、『上洛殿』の昭和初期の写真と完成予想図、その右のパネルが、上洛殿の装飾の細部説明でした。下の段の左のパネルは、第三期工事の上洛殿・上段之間の障壁画の紹介、その右のパネルが、上洛殿・一之間や三之間等の障壁画の紹介でした。『上洛殿』のほか、『黒木書院』と『湯殿書院』の障壁画の紹介でした。(同上)

  • 2016年(平成28年)6月2日に撮影された、工事途中の写真です。右から、対面所、孔雀の間、上御膳所、上洛殿、黒木書院と湯殿書院の表示がありました。公開されていたのが、右端の対面所だけの時期の写真です。(同上)

    2016年(平成28年)6月2日に撮影された、工事途中の写真です。右から、対面所、孔雀の間、上御膳所、上洛殿、黒木書院と湯殿書院の表示がありました。公開されていたのが、右端の対面所だけの時期の写真です。(同上)

  • 第三期工事の現場の見学を終えて、完成した建物の南側に回りました。この辺りの建物は、第二期工事で完成した、対面所などが入ったエリアになるようです。早くも、穴が開いてしまった障子の光景が見えました。(同上)

    第三期工事の現場の見学を終えて、完成した建物の南側に回りました。この辺りの建物は、第二期工事で完成した、対面所などが入ったエリアになるようです。早くも、穴が開いてしまった障子の光景が見えました。(同上)

  • 標示がありませんでしたが、『対面所』の出入口になるのでしょうか、本丸御殿の玄関は東南角近くにありましたが、それよりも西側にあった別の玄関です。(同上)

    標示がありませんでしたが、『対面所』の出入口になるのでしょうか、本丸御殿の玄関は東南角近くにありましたが、それよりも西側にあった別の玄関です。(同上)

  • 本丸御殿の東側を通って北側に回りました。東北側から眺めた現在の本丸御殿の光景です。右手に見える覆いがある分が2018年3月完成を目指している第三期工事エリア、中央右背後に見える建物は、小天守です。(同上)

    本丸御殿の東側を通って北側に回りました。東北側から眺めた現在の本丸御殿の光景です。右手に見える覆いがある分が2018年3月完成を目指している第三期工事エリア、中央右背後に見える建物は、小天守です。(同上)

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