2016/11/17 - 2016/11/17
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ムッシュさん
晴天の日、富士山を眺めながら、JR東田子浦駅から吉原宿、富士市を経て蒲原宿へと歩く。とにかく距離を稼がねば。
*江戸より14番目の宿場である吉原宿は、寛永16年(1639年)、永宝8年(1680年)の津波などにより3度の所替えをしてる。本吉原、中吉原、新吉原宿と呼んでいる。
- 旅行の満足度
- 5.0
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本日も快晴で、富士山くっきり!東田子の浦駅に向かう高速道からのフォト。
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立圓寺山門。JR東田子の浦駅の西隣にある。
なかなか2階建ての立派な山門です。
寛文3年(1663)創建の立圓寺(りゅうえんじ)。境内に望嶽碑がある。
尾張藩侍医の柴田景浩が、この寺から見る富士が絶景であることから文化5年(1808)に望嶽碑を建碑したものです。 -
立圓寺(りょういんじ)本堂
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立円寺(りゅうえんじ)寺の境内に、「望嶽碑」が立つ。
「望嶽碑」と刻まれたこの碑は、文化5年(1808)5月、尾張藩の典医であった柴田景浩(1745~1812)という人物が建立したものです。
医学のみならず、墨竹画にも優れていた景浩は、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け、この碑を建立した。
石碑の裏側には漢文でその謂れが書いてある。説明板によると、書き下し文で「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし・・・」と。
ようするに、この地で富士山がよく見えたということ。 -
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立圓寺(りょういんじ)があり、この境内には望郷碑と並んでゲラテック号遭難の碑と船の錨がある。
大きな赤い碇は、インドネシアのゲラテック号(6320t)のもので、昭和54年清水港より救援米を運ぶ途中、台風20号に遭遇し、強風と高浪で船体が直立した状態で立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられた。その時乗組員の3人が死亡したという。マスコミにも大きく取り上げられた海難事故である。 -
ゲラテック号(船籍インドネシア)は昭和54年10月19日、清水港から救援米を運搬中に台風に遭遇し立円寺南方の柏原海岸に船体が打ち上げられるとともに、二人の人命が失われ、その慰霊の碑。
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間の宿(あいの宿)柏原本陣跡
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左手の小高い杜の境内に毘沙門天妙法寺があり、参道を登っていくと、中国風色彩のインド風寺院を思わせる派手な建築物が目の前に現れる。
ラマ教の流れをくみ、建物だけでなくスケールをも感じさせる異色の寺。
旧暦の1月7日~9日に全国のだるまやが集まり、日本3大ダルマ市(高崎市、富士市、調布市)として知られる毘沙門天大祭は、50万人の人出で賑わうという。
武運の神様毘沙門天が祀られている。富士山への修験者の霊場であり、武田氏や紀州徳川家の信仰を受けていた。 -
毘沙門天妙法寺本堂 「開運富士毘沙門天」
今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜ゼロメートルから富士山に登った、 その禊ぎの道場が毘沙門天妙法寺起こり。
三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれていル。
往古より、大祭中には、毘沙門天王が娑婆に下られて、親しく人々の願い事を聴いて下さると言われる。 -
龍神香炉堂
極彩色の中国様式香炉場(写真)となっている。
境内左手には「毘沙門天王の沓石(くついし)」が、朱色の屋根の下に置かれていた。これが、「東海道名所図会」で紹介されている。図会には「妙法寺毘沙門堂の前にあり。長さ1間ばかり、幅3尺。形鐙に似たるゆえこの名をよぶ」とある。いつのまにか毘沙門天の沓石となっている。 -
中国風の南方の建築です。
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このあたり、吉原の浮世絵
【東海道五拾三次之内 【吉原】 左富士 広重画】
広重は街道の右に愛鷹山そして左に富士山を描いています。
広重の道中日記には「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり、左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ、一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり、ここの写生あり」と記されている。 -
本日、わずかに富士山の頂部が見えています。
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富士山
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ここは富士市です。ランチを食べた和食レストラン「わび助」さん。
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富士川の堤防(雁堤:かりがね)から振り返ると雲の上に富士山頂部が顏を出している。
富士川の氾濫に苦しむ人々を救済するため、中里村の時の代官古郡孫太夫重高が親子3代50年かけて、富士川に沿って築き、難工事を行った。1674年に堤防が完成。その形が雁の群れがくの字になって飛ぶ姿に似ているところからかりがねと呼ばれました。
5千石の新田が開墾され、13の村が生まれた。現在は雁公園になっている。また、富士山の絶景ポイントになっている。 -
富士川水神社への参道。治水、渡し舟の安全祈願している神社。
氾濫や築堤中の犠牲者を祀り、ここに護所神社を作った。
毎年10月に行われる「かりがね祭」は、火のついた松明(たいまつ)を一斉に、蜂の巣と呼ばれる籠に投げ入れる豪壮なものとか。
さらに堤沿い進むと、現在の冨士川の土手に出る。その富士川に架かる冨士川橋の袂に水神の森・水神社が祀ってある。
江戸時代の東海道名所図会にも紹介されている水神社だ。前述のかりがね堤は、この水神の森から岩本山実相寺に掛けて築かれた堤である。 -
富士川の渡船場跡碑。
富士川を渡るときは、船が使われ、上中下の3ケ所の船着き場があり、川の状況で使い分けていた。富士川の渡船は、慶長7年(1602年)から大正13年(1924年)まで続いた。
左に、文政元年(1818)建立の常夜灯があります、これは岩本村船方後縦によって寄進されたも。
右に、水神は富士登山道の起点であり、富士山道の道標が移設されています。 -
名所図会には
「四海無双の名山にして、駿河・甲斐・相模三国に蟠(わだかま)るといえども、駿州冨士郡(ふじのこおり)にあれば冨士山(ふじのやま)と号し、駿河の冨士ともいう」、
「峰削り成せるが如く。直(ただ)に聳えて天に属(つづ)く。その高さ測るべからず」と紹介されている。 -
富士川近くの水神社。参道を進むと水神社に至る。
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神社の境内には、富士道の道標や、雁堤築造記念碑、常夜灯など江戸時代の石碑が多く現存する。
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富士山参りの道標
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天下の急流富士川です。暴れ川で水害も多かったようだ。
富士川は、東海道一の急流であり、山梨県からコメなどの輸送路として活用されていたことから、間の宿である岩淵には、米蔵や船着き場があり大いに栄えた。米はこれより陸路で清水港(江尻宿)に運ばれ、江戸に輸送された。
*橋を渡り、川沿いに右折して、約300m進むと角倉了以紀功碑があります、京都の豪商、角倉了以は家康の命により、甲府へ通じる富士川の舟運を開削しました。
*江戸城が一朝有事の際、服部半蔵の手引きで城を脱出し、八王子の千人同心に守られ、甲府に入り、富士川の舟運で東海道に出て、駿河に至る、徳川の大生命線でした。
*名所図会には「我が国に名を得たる大河はあまたあれど、ことに冨士川は海道一の急流なり。舟に乗りて渡るに、渡し守 ちからを出でだし 棹をさし、櫓を押し出す時、岸より見るものは、あわやと危うく思い、船中の人は目まい、魂の消ゆる心地ぞしける」と記されている。 -
富士川に架かる鉄橋。先程歩いて渡った場所を少し小高い所から見下ろしている。昔は水害を避けて高所に集落が有った様です。
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この黒塀の旧家は常盤邸です。
常盤とは、実は女優常盤貴子さんの実父の御実家だそうです。時には実家の墓参り他に常盤貴子さんも見えられるとの言でした。本日内部見学可能なので立寄ります。
正式には 、小休本陣 常盤家住宅主屋(有形文化財)
建物は、安政の大地震で倒壊したが、安政年間に幕府の援助で再建されたもの。
岩淵村の名主だったため、一般の民家には見られない、上段の間といわれる部屋がある。
*右手に岩淵宿小休(こやすみ)本陣がそっくり残されている。国の有形文化財に指定されている。渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、建物は安政元年(1854年)の大地震の後に建て直されたものという。
主家の総建坪75.38坪、切り妻作り、桟瓦葺。また、門を入って右側には槙(まき)の古木(根回り6m、樹高?m)があり、冨士川町の「町の木」に指定されている。 -
岩淵本陣前から振り向くと正面に富士山が見える位置です
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ここ岩渕は官道である東海道と信仰の道身延道が交わる場所として、間宿岩渕(あいのしゅくいわぶち)が出来た。この住宅は往時の隆盛を示す。諸大名の渡船準備に備え、休憩所として小休本陣と脇本陣があった。
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常盤邸の内部です。総建坪75坪の邸宅。
フォトの白球と2本のレール糸は、芸術品の展示。富士山トリエンナーレの展示会場です。 -
こちらも常盤邸内部。
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おなじく。庭に面した、手前奥の部屋と掛け軸のある上段の間。
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小休本陣 常盤家住宅主屋。(国登録有形文化財)
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この大木は岩淵一里塚に立つ。江戸から数えて37番目。街道の両側に一里塚があり、この西側塚の榎は初代からで樹齢400年といわれ、東側榎は2代目である。
一里塚を境に街道は岩渕村から中之郷村に入ります -
同じく一里塚(東側)。
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野田山不動明王の字、聖徳太子の文字が読める。
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JR富士川の先で、東海道線のガード下を潜る。
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安政3年(1853年)建立の秋葉山道への常夜灯。
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蒲原一里塚、江戸より38里
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東木戸には文政13年(1831年)建立の常夜燈があり、笠石には宿内安全と刻まれています
宿場の治安維持と通行人監視のため、宿場入口は夕刻に閉鎖し朝方開放した。見付と呼ばれることも多いが、蒲原宿では木戸と呼んだ。 -
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株式会社日本軽金属の水系。
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蒲原宿の表示。足下には”蒲原夜の雪の絵”がある。
歌川広重の傑作と言われる。
【蒲原宿】
天保14年(1843)頃、蒲原宿の宿内家数は509軒、うち本陣1、脇本陣3、問屋場1、旅籠42軒で、宿内人口は約2400人でした。
蒲原宿は富士川の舟運を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わいました。 -
本陣跡の佐藤家。塗り家造り。
なまこ壁が美しい。この建物は大正時代の物であるが、邸内には、今も大名の籠を置いたといわれる「御駕籠石」が残る。 -
浮世絵の東海道五拾三次、蒲原宿。有名な雪景色。この東海道でこんなに雪降ったかな? 新潟県の蒲原を思い出しての作との意見もある。
蒲原宿
蒲原宿は比較的古くから開け、富士川を控え、交通の要衝として戦略上重要な地点となっていた。 元々は現在の場所よりもう少し海に近いJR東海道線の南側にあったが、元禄12年(1699年)8月15日の大津波(大型台風)で宿場が流され、翌13年に現在地に移転している。富士川の川止めの時などは大変な賑わいを見せた。本陣跡や旅籠の建物や大正時代の洋館が残るなど、案内板も完備し、情緒ある町並みを現在も見ることができる 本陣1、脇本陣3、旅籠42 -
これが、浮世絵。
【
東海道五拾三次之内 【蒲原】 夜之雪 広重画】
たしかに、静岡でこんな雪ふるかな? -
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旅籠いずみ屋お休み処
天保年間(1830‐44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊をまぬがれたと言われる。佇まいは江戸時代の旅籠の面影有り。 -
(磯部家)
明治42年の建築で、寺院建築に多く用いられている総欅(けやき)つくりの家で、柱や梁(はり)から一枚板の戸袋に至るまで欅で作られている。
また、2階の窓ガラスは、波打つような面となっている手作りガラスを使用している。 -
旧五十嵐歯科医。
モダンなデザインの2階建て医院。内部は無料で見学できます。現代とあまり変わらない医療チェアーが残されていた。現在別の場所で五十嵐歯科医は営業が続いている。大正年間に、町家から現代風に改築された。診療室などは、陽の当たる2階に集められていた。外観は洋風、内観は和風。当時の洋風建築としては、ガラス窓多く、開放的。白い手すりもモダンな雰囲気。
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