2017/01/19 - 2017/01/19
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ムッシュさん
興津宿を経て清水次郎長の町、江尻(現清水)宿へ
17番目の興津宿は、身延、甲府に通じる身延街道が分岐し交通の要衝でした。
18番目の江尻宿には清水湊があり、駿府町奉行支配の蔵が林立し、江戸に物資を運ぶ重要な湊として活気ついていた。
両宿とも江戸から明治に変わる開国時に政治を動かす場となった。
【フォトは、清水の次郎長の像】
梅蔭禅寺(ばいいんぜんじ)に眠る凄みを効かせる清水の次郎長の菩提寺である
- 旅行の満足度
- 4.0
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾三次之内 【奥津】 興津川 広重画】
昔の興津川は、川越えが、橋がなく勝ち渡りが一般的です
【川越遺跡】
ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩ぐるまで川を越した。越し札はその日の水深によって上表のごとく値が違い、蓮台越しの場合は札四枚を要した。深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」となった。但し冬期(11月下旬~3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越人足は興津側で36人が常備されて居り、大通行があると250人以上が動員された。(興津地区まちづくり推進委員会)
左の岩山は薩埵山、右の帆は清水湊へ出入りする船。
興津側を渡っているのは2人の力士。
お相撲さんだけに、4人でかつぐ「四つ手駕籠」に乗っており、束袋に入れた大刀を差している。
束袋は、ほこりや水が入らないようにかぶせる袋。大刀とは刀身2尺8寸以上のもので、これをさせるのは武士だけである。したがって、この力士は大名がスポンサーとなっているお抱え力士で、武士待遇ということになる。
江戸時代には、各藩お抱えの相撲取りがいて、藩の名誉を賭けて戦っていた。
これ等の力士の番付表には藩の名前が書かれていた。(現在の番付表は出身地が書かれている) -
【東本陣跡興津宿公園】
天保14年(1843)の頃、江戸より17番目の宿場である興津宿の宿内家数は316軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠34軒で宿内人口は約1600人、宿並は本宿、中宿町で構成され、宿長は約10町(約1.2Km)でした。
【興津宿の規模】
東海道十七番目の宿場ですが、東の由比宿には二里十二町(9.2Km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は、峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿 に至ります。
また、西の江尻宿には一里二町(4.2Km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
興津宿の宿内、町並みは東西に十町五十五間(1.2Km)人馬継問屋場一ヶ所、問屋二軒、年寄り四人、帳附四人、馬指五人、人足差三人、宿立人馬百人百匹。
『興津宿由来』の案内板
(英語と共にハングル文字が併記されていた。)
「慶長六年(1601年)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて十七番目の宿である。
参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。
ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。
なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。 この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津島姫命)がここに住居を定めたことからと言われている。
また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたのでその名を地名としたとの説もある。 古代から呼び名は、奥津・沖津ともいわれていた。」
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【興津の歴史】
興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち東海道 十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。
興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関(きよみがせき)は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たし ました。
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。
慶長六年(1602)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。
江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。
先の「水口屋」の展示資料より -
【一碧楼水口屋(いっぺきろうみなくちや) 跡】
水口屋初代当主 望月氏は、かつて武田信玄の家臣であったが、400年ほど前にこの地に移り住み、塩や魚などを買い付け、甲斐へ物資を送る商人であったといわれている。天正十年(1582)夏に初めて旅人を泊めたと伝えられ、江戸時代には興津宿の脇本陣として宿屋を営み、明治以降はたとえば、元老西園寺公望や牧野伸顕といった政治家、高松宮殿下や伏見宮殿下といった皇族方、岩崎小弥太や福澤桃介といった財界人、それに夏目漱石や黒田清輝といった小説家、画家など、各界著名人の別荘旅館として愛され、全国に名をはせた。さらに昭和 三十二年(1957)十月「静岡国体」の折には、昭和天皇・皇后陛下が「御幸の間」にお泊りになられた。
第二次大戦後、一時占領軍に接収され、その一員として来日していたアメリカ人、オリバースタットラー氏が「JAPANESE INN~東海道の宿 水口屋ものがたり」を昭和三十六年(1961)に出版し、海外にも紹介されたことから評判となり、多くの外国人観光客がここを訪れるようになった。
その後、時代の趨勢から徐々に客足が減り始め、また後継者がいないことから、昭和六十年(1985)一月、第二十代当主、望月半十郎氏が廃業を決断、約400年の歴史に幕を閉じた。同時に、鈴与㈱七代鈴木ゆ平会長に当主半十郎氏から依頼があり、この施設を譲り受け保護し、有効に活用する目的で「鈴与興津研修センター」を開設し、併せてその一部を、平成 十一年(1999)三月より「水口屋ギャラリー(フェルケール博物館別館)」として開館した。
【元老と興津】
元老とは、政界の長老的存在を指すのではなく、明治天皇より「元勲優遇」と呼ばれる特別の勅語を受けた人達で、天皇の相談役でした。
明治以来、伊藤博文(長州)、黒田清隆(薩摩)、山県有朋(長州)、松方正義(薩摩)、井上馨(長州)、西郷従道(薩摩)、大山巌(薩摩)、桂太郎(長州)、それに西園寺公望(京都)の9人が元老であり、その内伊藤、松方、井上、西園寺の4人は興津に別荘(借別荘を含む)を持ったが、他の人々もほとんど井上や西園寺に会いに興津(水口屋)を尋ねている。尚、元老9人の内、西園寺を除いて薩長同数というのは、当時の新政府の派閥力学の産物である。
松方正義が死去した大正十三年(1924)以降は、西園寺が昭和十五年(1940)に死去するまで、ただ1人元老を務めた。 -
『脇本陣、水口屋跡』
明治になり制度が変わると、一般客相手の高級旅館一碧楼水口屋として
営業を始めた。しかし、昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、水口屋ギャラリーになっている -
【清見ヶ関跡】
白鳳時代、東北の蝦夷襲撃防備の為に、大和國、山背國と共に、駿河國清見崎に
設置された関所跡。関所鎮護として開寺されたものが清見寺である。
「跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 - 686年)に設置されたとある。その地は清見潟(海)へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、
「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも
柵が設けてあった)」
と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。」とウィキペデイアより -
少し山を上った見晴らしの良い高台に立つ【興津清見寺】
正面山門と寺の間を、現代のJR線が走るので、階段、坂道、跨線橋を経て清見寺に着く。その山門は慶安4年(1651)に建てられたもので、当初は檜皮葺の屋根であったが、明治二十二年(1889年)に現在の瓦葺に改められたとのこと。
清見寺所蔵の冊子「巨龜山旧雑記」には、山門の設計は、左甚五郎の弟子で、釘を一本も使っていないのが、この山門の特徴であると記されている。
階段上に清見寺『総門』。
「総門は、広大な寺院の敷地への入口に当たる門で、旧東海道から階段で導かれています。前面に袖壁が張り出しているのは、地形的にみると門の高さで左右に塀が伸びていたのではないかと考えられます。鉄道が通るために、進入路を跨線橋で山門に導くため、擁壁により道が急勾配でかさ上げされ、門の裏側を通ります。このため、当時の伽藍配置に想像を働かす必要があります。全体の姿は、石垣の上に忽然と現れた感じに見え、非常に違和感を覚えます」 -
参道が、JRで分断された。
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清見寺『山門』が。慶安4年(1651年)竣工。
虹梁上に見事な彫刻が。山門は釘を一本も使っていないのが特徴だと。山号は、巨鼇山(こごうさん)清見興国禅寺 。
徳川家康は、幼い頃に今川家の人質として駿府に居住して、当寺の住職・「太原雪斎」に師事し勉学に励んだため、後に清見寺は徳川幕府から特に庇護された。 -
寺の入口は無料のガイドさんも居られる。お願いすれば、寺内を説明してもらえます。
伝説によれば、天武天皇により、清見関の開設とともに創建されたと伝えられる。
【清見寺】
白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には家康が愛した清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、宗版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財もあります。その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実が熟する時」の一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっています。(案内板) -
清見寺は、静岡市清水区興津の山の中腹に位置。
境内からは清見潟の海が少し見えたが、かって前面には「袖師海水浴場」の広い砂浜があり、JR東海道本線の「袖師駅(そでしえき)」(廃駅)は多くの海水浴客が利用した。
【清見寺】
ここには、今川義元の軍師だった太原崇孚に、徳川家康が幼年時代に教育を受けた「手習いの間」がある。家康は、今川義元の人質であった。家康が接木したという「臥竜梅」がある。
【清見寺鐘楼】(右)
文久三年(1863年)の改築にして、麓鐘は正和三年(1314年)の鋳造である。
白鳳年間(680年頃)に警備、往来監視、治安維持の関所であり、そこに寺が創建された。室町時代には全国十刹として保護された。朝鮮通信使や琉球使、各大名も訪れた。境内には沢山の史跡や文化財がある。
大方丈の前の鐘楼である。3.7m四方で、文久三年(1863年)に改築されている。麓鐘は正和三年(1314年)の鋳造とのこと。
この鐘を天正十八年(1590年)4月、豊臣秀吉が伊豆韮山城攻伐の際に、陣中で使用したと伝えられている。又高山樗牛(ちょぎゅう)の「清見寺の鐘声文」、「鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ~}の文学碑が境内にあった。
「臥龍臥龍梅」(左が梅木)
境内には、梅の木が有名です。
徳川家康が来遊した時、清見関の梅を取らせて接樹したるものと云われています。徳川家康没して400余年、梅はなお清見寺の庭に生き続けている。
『龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり』とは歌人与謝野晶子女史がこの梅を題して詠じたもの。 -
『仏殿』。
白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。
清見寺には家康が愛した清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、
宗版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財もあります。その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、
島崎藤村の「桜の実が熟する時」の一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。
平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっています。天保年間(1830~1843)に改築され。正面に釈尊、迦葉、阿難の三尊を奉安し、背後に三開山の木像と足利尊氏の木像が安置されいます。 -
【高山樗牛「清見寺鐘声」】
鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ.うるわしきかな、山や水や、偽りなく、そねみなく、憎みなく争ひなし。人は生死のちまたに迷い、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり、おもへば恥かしきわが身かなに恨みある身の病を養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児、数ならぬ身の世にながらへてまた何の為すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の日暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ、わがおもいいよいよ。 (案内板)
【咸臨丸(かんりんまる)記念碑】
明治維新の際、清水港に於いて咸臨丸が明治政府の軍艦に砲撃され、20余名は格闘したが殺され官軍に海に投げ込まれた。その霊をあわれみ明治20年榎本武揚らが清見寺において4月17日、記念碑の除幕と法要を営んだ。
『咸臨丸殉難碑』、「食人之食者死人之事:榎本武揚」。
幕末の激動期に 幕府軍と新政府軍の争いの際、幕府軍の戦没者を祀るため清水の次郎長、榎本武揚らが建立した「咸臨丸碑」。ちなみに明治元年、幕府の軍艦咸臨丸が清水港で官軍の攻撃をうけた際、港内に漂う戦死した
乗組員を次郎長が手厚く弔った「壮士の墓」は巴川の河口近くにあるのだと。
榎本武揚の筆による『史記』の「准陰候列伝」から「食人之食者死人之事」と刻まれていると。
「人の食を食む者は、人の事に死す」と云う文意は「禄をいただいた主君のために人は殉じる」
当時は境内から南を望むと一面の海であったと思われるが、現代では、道路や建物で全く海は見えない。
本来は、東海を代表する名刹である。 -
境内の【五百羅漢石仏】
江戸後期の仏像で、それぞれ表情が違う傑作。島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節にも登場。
清見寺は奈良時代に建てられた古刹だ
家康が今川義元の人質であった頃に、良く訪れた寺としても知られている -
こちらも【五百羅漢石仏群】
大方丈の裏手には見事な五百羅漢がある。島崎藤村の「桜の実の熟する時」にも、清見寺と五百羅漢のことが記されている。この五百羅漢は江戸時代後期に作られたものとか。
清見寺は清見潟を眼下に見下ろす景勝地に建っているため、東海道を往来する人が必ず立ち寄ったという。そのため、歌や紀行文が多数残されている。
【「島崎藤村著「桜の実の熟する時」】の小説の一節。
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、誠之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、
頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、
都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。」 -
【西園寺公望公別邸”興津座漁荘】
政治家が助言を求めて押しかけ、西園寺詣と呼ばれた。
荘の前は、清見潟と呼ばれる干潟が、当時あった。岸壁になる石積みの地に、座漁荘は建ち、庭から眺めの良い海と、遠くに美保の松原が見えた。
【西園寺公望1849~1940】
右大臣徳大寺公純の次男として生まれ、明治、大正、昭和の自由主義の政治家として貫いた。近代の元老の一人。現在の立命館大学の学祖。大正13年、松方公の死後、ただ一人の元老として内閣首班の推挙や政変ごとの陛下のご下問への奉答をしてきた。
西園寺公望は昭和15年11月24日にこの座漁荘で亡くなった。 -
【坐魚荘(ざぎょうそう)】
敷地300坪。京風の瀟洒な木造2階建て。元老西園寺公望公が晩年の20年余を過ごした別荘。当時、この庭先は海で、清見潟という干潟もあったが、現在は遠く清水湊として埋め立てられた。
西園寺公望は、フランス留学の経験があり、明治、大正、昭和の政治家として平和主義を貫いた人。
坐魚とは、中国の故事で魚釣りでもしてのんびり過ごすことを意味する。当時は、政治の客がひきも切らず訪れ「興津もうで」と言われた。
明治から昭和にかけて活躍した政治家、【元老・西園寺公望】が1920年に興津清見寺町に建てた京風の純和風建築の別荘です。
純木造数寄屋造り、2階建て、90坪。
平成16年に復元されましたが本物は愛知県の明治村に移築されています。
【興津坐漁荘】
大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議に日本の全権として出席中にこの別荘を建て、帰国後引退し、ここに移り住んだという。
又、近くに明治の元勲井上馨の別荘もあり、政財界の要人がこの地を良く訪問したので、これを「興津詣で」と当時の人は言っていたようだ。その要人達が、良く泊まったのが前述の水口屋であった。
【興津坐漁荘】
西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生れ、明治大正昭和三代を自由主義坐漁荘の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。坐漁荘は西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、
現在、国の登録文化財として公開されています。
そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力とご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。」 -
【細井の松原】名残りの松。
慶長六年(1601年)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し、江尻宿場が設置された。同九年(1604年)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門・奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同十七年(1612年)完成したと伝えられている。(辻地区まちづくり推進委員会)
二代秀忠公により街道沿いに松が植えられた。1700年頃の記録では206本あったとか。 -
【凄味をきかせる清水の次郎長像】
梅蔭禅寺には、清水次郎長の菩提寺であり、側近達の墓もあります。次郎長の側近大政、小政や生涯愛し続けたお蝶夫人も眠るお寺です。
梅蔭禅寺は、足利時代に開山された由緒ある臨済宗のお寺。この墓石の字は、明治政府の大臣も務めた榎本武揚の書による。 -
【清水の次郎長】
清水に生まれた次郎長は、俠客となり、全国に名の聞こえる大親分になった。
明治元年(1868)清水湊に停泊していた幕府艦咸臨丸が官軍に襲われ、乗員数名が殺害された。人々は官軍の目を恐れ、波間に漂う死者たちを弔う者はいなかった。そこで、次郎長は俠客の大胆さを以って死者たちを埋葬した。これにより、山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を得た。以後、俠客の枠を超えて、開墾事業から福祉まで広くしゅわんを発揮し、郷土の英雄として名を残した。梅蔭寺に皆の墓がある。 -
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【梅蔭禅寺】
次郎長一家の大政、小政・増川仙右エ門、お蝶夫人も眠る次郎長の菩提寺。墓石は、
次郎長、大政、小政、森の石松らの墓前には、多くの観光客が訪れる。
開山は足利時代といわれる由緒ある臨済宗の寺。 -
次郎長親分の墓。一人独立している。
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次郎長子分の顔
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【次郎長の舟宿”末広”】:清水港船宿記念館です。
明治時代には、政府から街道警固役の任命を受け、さらに、海外との貿易が出来るよう清水港整備を進言、横浜港との定期航路を開通、英語教育の奨励を勧めた。
明治19年(1886年)に次郎長が開業した舟宿は、日本で最初に英語塾が開かれた場所。海軍士官候補生達の定宿であった。 -
次郎長は、船宿の2階に、外人講師を雇って、英語塾を開設していた。
(これはびっくりポン!)
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