2017/01/19 - 2017/01/19
553位(同エリア998件中)
ムッシュさん
天気は概ね晴天。本日は、広重の浮世絵で有名な薩垂峠を越えながら、蒲原宿から由比宿、興津宿へと西に進む。
【由比宿】
「慶長六年(1601)、江戸幕府は東海道に宿駅伝馬制を設け、由比宿はこの年に宿場として指定されました。東海道五十三次が確定したのは三代将軍家光のころで、由比宿は江戸から十六番目の宿駅でした。宿内には大名や高貴な人が宿泊する本陣、彼らの道中での馬や人足を調達する問屋場、一般旅客の宿泊・休憩する旅籠・茶屋などがありました。由比の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は、鎌倉時代より続く由比氏の系統で、江戸時代は代々「岩辺郷右衛門」を名乗りました。
天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、由比宿の町並みは東西五町半(約六〇〇メートル)、宿高は、三四〇石、人口は七〇七人、戸数は一六〇軒あり、このうち本陣一、脇本陣一、旅籠三二となっています。このように由比宿は小規模であったため、義務であった百人・百匹の常備の人馬をおくことができず、近隣の村を加宿とし応援をしてもらいました。
宿場の西端にある由比川は仮板橋で、大水が出るときは取り外すので川留め(通行止め)となりました。また、宿場の東西の入口には万一の攻撃に備えて街道をカギの手に曲げた桝形があり、今でもその面影を残しています。
由比宿の中心であった由比本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、離れ座敷がありました。惜しくもその多くは失われてしまいましたが、一三〇〇坪(約四三〇〇平方メートル)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣などが当時の姿を留めています。」(ウイキドペリアより)
- 旅行の満足度
- 5.0
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本日の富士山は白く、美しい。東名高速から見えた姿。
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ここは、由井。左東方は蒲原宿、右西方は由井宿。
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【由井一里塚】
由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文1661~71~71)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。 -
【由比宿東枡形跡碑】
東木戸口で由井宿到着です。
天保14年(1843)の頃由比宿の宿内家数は160軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠32軒で、宿内人口は約700人。東町、本町、西町で構成され、宿長は5町半(約600M)と小宿。
由比宿は「由井、油尹、湯居」などとも書かれたので、表記の名称の統一がなされた。越後の「親知らず」と同様な狭隘な土地に東海道本線や国道1号も通っている。「桜えび」と富士山絶景の場所「薩埵峠」で知られる地で、漁業と観光の町である。 -
【由比宿の七里役所跡の碑】
お七里役所は、紀州藩の専用宅急便組織で、通常は8日、急げば4日で江戸と紀州を行き来した。
【御七里役所の趾】
江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸・和歌山間(584キロ)に約七里(28キロ)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を来て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは由比駅における紀州家お七里役所のことである。この裏手に大正末年までお七里衆の長屋があった。(案内版)
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【正雪紺屋。由比正雪の生家。】
何代にもわたり紺屋を営む老舗で、現在も続いている。店には、蔀戸や、当時使用していた藍瓶や用心籠などが残され江戸時代の面影が色濃く残されている。
慶安4年(1651年)の「慶安の変」の首謀者由井正雪はこの家で生まれた。
正雪は、幕府の政策への批判、浪人の救済を掲げて、浪人を集め幕府転覆を計る。が仲間の裏切りから駿府で自刃した。
正雪は、江戸で楠木不伝に軍学を学び、神田の連雀町で多数の旗本や大名家臣に軍学を教えていた。改易等で浪人が20万人にも増えていた。それを憤った正雪は、浪人救済を掲げ、慶安4年(1651年)に江戸、駿府、京都、大坂で騒乱を起こすことを計画したが密告で発覚、府中で自決した。後に慶安事件と呼ばれるようになった。事態を重く見た幕府は、この後、改易等で浪人が出ないような対策(末期養子の緩和等)を講じるようになった。 -
400年続く染物屋(紺屋)で今も続いてる現役の商店。
「この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた
藍甕等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので昔の紺屋の様子を偲ぶことができます。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから正雪紺屋の屋号がつけられています。」 -
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【正雪紺屋】
染め物作業場跡。街道に面した宅内で直染めを生業とした。
表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より四百年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶などの染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれともいわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。(由比町教育委員会) -
【正雪紺屋】
現在の店先でも小物染め物を販売している。朝早く、わざわざ、閉まってたお店を開けて店内を見せて頂けました。ありがとうございました。 -
正雪紺屋の真向かいは、由比宿本陣跡で、現在は本陣公園として整備されている。公園内には”東海道広重美術館”、レストラン、観光案内所が建つ。
【由比宿本陣跡】
今川家の家臣として桶狭間で戦った由井氏が、この地に定住し、本陣となった。
通常の本陣とことなり、街道に家屋は面せず、石垣と木塀と水路で表を構成。
間口33間、奥行き40間、面積1300坪の敷地。
水路は馬の水呑み場(フォトは水路をのぞきこんでいる)、元は深さ2尺(約60cm)はありました。大名行列の馬に水を呑ませたり、馬体を洗いました。
公園内には、「東海道広重美術館」があります。
『馬の水呑場』
「この横の長い水路状の濠(幅1m、東西20m)は馬の水呑場といって、大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりした所です。
したがって水深も元は60cmもありました。屋敷の南の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。」
【由比本陣の沿革】
ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口三十三間(60m)、奥行き四十間(73m)、面積は千三百坪(4300㎡)あります。
この地に由比宿が定められたのは慶長六年(1601)徳川家康によって伝馬三十六匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。
また、ここに本陣が置かれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄三年(1560)主君今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死にし、その子権蔵光広が帰農して、この地に永住したことからはじまります。以来、由比本陣家は連綿として子孫あいつぎ当代の由比宏忠氏にいたっています。
由比町は平成元年、当主の理解をえて、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備し、敷地内に町民文化の振興と町の活性化の一助にと「東海道広重美術館」を開館しました。
いまや生涯学習の時代を迎え、町民に限らず広く来園者のみなさもの憩いの場・学習の場・交流ふれあいの場として活用されるよう希求いたします。これは由比本陣のルネッサンスといえます。
平成十年一二月 由比町教育委員会
【由比本陣】
ここは由比の本陣跡で屋敷の広さは約千三百坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
大名達が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された記念館の「御幸亭」といいます。付属の庭園は「松榧園」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
右手奥の洋館は広重美術館で、もとこの位置には土蔵が立ち並んでいました。 -
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本陣公園情報館には、掲示板にこんな表示が飾られていました。
東海道スタート地点の日本橋の絵も。スタートを思い出してパチリ。 -
公園内にある本陣の物見櫓(やぐら)です
由比宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒の宿場であった。宿内の総戸数は160軒。難所である薩垂峠を控えた宿場として、ここに泊まる客も多かったようだ。
【由比本陣の沿革】
ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口三十三間(600メートル)、奥行四十間(73メートル)、面積は千三百坪(4300平方メートル)あります。この地に由比宿が定められたのは慶長六年(1601)徳川家康によって伝馬三十六匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。また、ここに本陣がおかれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄三年(1560)主君今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死し、その子権藤光広が帰農して、この地に永住したことにはじまります。以来、由比本陣家は連綿として子孫あいつぎ当代の由比宏忠氏にいたっています。由比町は平成元年、当主の理解をえて、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備し、敷地内に町民文化の振興と町の活性化の一助にと「東海道広重美術館」を開館しました。いまや生涯学習の時代を迎え、町民に限らず広く来園者のみなさもの憩いの場・学習の場・交流ふれあいの場として活用されるよう希求いたします。(由比町教育委員会) -
由比宿 全景
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【由比・脇本陣跡】
しばらく歩くと、正雪紺屋の並びですが、脇本陣温飩屋(うんどんや)です、建坪九十坪、門構え、玄関付でした。
旧家の中に 、明治の郵便局が有ったとさ。従来は飛脚屋、明治4年、郵便制度の創設で由比郵便取扱所から、郵便局になった。
【明治の郵便局舎(平野氏邸)】 (左側)
脇本陣に続いて、同じ黒板塀に見越しの松がある洋風の建物です。
江戸時代、文章の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治四年三月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱所となり、さらに明治八年一月由比郵便局と改称された。
明治三十九年五月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治四十一年一月より郵便局を移転した。この局舎は昭和二年七月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている。
平成六年三月 由比町教育委員会
かつての由比宿脇本陣饂飩屋屋(うんどんや)四郎兵衛跡である。饂飩(うんどん)とは耳慣れないが、麺のうどんのことである。
現在の建物は百数十年前に改築されたものであるが、梁などは当時のままのものもあるとか。また、脇本陣を営んでいたときの資料や美術品も保存されているとのことであった -
由比宿おもしろ宿場館
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建築の”せがい造り、出桁・舟木造り。
家の軒先を長くすると強い風雨や日差しを遮る効果と、格式のある美しい風景を生み出す。由比宿に多くみられる。
せがい造りとは、平軒桁へ腕木を付け足して出し桁とし棰を置いた形式。
【せがい造り】
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰(たるき)を置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。
【下り懸魚】
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
平成四年三月 由比町教育委員会 -
拡大版
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由比は桜海老で超有名に。現在は街道も桜えび通りと呼ばれている。
桜エビは、駿河湾でしか獲れない。由比はその主要な漁港。 -
東海道名主の館”小池邸”ー中を見学させていただきます。
くぐり戸、格子造りなど重厚な構えが江戸時代からの面影がしのばれる。
【脇本陣(小池家)】
古い集落の残る旧道を歩いて行くと、右手に「間宿」の脇本陣だった「小池家」がある。 建物明治になってから建て替えられているが、大戸、くぐり戸、格子造り、なまこ壁などに江戸時代の面影が残る.国の登録有形文化財。 -
【小池邸】内部。
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を勤めていました。名主は年貢の取り立て・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。この建物は、明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました。(静岡市) -
『間の宿本陣跡』
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【間の宿 本陣跡】解説
「ここ西倉沢は、さった峠の東坂登り口に当たる間の宿で十軒ばかりの休み茶屋があって、
旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を愛で旅立っていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保の間凡そ二百三十年間、代々川島助兵衛を名のり、
間の宿の間目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、
西倉沢村名主もつとめた旧家である。」 -
峠道の途中に、明治天皇小休所。
『明治天皇御小休所跡 間の宿 脇本陣 柏屋 』。
「江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、
倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところから、田中びわの種子をとりよせ
栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。」 -
これより、薩埵(さった)峠に向かい、坂を上りはじます。後方に、東海道線、国道1号線、東名高速、海が見えてきた。
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さらに上ると、【望嶽亭藤屋】
開設は室町時代末期。約400年ほどの歴史あり。峠の入口にあたるこの場所は、江戸時代、間の宿が置かれ、本陣、脇本陣を始め数軒の休み茶屋があった。
且つっては、磯料理が名物で、座敷からの富士山の眺めが格別なことから「藤屋の望嶽亭」の名がついた。
この藤屋は、明治元年、西郷隆盛との話し合いのため府中(現静岡)に向かっていた山岡鉄舟(鉄太郎32歳)が、薩埵峠で官軍に追われ引き返し、望嶽亭に助けを求め、山岡鉄舟が土蔵座敷に隠れ、ここの亭主が漁師に変装させ、隠し階段で、藤屋の裏から舟で逃がし江尻宿(現清水)に送り、清水の次郎長に身柄を託した。その際、当時最新式のフランス製十連発のピストルを藤屋に預けた行った、そのピストルや土蔵が、今も残っているとの言。
海軍総裁勝海舟(45歳)の紹介状を持ち三月九日江戸城無血開城を官軍参謀西郷吉之助(41歳)と駿府城上伝馬松崎屋にて、会談七項目の条件で無血開城となる。望嶽亭藤屋は当時と変わりない建物、部屋の佇まいとピストルが歴史を物語る。 -
望嶽亭の玄関
「藤屋」
望嶽亭」と呼ばれた有名な茶屋で、多くの文人墨客で賑わった。明治元年3月7日山岡鉄舟が官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し、階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったとエピソードが残る。店の前に一里塚跡もある。
間の宿 藤屋
さった峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋として茶店を営み、礒料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物にしていた。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。( 由比町教育委員会) -
更に、坂道を上り始めに、藤屋を見下ろす。右に行くと海岸線にでる
これが、山岡鉄舟ゆかりの家。
【西倉澤一里塚】(薩埵峠まで1.3km標識) 西倉澤漁港&伊豆半島
一里塚跡(由比町西倉沢)
江戸から数えて四〇番目の一里塚である。だから江戸から凡そ160キロの距離にある。ちなみに由比駅~東京駅間は158.4キロである。この一里塚はさった峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。( 由比町教育委員会) -
峠道上り途中、みかん畑で振り返ると、大きな富士山が見えてきた。
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薩捶地蔵道標。この道標は、ひらかなで、「さったぢぞう」と彫られている。
【「さったじぞうみち」碑(天保2年)&「薩埵峠合戦場」】説明版
薩埵峠合戦場
古来、ここでは、二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義(ただよし)が不仲になり、ここ薩埵峠から峯続きの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍は敗退した。二度目は永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺(せいけんじ)に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えましたが敗退した。そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州に引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。(由比町教育委員会)
【薩埵山の合戦】
薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名は、これより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏眞はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北條氏と武田軍が二ヶ月余も対陣したが決定的な戦果ははなくて武田方が軍を引いた。
興津地区まちづくり推進委員会 -
これは現在の標識。
【薩埵峠】
薩埵峠は、東海道興津と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦いから間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞(そとぼら)へ至る道です。また上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。 -
『薩埵峠歴史』(右)
「鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられたさった地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後さった山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)ここに道が開かれたのは1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。」
そして左には『薩埵山の合戦』。
「薩埵山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。 降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が三ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。」 -
もう少しで峠に到着します。振り返ると富士山が大きく見えています。
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峠からの富士山眺望。有名な浮世絵と同じ景色を、現在も眺めることが出来た。感激的な景色です。
ここが「親知らず子知らずの難所」でした。
現在は、峠下には、日本の大動脈である国道1号線・東名高速道路・JR東海道本線といった重要な交通網が集中しており、大きな地すべりが発生した場合東西の重要交通網が寸断されることによって生じる経済的被害、人的被害は計り知れないものがあります。このため平成17年度より地すべり対策事業を行っています。(国土交通省 富士川砂防事務所)
~初雁の渡る影は雲と水との中に消えて、浦の苫屋(とまや)の秋の夕ぐれにこヽろを傷まし、いさヽ波にむれいる小夜千鳥の声すごく、氷と見ゆる冬の月かげいと寒し」とある。まさに絶景である。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾三次之内 【由比】 薩捶嶺 広重画】
由比の浮世絵。フォトと同じような景色。
薩埵峠展望台
この地は富士山が望める景勝地として昔から知られており、歌川広重は東海道五十三次の中で「由井(薩埵嶺)」として描いています。この場所は東海道五十三次の作品の中で、当時と同じ景色が望める唯一の場所とも言われています。しかし、見事な景色とは裏腹に急斜面と海に挟まれた地形から道を造ることが困難で、交通の難所として知られていました。現在は、日本の大動脈である国道1号線・東名高速道路・JR東海道本線といった重要な交通網が集中しており、大きな地すべりが発生した場合東西の重要交通網が寸断されることによって生じる経済的被害、人的被害は計り知れないものがあります。このため平成17年度より地すべり対策事業を行っています。(国土交通省 富士川砂防事務所)
この辺は駿河湾側が断崖となっていて、その昔の波打ち際の道は荒波で危険であった為、幕府は山腹に新しい道を切り開いた。山部赤人が山道を歩いているとき感嘆して詠んだ歌、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」。 -
もう一度拝見
【薩埵峠】
薩埵峠は、東海道興津と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦いから間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞(そとぼら)へ至る道です。また上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。
【風光明媚な絶景の地】
その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。
「山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ」 -
峠の石碑。碑には、現代版と江戸時代の峠からの景色が埋め込まれている。
ここは箱根峠と並ぶ難所の一つで、昔は断崖絶壁と海の間を命がけで岩に張付き歩いたそうです。慶長2年(1607年)山中にう回路ができた。
ここは東海道を代表する景観です。
ここでは大きな戦が二度おこなわれてる。初めは1351年足利尊氏と直義兄弟の骨肉の争い、二度目は戦国時代武田と今川の三度に亘る戦い。
『夢舞台東海道標柱』
「さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、
箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。」
【風光明媚な絶景の地】(下の絵)
その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。
「山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ」
【薩埵峠の歴史】
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引き揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ、上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
「岩城山ただ超え来ませ磯崎の 不来海の浜にわれ立ち待たむ」
ここに道が開かれたのは1665(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名も通ったので、道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
興津地区まちづくり推進委員会
【薩埵山の合戦】
薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名は、これより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏眞はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北條氏と武田軍が二ヶ月余も対陣したが決定的な戦果ははなくて武田方が軍を引いた。 興津地区まちづくり推進委員会 -
峠道のあずま屋で休憩します。ランチタイムです
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峠道にはもう早咲の桜が咲いていた。南向き斜面なので暖かいのかな。
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峠道にある現代版標識。
「下道は親不知子不知として 海道の岩間を通る難所なり。今も潮干たる時は人馬通る」と記されている。 -
『薩埵峠ハイキングコース』案内板。
「薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、
近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。
山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と呼びかえられたと伝えられています。
薩埵越えは、東の箱根峠越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩埵峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)朝鮮通信使のために山腹を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。」 -
東海道、興津川の『川越遺跡』
「ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩ぐるまで川を越した。越し札はその日の水深によって上表のごとく値が違い、蓮台越しの場合は札四枚を要した。深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」となった。但し冬期(11月下旬~3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越人足は興津側で36人が常備されて居り、大通行があると250人以上が動員された。」
太股川(42cm) 12文 はさみ川(70cm)15文
横帯川(106cm) 24文 若骨川(120cm) 32文
脇水川(150cm) 42文
備考:天保の頃 そば1杯が16文。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
『東海道五拾三次之内 興津 広重画』
奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原、駿河湾が描かれている。
二人はともに、柄袋をかぶせた刀を腰に差しているので、大名抱えの関取と思われる。 -
峠を下り、興津宿です。 近くに、身延道との分かれ道に到着。
【身延道の標識】
これを辿れば、身延市久遠寺へ行ける。駿河と甲斐を結ぶ重要な交易路で、駿河侵攻を目論む武田信玄の軍用道路として整備拡張されました
鎌倉期にルート開設されている。武田信玄の駿河侵攻をもくろみ整備された。交易路であり信仰の道として賑ぎわった。最も賑わったのは、甲府勤番が設置された江戸中期。
ひときわ立派な髭題目がある。
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