2016/05/02 - 2016/05/02
3位(同エリア1396件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記367冊
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美観地区<後編>では、ポピュラーな倉敷川畔を中心にレポいたします。
昔日の繁栄が偲ばれる江戸幕府の天領の町「倉敷」。古来より交通の要衝となり、高梁川の支流 倉敷川は運河に利用され、その河港には多くの商人が集まり、やがて備中地方の物資の集積地として商業の中心となりました。
倉敷川畔から鶴形山南側の街道一帯には海鼠壁の屋敷や土蔵が建ち並び、天領時代の町並みがよく残されています。倉敷川畔の掘割に芽吹いた柳、エンタシスの柱が聳えるハイカラな美術館、時間の流れが止まったような塗屋造の町屋、蔦絡む小粋なカフェ、海鼠壁の土蔵、そして堀割に浮かぶ高瀬舟までもがしっくりと一幅の風景画に収まっています。
人並をやり過ごして路地に迷い込こめば、間口の狭いマッチ箱のような店舗が道の両脇にトランプカードのように並んでいます。裏通りは整理されていないおもちゃ箱のように、新旧、洋の東西が、絶妙なバランス感覚を保ちながらお互いを高め合いながら息づいています。
早朝散策時の写真や観光時のものが混在していますが、ご容赦願います。
倉敷観光マップです。
http://kurashiki-kankou.com/img/map/map.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
PR
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倉敷アイビースクエア
これが昼間の顔です。
旧工場の設計は、日本の最初の紡績工場の鹿児島紡績所を建設した旧薩摩藩の蘭学者で紡績技術者の石河正龍氏と島田覚人氏によります。1889(明治22)年に竣工した純英国風と言われる鋸型の屋根と赤煉瓦の外壁、半円形の窓など往時の面影をそのまま留め、残存する最も古い紡績工場の代表的存在です。
ホテルは紡績機が稼動していた鋸屋根の工場8棟の上下方向スペースを分けて2階建てとし、それぞれを仕切ってツインから4人用のデラックス・ルームまで、合わせて161室を構成しています。 -
倉敷アイビースクエア
シンボルのアーチ型門です。 -
倉敷アイビースクエア
側面から客室の屋根を見ると、このような鋸状をしています。
工場からホテルへの改造に於いては、外観と基本構造はそのまま残す方針だったため、ホテルの屋根は鋸形状を残し、蔦の絡まる赤煉瓦の壁面もそのままです。2階の部屋では鋸屋根の斜めになった天井が体験できる趣向になっています。また、どの部屋からも窓の外には蔦と赤煉瓦の見事なコントラストを見ることができます。 -
倉敷貯金箱博物館
屋根の上に数多くのビクター犬を擁するこの奇怪な建物は、倉敷貯金箱博物館です。倉敷の珍百景的な建物として有名で、怪処にも紹介されたそうです。ビクター犬は101匹を目指して収集されているようです。すぐ隣がバリバリの観光地とは思えないほどディープな世界です。
1階は骨董店「倉敷山陽堂」、2階に貯金箱博物館とDOG資料館(ビクター犬「ニッパー」)があります。
貯金箱博物館は、日本製の貯金箱を中心に明治、大正、昭和時代の貯金箱を展示しています。特に昭和30年代以降のアニメーションのレトロキャラクターが豊富です。
レコード世代なら誰もが知るこのビクター犬は、可憐なエピソードの持ち主です。元になった絵は、約80年前のロンドンでの実話に基づき、画家フランシス・パラウドが描いたものです。画家の兄が亡くなった後、可愛がっていた兄の犬に蓄音機で兄の声を聞かせたところ、懸命に耳を傾けて元の主人の声を聞こうとする姿に心を打たれて描かれた1枚の油絵です。その犬の名は「ニッパー」。そして「ビクター」カンパニーのマスコットになった彼は、会社の歴史と共に消えましたが、日本人の心にいつまでも残る珠玉のキャラクターとなっています。 -
旧大原家住宅(重文)
倉敷は、幕府の天領だったため、倉敷川の水運を利用して経済力が高まり、江戸時代後期には「新禄」と呼ばれる新興勢力が台頭し、それまでの「古禄」と呼ばれる世襲の勢力に代って次第に富を蓄え、社会的地位を確立しました。
大原家は「新禄」と呼ばれた町人層の筆頭となる豪商で、主屋はじめ10棟が重要文化財に指定されています。屋敷は19世紀初頭〜大正時代にかけて順次整えられ、倉敷の現存する町家の中では最大規模で、附属屋も完備し、倉敷町屋の代表的な形式を今に残しています。
主屋は1階 の格子や2階の窓に特徴があり、それぞれ倉敷格子、倉敷窓と呼ばれる意匠です。残念なことに、非公開のため敷地の中は見ることができません。 -
有隣荘
旧大原家住宅の南に隣接するのが有隣荘です。1928(昭和3)年に孫三郎氏が家族で住むために建てた別邸です。非公開なため通常時は敷地には入ることができませんが、内装のデザインは児島虎次郎氏、作庭は国の名勝にも指定されている平安神宮神苑などを作庭した七代目 小川治兵衛氏が手掛けられたそうです。
塀越しに向って左には洋館、右には純和風の住宅が見られ。和洋折衷の住宅洋式を持ち、大らかで優美な名建築として高く評価されています。
設計者は、薬師寺主計( かずえ)氏です。和風建築部分は伊東忠太氏が設計指導を行なっています。いずれも木造で、洋館は平屋建、和館は2階建です。 -
有隣荘
ここの見所は瓦です。瓦は孫三郎氏が中国大陸に旅行に行った際、中国の孔子廟の屋根瓦に憧れて模したという独特の色合いを再現しており、見る角度によって翡翠色に輝く事から「緑御殿」とも呼ばれているそうです。 -
今橋
大原美術館前と旧大原家住宅を繋ぐのが今橋です。昭和天皇が皇太子の時、1926(大正15)年の行啓に当たって建造されたアーチ橋です。
橋桁は、半円状に設計し、水面に映る半円の影と併せて満月を眺めることができる工夫がなされています。また、12本の石柱の天辺には、天皇への敬意を込めて皇室の紋章となる12弁の菊花の彫刻をあしらっています。高欄には大原孫三郎氏と生涯親交を持ち、経済的援助を受けた児島虎次郎氏が龍の彫刻を施すなど、中橋に比べてアート感覚満載の橋です。外観は花崗岩で覆われているため石橋に見えますが、構造体は鉄筋コンクリート造のアーチ橋です。「今橋」の文字は、孫三郎の揮毫だそうです。僅か40日間の工期で完成させたものとは思えません。 -
今橋
孫三郎氏の資金援助により薬師寺主計氏が設計し、20体の龍の彫刻を児島虎次郎氏とその甥の児島矩一氏が担当しています。虎次郎氏が描いた絵を基に矩一氏が石膏で実物大の模型を作り、倉敷紡績株式会社建設課長の村木卓郎が現場監督となって石工に彫らせたそうです。欄干の通路面には線彫り、外面には半肉彫りで彫られています。
龍の彫刻は、孫三郎氏の干支と吉兆の縁起に因んだものです。しかも龍の爪は5爪あり、皇帝の象徴でもあります。この橋を急遽架け替えるに当たり、予算オーバーした分は孫三郎氏が負担しています。しかしその旨は、橋の何処にも刻まれていません。本物の竜王はたやすく姿を現さないものです。 -
今橋
皇室の紋章となる12弁の菊花の彫刻です。
おもてなしの心も満載です。 -
倉敷川
つがいの白鳥(コブハクチョウ)が生息しています。
2007年に姫路市からつがいで贈られたものだそうです。オスは「空」、メスは「夢」と名付けられて親しまれています。ヒナは親離れする頃に他の場所へもらわれて行くのだそうです。
こうして白鳥を眺めていると、倉敷に空襲が無くてよかったなとつくづく思います。
終戦間際の6月29日に倉敷市近隣の岡山市が空襲に遭いました。また、長崎に原爆が投下される前日には、広島県福山市が空襲されています。戦時中の倉敷には複数の軍需施設があり、市民は空襲を現実のものとして捉え、その恐怖に怯えながら暮らしていたそうです。しかし、結局、倉敷は空襲に遭うことなく終戦を迎えました。
何故倉敷が空襲されなかったのか、その定説が言い古されています。大原美術館所蔵のエル・グレコ『受胎告知』をはじめモネ『睡蓮』の他、西洋の至宝が倉敷に存在したから空爆の対象から外されたという説です。
しかし、岡山空襲資料センターの日笠氏はこの定説を一蹴し、「米軍は敵国の文化財など考慮していません。京都も原爆の対象になっていたくらいです。それをしなかったのは、米陸軍長官スティムソンが、戦後に日本の反米感情が高まり、ロシア側につくことを恐れたため」と論破しています。
日笠氏によると、倉敷も空爆の対象に入っていたそうです。その根拠は、米陸軍航空軍司令部が作成した『(丸秘)小工業都市地域への攻撃』なる文書です。この文書は、人口の観点から攻撃都市の優先順位を検討したものです。空爆対象は東京を筆頭に180都市におよび、岡山は31番目にリストアップされ、159番目が倉敷でした。それだけではなく、倉敷空襲の時期が間近に迫っていたというのも事実です。倉敷を標的にした『目標情報票』が終戦の1週間前に作成されていたのです。もしも1週間終戦が遅れていたら、倉敷は灰燼に帰していたかもしれません。『目標情報票』には、定説とされていた大原美術館に係わる記述は一行もなく、芸術が町を救ったという説は幻想だったと認めるしかないのです。
この現実から学ぶならば、それは戦争の非情さ・冷酷さです。戦争にはロマンティシズムが入り込む余地などないのです。それを踏まえて安保法を慎重に扱わなければなりません。 -
大原美術館
玄関の古代ギリシア神殿風のペディメントに2本の巨大なオーダーが立てられています。一般的にはイオニア式柱頭と呼ばれる柱で、左右対称の渦巻状の飾りが天辺に付くのが特徴です。円柱は一見、大理石に見えますが、粉砕した石灰石を着色したセメントに混ぜて塗る「人造石塗り」の手法で、不況の中でもコストを抑えた工夫がなされ、耐久性に優れた重厚な建築物に仕上げています。
玄関ポーチの奥行も狭く、広い前庭もありません。昭和恐慌の真っ只中の限られた経費でオーナーと建築家が創意を発揮し「西洋」を演出した苦心作です。1929年4月に着工して突貫工事で11月に開館しましたが、紡績工場ではストライキが相次ぎ、浜口雄幸首相がテロに遭うなど、世情は騒然としていました。当然ながら、田舎町に忽然と現れたギリシア神殿風建築に、世間の目は冷ややかだったそうです。
設計者は、岡山県出身の建築家 薬師寺主計氏です。東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師を経て、孫三郎氏に招かれ倉敷絹織株式会社の取締役に就任。経営に参画しながら、大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけました。
「日本の近代遺産50選」に選ばれた鉄筋コ ンクリート造、2階建です。 -
大原美術館 「説教する聖ヨハネ」像
9時のオープンと同時に蔦が絡んだ門を入ると、左手にオーギュスト・ロダンの彫刻「説教する聖ヨハネ」、右側に「カレーの市民 ジャン=デール」像が迎えてくれます。
聖ヨハネは、幼児あるいは荒野で修行中の痩せ衰えた姿で描かれることが多いのですが、ロダンは前へと人々を導いていこうとする逞しい姿で彼を表現しています。この「説教する聖ヨハネ」は、分館前庭に設置されている「歩く人」に頭と手を付けて完成されたものです。 この2つの彫刻を見比べると、人体の動きを見事に捉えたロダンの心眼の確かさを感じとることができます。
「洗礼者ヨハネ」と「カレーの市民」の両作品は、児島虎次郎氏がロダン美術館で交渉し、特別に鋳造してもらったものです。しかし太平洋戦争時には、無情にもロダンの銅像2体に金属供出命令が出されました。美術品や文化的遺産であっても例外はなく、寺院の仏具や釣鐘、仏像は言うに及ばす、文鎮や 学生服の金ボタンまで供出させられました。当時の館長 武内潔真氏は、直ちに回収免除の申請を岡山県に提出しましたが、免除の見通しは暗いものでした。
その年、岡山県物資課職員による視察が行われました。 何人かの職員には供出を惜しむ声が漏れたそうです。審議会では、その他の供出物件とも併せた報告書を県に提出しました。そして岡山県の決定は、「供出の必要なし」でした。岡山県下で約170体の銅像が供出され、残されたのは大原美術館のロダン2体を含め、7体のみでした。
日本の文化財であっても命令が免除されることは稀な時代、ましてやロダン作品は敵国の芸術作品でした。 この決定はまさに奇跡的なものでした。今こうして鑑賞できることに感謝しなくてはなりません。 -
大原美術館 「カレーの市民 ジャン=デール」像
「カレーの市民」の記念碑は、イギリスとフランス間の百年戦争のエピソードを基に制作されました。
1347年、イギリス王エドワード3世は、フランス北部の港町カレーを包囲しました。王は町の城門の鍵を持って投降すれば攻撃を止めることを提案しました。その時、町を破壊から守り市民の生命を救うため、ジャン=デールら6人が死を覚悟するように首に縄をかけ、城門の鍵を持って降伏の使者となりました。ロダンの「カレーの市民」の全体像は、国立西洋美術館にありますが、この像は、その6人のうちのジャン=デールの単身像です。ロダンは死を前にした英雄たちの勇気や潔さだけではなく、併せ持ったであろう死への恐れや苦悩をもこの作品に表現したのです。
鍵を持つ逞しい手、前方をしっかりと見据える強い眼差し、直線的な衣の表現は、ジャン=デールの強い決意を表しています。 -
大原美術館 分館前庭
前面には、津久井利彰氏「木に染まり」や黒く光った石が目立つ速水史郎氏「道しるべ」、イサム・ノグチ氏「「山つくり」など現代彫刻家の野外作品群が展示されています。
中央左奥のブロンズ像がロダン作「歩く人」です。
右奥にヘンリー・ムーア作「横たわる母と子」があります。 -
大原美術館 分館
倉敷を拠点に活動した浦辺鎮太郎氏が1961(昭和36)年に設計した分館は、日本の近現代美術を所蔵しています。
周辺には多くの浦辺氏の建築が点在し、隣接して倉敷国際ホテルがあります。敷地周囲にある路地に対して建物の外壁を塀のように巡らせ、建物で囲まれた中央には芝生の庭を造り、そこにエントランスを設けています。
外壁は玉石埋め込みコンクリート、白壁、ガラスブロックなどの素材をうまく組み合わせ、波打つ屋根面はそのまま内部空間の天井に表れています。
2003年には、この分館がDOCOMOMO JAPAN選定「日本におけるモダン・ムーブメント」の建築に選ばれています。 -
大原美術館 工芸館横 モネの睡蓮の池
フランスのモネの日本庭園から株分けされた睡蓮です。
2000年6月、遠くフランス郊外の小村ジヴェルニーから大原美術館に睡蓮の株が送られてきました。夏〜秋口にかけてピンクと黄色の可憐な花が目を愉しませてくれます。
水面に浮かぶ妖精のようなこの睡蓮を限りなく愛したモネは、池の畔にわざわざアトリエを建て、一日中いつでも好きな時にその姿が描けるようにしたそうです。少年時代、オンフルールの海岸で遠く拡がる海を眺めた時から、水に憑かれていたモネでしたが、1833年、ジヴェルニーに移ってからは、睡蓮と共に生活する日々の連続でした。池を描きながら岸も空もなく、ただ水面だけというモネ独特の俯瞰構図も、日本美術の影響と共にこのモチーフに対する彼の愛着がよく表現されています。 -
和平冶
大原美術館の正門の左にある脇道を入った所にあります。国産大豆と減塩仕立ての醤油に拘り、美味しさと珍しさを追求した漬物・佃煮の専門店です。
四季折々の旬の素材で作られた日本の味が好みに合わせて選べます。しかも、ここにしか無い品揃えと試食の豊富さには吃驚ポンです。ゴボウやキュウリをコンニャクに巻いたものをもろみ醤油に漬け込んだ倉敷 和平治漬けが人気です。 -
和平冶
漬物の試食だけでなく、めかぶ茶もご馳走になりました。
ご近所用と自宅用に梅しそたくあんとほたて割干しをゲットです。 -
エル・グレコ
アイビーが緑色の時には、昼間の顔の方がいいですね!
この建物は、大原孫三郎氏が設立した奨農株式会社の本社事務所として1926(大正15)年に建てられたものです。
全面に蔦が絡まっていて構造が判り難いのですが、外部はモルタル仕上げのドイツ壁で、レトロな上げ下げ窓が並び、下部の腰壁は煉瓦貼りになっています。屋根は瓦葺で、シンプルな外観です。設計はこれも薬師寺主計氏になります。木造2階建です。
蔦の絡んだ洋館は大原美術館の一部といった風情を感じさせ、名画の余韻に浸る名所となっています。 -
三宅商店
2時間ほど名画などを堪能した後は、早めの昼食を摂るため美観地区 本町通りの町家喫茶「三宅商店」に向かいます。
ここは美観地区内でも有名なカフェのひとつです。オープンが11時なので10分前に行くと、すで先客が10名ほど居られました。(写真は前日に写したものです。)開店と同時にほぼ満席状態になり、人気ぶりが窺えます。多くは、デザート狙いですので回転は意外と速いです。 -
三宅商店
この建物は、江戸時代後期(百数十年前)に建てられた町家をリノベートしたもので、奥に長く土間が続き、蔵を構えています。土間、蔵、土壁、昔ながらの間取りが懐かしくもあり、まったりと寛げる絶好の空間になっています。ウェイティングがいるため長居はできませんが、雰囲気は最高です。元々、三宅商店は、戦前から日用雑貨・荒物屋を営んでいたそうで、現在もその歴史ある屋号を受け継いでおられます。
また、倉敷はマスキングテープの発祥地ということもあり、オリジナルのマスキングテープなどの雑貨もカフェに併設されたスペースで販売さしています。
店内は少し薄暗くされており、雰囲気のあるちゃぶ台がいくつか置かれています。 -
三宅商店
カレーが人気メニューになっています。
<三宅カレー&ドリンクセット>平日用(デザート付¥1200)と土日祝限定(¥950)があります。5月2日は連休中ということもあり、後者になっていました。
季節のカレー、スープ、浅漬け、コーヒーまたは紅茶のセットをいただきました。玄米を使い、トッピングは皮付きポテトや薄く揚げたレンコンなどです。付け合わせの浅漬けも福神漬け感覚でGOODです。ビジュアルは今どき感がありますが、辛過ぎず少し甘みがあるやさしい味はどこか郷愁を感じさせ、新感覚と懐かしさがバランスよく同居したカレーに仕上がっています。 -
倉敷館(国登録有形文化財)
倉敷川が折れ曲がった位置に架けられた中橋の前にあるのが倉敷館です。
元々は1916(大正5)年に倉敷町役場として建てられたもので、1832(昭和7)年まで長年使い込まれた大正レトロの香りが漂う洋館です。白い下見板貼りが特徴の2階建の洋館で、角に聳え立つ独特な形状の角塔ドームが印象的です。屋根は瓦葺で、一部銅板葺になっています。
下見板貼りの軽快な模様はティックワークと言われ、この模様がレトロモダンな雰囲気を醸しています。白壁の街によく似合う西洋館です。
現在は無料の観光案内所・休憩所「倉敷館」として使われています。
国の登録有形文化財の木造2階建です。 -
倉敷考古館
中橋越しに見える倉敷館考古館の白壁が、柳の緑と蒼い空に映えて見応えがあります。
1950(昭和25) 年に倉敷の町並みを代表する生魚・薪問屋 浜田屋として知られた有力商家小山家の店であり土蔵や屋敷を改装し、それを利用した考古学の博物館です。美観地区の中でもかなり古手の建物になります。
数万年も前の旧石器時代から、中世備前焼の歴史などに至るまで、吉備地方の実力を知ることができます。
倉敷考古館と倉敷館に挟まれて架けられているのが中橋です。
明治前期までは木造でしたが、橋が壊れたのを契機に1887(明治10)年に石橋に架け替えられています。
藤原伊平氏の設計による単径間桁橋と呼ばれる様式で、太鼓橋を彷彿とさせる緩やかな反りは、船の運航に配慮した形状と言われています。橋柱に彫り込まれた「中橋」の文字は、石橋に架け替えられた時の倉敷村村会議員の原唯七氏の揮毫と伝えられています。「橋」の字に注目すると、旁の上側が右になっているのは「橋」の略字だそうです。 -
倉敷考古館
蔵としての美しさは、倉敷美観地区でもトップクラスです。2階の軒までびっしり一面に平瓦が貼られた側面の外壁の海鼠壁が圧巻です。
この壁は「馬乗り張り」という貼り方です。シンプルな貼り方なのと、使われている瓦が古く黄色っぽいので、壁全体がな海鼠壁の割にくどくないのが特徴です。 -
倉敷川舟流し
倉敷定番の風景です。
高瀬舟乗船チケットは、美観地区のほぼ中央に位置する中橋の袂にある「倉敷館 観光案内所」で買えます。
中橋を渡った対岸に舟着き場があります。
20分程の回遊で大人¥500です。 -
倉敷民藝館
倉敷の典型的な土蔵造の米蔵を廊下で繋いでリノベーションした建物です。江戸時代末期の米蔵4棟を改装して1948(昭和23)年にオープンしました。白壁と黒貼瓦のコントラストと静謐な佇まいは、それ自体がひとつの民芸品として評価され、倉敷美観地区の風光明媚な景観を形成しています。火事・風雨・盗難・湿気等から収納品を守るため、松材で骨格を組み、厚さ20cmの土壁が付けられています。 -
倉敷民藝館
館内には古今東西の民芸品約1万5千点が展示され、毎日の生活の中で使われてきたガラス器に焼き物、織物、木工品、竹細工などが並びます。年3回の企画展が催され、倉敷ガラスや羽島焼き、備中和紙などの倉敷、岡山周辺の手仕事と共に世界各国の民芸品を紹介しています。東京の日本民藝館に次いで2番目に開館した歴史を持っています。
倉敷における古民家利用の記念すべき第1号であり、伝統的建造物保存のきっかけとなりました。 -
倉敷民藝館 いろりの部屋
実際に使用されていた、一般家庭の家具が並んでいます。
畳部屋にいろり、床の間には、型絵染が掛けられています。また手前は、欧風家具を配したユニークなしつらいになっています。実際の生活のモデルルームとして考案された部屋ですので、昔日の個人宅を訪れたように感じられます。
いろりの所に敷かれたモダンなトリコロール・カラーの敷物は、倉敷緞通です。倉敷の伝統工芸のひとつであり、丹念に編み込んだ丈夫なものです。潔い色使いのデザインは、染織家で人間国宝の芹沢銈介氏によるものです。和洋問わず、古さを感じさせず、どんな空間にも溶け込んでいるのはさすがです。
いろりの手前にある椅子は、い草を編み込んだもので「トン」と呼ばれています。畳表を作る時の端の余り部分を利用しています。詰め物をしているわけではなく、全部い草で巻き詰めたもので、座り心地もGOODです。しかし今はもう作る人がいないそうです。
館内展示品の写真撮影もOKです。 -
倉敷民藝館 中庭
1950年、英国の詩人エドマンド・ブランデンはこの中庭の風景を絶賛し、『瞥見』という詩を残しています。ブランデンは、第一次世界大戦の従軍体験を題材にした詩で知られる詩人であり、文芸評論家でもあります。ブランデンは、大正末期に東京帝国大学講師を務め、戦後間もない47年に再来日しています。日本を愛し、「第二の小泉八雲」とも称されました。
非戦論者でもあったブランデンの詩碑が、広島市立中央図書館の北側の庭にあります。『HIROSHIMA−1949年8月6日によせて−』の英文と和訳が刻まれています。その一節には「…ヒロシマよりも誇らしき名をもつまちは世にあらず 君は平和の鳩の宿…」とあります。
『HIROSHIMA』の和訳を紹介されてるサイトです。
http://masuda901.web.fc2.com/page5aax02.htm -
倉敷民藝館 中庭
「瞥見(べっけん、かいまみ)」
黒い輪郭の白い壁
中庭の見通し 清潔な門
そこからのぞく赤い頬の童児
話合っている黒っぽい着物の二人の友
その向こうには落ちついて光る屋根の列
飾り総のような枝ぶりの松、そのひろやかな静けさ -
旧大原家住宅
大原家現当主の大原謙一郎氏の住まいは、築200年以上でトイレや風呂は別棟、冬寒く夏は暑いそうです。この辺の町屋の住民は、「意地・見栄・我慢」の3つで暮らしていると言われています。実際、こうした景観保全は、住民の理解に加え、近代化がもたらす利便性などを犠牲にして成り立っていることを思うと頭が下がります。 -
からくさ屋
美観地区本町通りにあり、「まんが日本昔ばなし」の演出・作画・美術を担当された、童絵作家 池原昭治氏の作品を常設展示しています。原画の展示、販売をはじめ、関連グッズも販売しています。
経営は池原氏の妹さんが社長を務める「アートBOX」です。 -
からくさ屋
池原氏の作品は、古い日本の街並みや自然の風景を背景に遊ぶ童を描いた作風が特徴です。しかしオリジナルの作品は、「まんが日本昔ばなし」の作風とは全く異なります。
池原氏は現在、埼玉県狭山市を拠点に活動されていますが、倉敷の風景をテーマにした新作も制作する予定だそうです。
入場無料ですが、観ると欲しくなります。我が家にも1枚やってきました。 -
東通り
早朝は長閑な佇まいです。 -
楠戸家住宅(国指定文化財)
かつては「はしまや」という屋号を持つ創業1869(明治2)年の老舗呉服屋でした。主屋の平面は町屋の完成形のひとつとされる表屋造です。主屋2階の漆喰を塗り込めた虫籠窓(むしこまど)は、往時の近畿地方の町屋の手法を取り入れたもので、この住宅の大きな特徴と言えます。また、背の低い厨子2階造や海鼠壁の蔵、屋根付きの板塀なども含め、明治時代の町屋屋敷の佇まいをよく残しており、1996年に国指定文化財に登録されています。
昭和30〜40年代には、ロックフェラー夫妻をはじめボーボワール、サルトル、バーナード・リーチ夫妻、司馬遼太郎など錚々たる著名人が訪れています。
住宅の奥は、米蔵を改装したギャラリーや喫茶店になっています。 -
楠戸家住宅
2階の窓にご注目ください。虫籠窓と言い、町屋の特徴的な意匠のひとつです。
看板や青銅製のランプも年季が入っています。
また、看板は、花崗岩製のプレートに線彫りし、その上から着色したものです。 -
トラットリア はしまや
元々は土蔵として使われていた建物を改装した南イタリア料理のお店です。
古民家ならではの趣を活かした店内で、奥にはパティオがあり、大きな窓から緑を見ながら食事ができます。
トラットリアとは、イタリア語で「わいわいお酒を飲む所、カジュアルなレストラン」という意味です。 -
東町通り
あまり見ることのなくなった、ツバメの巣です。
人と自然が寄り添いながら仲良く暮らしている様子が手に取るように判ります。 -
森田酒造
1909(明治42)年、旧街道沿いに森田酒造は誕生しました。創業から約100年、今も旧き佳き時代の建物が佇むこの地で酒造りを営む美観地区内で唯一の造り酒屋です。高梁川沿いで収穫される朝日米「あけぼの米」を使用して、今では大変珍しくなった昔ながらの完全開放醗酵方式と、槽(ふね)と呼ば れる搾り機を使って上槽しています。倉敷名酒「荒走り」が有名で、冷やして飲むと美味しいそうです。毎年12月下旬に発売される、新酒しぼりたて生酒の「萬年雪 荒走り」は、県内をはじめ全国から引き合いがあるそうです。
1階は町家風の店舗ですが、黒い漆喰塗りの壁と2階の鉄製の両開き扉が歴史を感じさせます。タンクが並ぶ酒蔵と400年の歴史をもつ倉敷でも最古の「古禄の庭」の見学ができます。この庭は、そば屋「破流知庵(ばるちあん)」の2階から眺めることができるそうです。
阿智神社に参詣して石段を降りてくると、その正面にあります。地の利を考えてこの地に建てたことが窺えます。 -
本町通り
間口の狭いマッチ箱のようなお店が、道の両脇にトランプカードのように整然と並んでいます。
古い町並みを取り壊さず、また窮屈に保存するのでもなく、改装によって活かし続けているのが倉敷の魅力です。こでは江戸時代から現代に至るまでの歴史が時空を越えて繋がっているのを実感することができます。
経済・文化の両面で発展を遂げてきた倉敷の魅力の本質は、歴史を守ると同時にこういった様々な文化を受け入れ、「唯一無二」を創り上げてきた人々の情熱そのものにあるのかもしれません。
この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑧倉敷 近代建築でお届けいたします。
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