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親睦会で琵琶湖方面へ出かけました。<br /><br />まずは大津市の義仲寺へ。<br /><br />木曾義仲の墓があるお寺ですが松尾芭蕉の墓も彼の遺言によりここにあります。<br /><br />幼いころに父を殺され、自身も命を狙われ、敵方の斉藤実盛の助けで木曾に逃げ苦難の境遇を送った義仲は、20代の若さにもかかわらずわずかの手勢で旗揚げし、多くの同志を集め平家を打ち倒しました。<br /><br />武士として初めて天下を取ったがすぐに失脚し若くして討たれたこと、家来の兼平を助けようと自らの馬を敵中に進めての最期。朝日将軍としての輝く勢いと突然の悲劇的な最期は、芭蕉の美学にぴったり当てはまったのでしょう。

琵琶湖方面へ親睦旅行 ①義仲寺

40いいね!

2016/06/12 - 2016/06/12

232位(同エリア1469件中)

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kinomukumama

kinomukumamaさん

親睦会で琵琶湖方面へ出かけました。

まずは大津市の義仲寺へ。

木曾義仲の墓があるお寺ですが松尾芭蕉の墓も彼の遺言によりここにあります。

幼いころに父を殺され、自身も命を狙われ、敵方の斉藤実盛の助けで木曾に逃げ苦難の境遇を送った義仲は、20代の若さにもかかわらずわずかの手勢で旗揚げし、多くの同志を集め平家を打ち倒しました。

武士として初めて天下を取ったがすぐに失脚し若くして討たれたこと、家来の兼平を助けようと自らの馬を敵中に進めての最期。朝日将軍としての輝く勢いと突然の悲劇的な最期は、芭蕉の美学にぴったり当てはまったのでしょう。

旅行の満足度
5.0
同行者
その他
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
団体旅行

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  • 義仲寺はその名の通り木曾義仲(資料館の絵)の墓所です。<br /><br />寿永3年(1184年)1月20日、この地で討ち死にしました。<br />江戸時代まで、義仲はきわめて人気のある英雄でした。<br /><br />このような武者絵もずいぶん描かれていたそうです。

    義仲寺はその名の通り木曾義仲(資料館の絵)の墓所です。

    寿永3年(1184年)1月20日、この地で討ち死にしました。
    江戸時代まで、義仲はきわめて人気のある英雄でした。

    このような武者絵もずいぶん描かれていたそうです。

  • 山門は昭和60年(1985年)に新築されたもの。

    山門は昭和60年(1985年)に新築されたもの。

  • 山門を入ると左右に歴史的建造物が並んでいます。<br /><br />京の都同様、たびたびの戦乱そして世界大戦・・この寺も壊滅状態でしたが篤志家の寄進で修復、改築が行われてきました。

    山門を入ると左右に歴史的建造物が並んでいます。

    京の都同様、たびたびの戦乱そして世界大戦・・この寺も壊滅状態でしたが篤志家の寄進で修復、改築が行われてきました。

  • 義仲寺の方が5分ほど境内の説明をして下さいました。そこでこの寺が松尾芭蕉とも深い関係があることがわかりました。<br /><br />芭蕉が大津湖南地方を訪れたのは8回・・近江の風景や人間に深い愛着を抱いていたことがうかがわれます。<br /><br />

    義仲寺の方が5分ほど境内の説明をして下さいました。そこでこの寺が松尾芭蕉とも深い関係があることがわかりました。

    芭蕉が大津湖南地方を訪れたのは8回・・近江の風景や人間に深い愛着を抱いていたことがうかがわれます。

  • 背景にあるのが芭蕉で「ちょうど良い時期にお越し下さいました。芭蕉の花が咲いています。」<br /><br />江戸・深川の庵に芭蕉があったのは有名な話ですね。

    背景にあるのが芭蕉で「ちょうど良い時期にお越し下さいました。芭蕉の花が咲いています。」

    江戸・深川の庵に芭蕉があったのは有名な話ですね。

  • 芭蕉の根元に「ゆく春を近江の人とおしみける 芭蕉桃青」の句碑があり、これだけがこの寺では芭蕉の自筆を写したものです。<br /><br />晩年の2年近くを大津で過ごした芭蕉はその時期に、藩士、医者、町人、豪商、住職、能役者など多様な人達との交流を楽しみました。

    芭蕉の根元に「ゆく春を近江の人とおしみける 芭蕉桃青」の句碑があり、これだけがこの寺では芭蕉の自筆を写したものです。

    晩年の2年近くを大津で過ごした芭蕉はその時期に、藩士、医者、町人、豪商、住職、能役者など多様な人達との交流を楽しみました。

  • 句碑(上記)のすぐ後にある資料館から<br /><br />五升庵蝶夢(ごしょうあん ちょうむ)肖像画<br />江戸時代中期-後期の俳人・僧で松尾芭蕉(ばしょう)を敬愛し「芭蕉翁絵詞伝」をまとめた。

    句碑(上記)のすぐ後にある資料館から

    五升庵蝶夢(ごしょうあん ちょうむ)肖像画
    江戸時代中期-後期の俳人・僧で松尾芭蕉(ばしょう)を敬愛し「芭蕉翁絵詞伝」をまとめた。

  • 芭蕉の愛弟子杉風(さんぷう)の描いた芭蕉像。身近な弟子が描いたところから芭蕉の実物像に一番近いのではないかといわれています。

    芭蕉の愛弟子杉風(さんぷう)の描いた芭蕉像。身近な弟子が描いたところから芭蕉の実物像に一番近いのではないかといわれています。

  • 寺務所のてぬぐいも上記の画を素にしたものでしょう。<br />

    寺務所のてぬぐいも上記の画を素にしたものでしょう。

  • 同じく資料館にあった小さな陶器製芭蕉像。

    同じく資料館にあった小さな陶器製芭蕉像。

  • 資料館の隣にある義仲寺本堂(朝日堂)<br /><br />ご本尊は聖観世音菩薩です。

    資料館の隣にある義仲寺本堂(朝日堂)

    ご本尊は聖観世音菩薩です。

  • 山門を入って右手に寺務所、資料館、朝日堂・・一番奥に翁堂がありました。

    山門を入って右手に寺務所、資料館、朝日堂・・一番奥に翁堂がありました。

  • 翁というのはもちろん松尾芭蕉のことです。

    翁というのはもちろん松尾芭蕉のことです。

  • 正面は芭蕉翁座像。<br /><br />左は丈艸居士。<br />右は去来。<br /><br />左側面に蝶夢法師。

    正面は芭蕉翁座像。

    左は丈艸居士。
    右は去来。

    左側面に蝶夢法師。

  • 天井の絵は今話題の伊藤若沖(じゃくちゅう)筆「四季花卉図」です。<br /><br />アジサイなど12種の草花が描かれた板絵15枚で構成。若冲が最晩年に手がけたとされ、翁堂が再建された安政6年(1859年)には天井にはめ込まれていたそうです。<br /><br />一枚は40センチ四方です。そんなレアものがガードマンも居ない状態で大丈夫?

    天井の絵は今話題の伊藤若沖(じゃくちゅう)筆「四季花卉図」です。

    アジサイなど12種の草花が描かれた板絵15枚で構成。若冲が最晩年に手がけたとされ、翁堂が再建された安政6年(1859年)には天井にはめ込まれていたそうです。

    一枚は40センチ四方です。そんなレアものがガードマンも居ない状態で大丈夫?

  • 安心して下さい。笑<br /><br />本物は今大切に別の場所に保存されていて、これはレプリカです。<br /><br />劣化が激しいので高性能スキャナーで読み取り特殊な板にプリントしました。<br /><br />これは資料館のもの。

    安心して下さい。笑

    本物は今大切に別の場所に保存されていて、これはレプリカです。

    劣化が激しいので高性能スキャナーで読み取り特殊な板にプリントしました。

    これは資料館のもの。

  • 36俳人の画像。

    36俳人の画像。

  • 36俳人の画像。

    36俳人の画像。

  • 茅葺きの屋根の軒先に往時を偲ぶ木魚。

    茅葺きの屋根の軒先に往時を偲ぶ木魚。

  • 池にはカメ。<br /><br />

    池にはカメ。

  • 芭蕉翁の像に扇子を奉る「奉扇会(ほうせんえ)」は明治6年に始まり今も毎年5月の第2土曜に行われているそうです。<br /><br />資料館の奉扇会縁起。

    芭蕉翁の像に扇子を奉る「奉扇会(ほうせんえ)」は明治6年に始まり今も毎年5月の第2土曜に行われているそうです。

    資料館の奉扇会縁起。

  • 山門を入って突き当たりには木曽八幡社がありました。

    山門を入って突き当たりには木曽八幡社がありました。

  • 山門に向かってUターン。右側に芭蕉の句碑「旅に病んで夢は野山をかけ廻る」があります。<br /><br />芭蕉は亡くなる4日前(10月8日)の夜更け、看病中の呑舟にこの句を代筆させました。芭蕉最後の句です。<br /><br />

    山門に向かってUターン。右側に芭蕉の句碑「旅に病んで夢は野山をかけ廻る」があります。

    芭蕉は亡くなる4日前(10月8日)の夜更け、看病中の呑舟にこの句を代筆させました。芭蕉最後の句です。

  • 句碑の隣が芭蕉の墓です。<br /><br />元禄7年10月12日午後4時、芭蕉は南御堂前花屋仁右衛門宅で51歳の生涯を閉じました。夜、遺言が執行され、遺骸は川舟で伏見から大津へ運ばれて乙州宅で通夜が執り行われ翌日14日、義仲寺で木曽義仲に並んで埋葬されました。門人80人を含む300余人が会葬したそうです。<br /><br />

    句碑の隣が芭蕉の墓です。

    元禄7年10月12日午後4時、芭蕉は南御堂前花屋仁右衛門宅で51歳の生涯を閉じました。夜、遺言が執行され、遺骸は川舟で伏見から大津へ運ばれて乙州宅で通夜が執り行われ翌日14日、義仲寺で木曽義仲に並んで埋葬されました。門人80人を含む300余人が会葬したそうです。

  • 隣に木曾義仲の墓。後の建物は無名庵。<br /><br />芭蕉は奥の細道の旅のあと半年近くここに滞在したことがあります。<br /><br />計3回ここに泊まったそうです。

    隣に木曾義仲の墓。後の建物は無名庵。

    芭蕉は奥の細道の旅のあと半年近くここに滞在したことがあります。

    計3回ここに泊まったそうです。

  • 木曾義仲の墓の隣に側室巴御前の塚があります。<br /><br />木曾義仲の没後、義仲の墓の近くに草庵(無名庵)を結び日々の供養をしたのでした。<br /><br />それから500年後芭蕉はしきりにここを訪れたそうです。木曾義仲の生き方に共鳴していたようです。

    木曾義仲の墓の隣に側室巴御前の塚があります。

    木曾義仲の没後、義仲の墓の近くに草庵(無名庵)を結び日々の供養をしたのでした。

    それから500年後芭蕉はしきりにここを訪れたそうです。木曾義仲の生き方に共鳴していたようです。

  • 記念に1つ買いました。

    記念に1つ買いました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • kinomukumamaさん 2016/07/22 07:48:11
    芭蕉と滋賀県
    0tt0さま

    そうでしたか、俳句もやってらっしゃるんですね。

    実は義仲寺訪問の折、サラリーマン風の方をお二人お見かけしました。寺の方にシャッターをお願いして記念写真を撮って帰って行かれました。きっと俳句の愛好家なんだろうなと想像しておりました。

    昨日アップした伊吹山にも芭蕉が登場しますよ。
    また見て下さいね。

    kinomukumama

    追伸:俳句の方もお励み下さい。
  • ottoさん 2016/07/21 23:10:53
    義仲寺へはぜひ行ってみたかったのです!
    kinomukumamaさん 今晩は

    いつもご訪問有難うございます。

    詳しいレポートを拝見して一層行ってみたくなりました。

    俳句も勉強中なのでとても参考になりました。

    ( orange blog の 湖東吟行記に出句しています)

    又立ち寄らせていただきます。

    otto

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