2015/05/27 - 2015/05/27
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ポポポさん
私が山口県周南市大津島にある人間魚雷回天の基地を訪れたのは昨年5月の下旬でした。
ここは一度訪れたいと思っていた場所でしたが、当時は全く旅行記にするつもりは無く、日帰り観光として写真を撮ってきただけでした。
映画「出口のない海」を見たことが無い若い人は「人間魚雷回天」という言葉さえ聞かれたことはないでしょう。
また、「回天」が特攻兵器であったと言う事をご存知ない方(特に若い方は)も多いのではないでしょうか。そう思い始めた時、旅行記として掲載しておこうと心に決めました。但し海外旅行の旅行記が投稿途中だったため、そちらの投稿に時間を取られてしまい。この旅行記を手掛けるのが遅くなりました。
そもそも旅行記を投稿する予定ではなかったので写真が十分ではありません。不足部分は私の拙い文章で補いたいと思います。
人間魚雷回天はガダルカナル島が米軍の手に落ち戦況が悪化してきた昭和18年の夏ごろ、余っていた九三式酸素魚雷をどうにか活用できないかと考えた黒木博司中尉と仁科関夫少尉の発案で制作された特攻兵器です。
九三式酸素魚雷は旧日本海軍の秘密兵器で射程が2万m、型式によれば3万mもありました。弾頭の炸薬量は米軍を上回り破壊力は抜群でした。最大の特徴は酸素を使用しているため雷跡が見えないことです。相手にとっては見えない所から魚雷がやって来る事になるのです。
この魚雷の威力を最大限発揮した海戦がルンガ沖夜戦(ガダルカナル島沖)です。詳しい説明は省きますが、ガ島へドラム缶に食糧を詰めて食糧輸送任務についた日本海軍の第二水雷戦隊(駆逐艦8隻)が重巡4隻を主力とする米艦隊の待ち伏せにあったにも関わらず米艦隊を壊滅させた海戦です。日本軍は駆逐艦1隻が沈没したのみでした。
この戦いは例えれば日本がウサギ、アメリカがライオンほどの強さに開きがあり、しかもレーダーで先に日本艦隊が米軍に発見されて絶対的に不利な戦いでした。この海戦は米軍から大絶賛の評価を得ています。
特に酸素魚雷の効果が大きかった海戦といえます。
この魚雷を生かして戦局を好転させようとして開発されたのが人間魚雷回天です。
回天とは天をめぐらし、戦局を逆転させるの意でした。
この兵器は大型の酸素魚雷に1人の人間が乗り組み、潜望鏡で敵艦を発見して魚雷もろとも突っ込み、敵艦に体当たりして撃沈させるという物でした。
但しハッチを閉じればもう戻ることはできません。訓練中に亡くなられた方もいらっしゃいます。また大型のイ号潜水艦に積まれて出撃しますので母艦(大型潜水艦)もろとも沈められた方もいらっしゃいました。
回天の訓練を受けたのは1375人、そのうち145人が帰らぬ人となりました。
志願とはいえ20歳前後の若人がその命を散らしたのでした。
それでは、回天基地を訪問しましょう。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 船 自家用車 徒歩
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山陽自動車道徳山東インターで下りて国道2号線に合流します。そして下関方面に下って行くと左折表示で徳山港の案内表示番が見えてきます。その交差点を左折してまっすぐ案内表示に従って車を走らせると海に出て徳山港にでます。
ここから大津島行きの巡航フェリーに乗船します。港に無料駐車場がありますが詰まっている事が多いようで、早い時間の船に乗船される事を勧めます。
大津島に近づきました。島の「回天の島」の大きな看板が海沿いに建てられていました。大津島 自然・景勝地
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大津島に到着しました。この巡航フェリーに乗ってきました。乗客は私を含めて7人です。
大津島巡航 乗り物
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上陸すると先程の大きな看板が港の右手に見えました。
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港を右手に進むと「大津島ふれあいセンター」があり、夏場使用されるであろう木造のコテージが並んでいます。その横を進むと港の向かい側の海に回天発射訓練場が見えてきましたので、ズームにして写真を撮りました。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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さらに進むとトンネルが見えてきました。このトンネルの行きつく先は回天発射訓練基地です。
ここにはトロッコのレールが敷かれていて完成した回天をトロッコに乗せて訓練場に行ったそうです。
トンネルの中に入りましょう。 -
トンネルの中はトロッコのレールの跡がはっきり残っています。
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このトンネルの中を、回天を載せたトロッコを押して回天乗組員は出撃して行ったのですが、どんな思いで出撃していったんでしょうか。気持ちはもう吹っ切れていたんでしょうか。
回天は呉の海軍工廠で製造され船で大津島に運ばれて、ここで発射訓練を行っていました。
若き海軍士官により発案された人間魚雷は当初「死の兵器」だとして軍令部は認めませんでした。
しかしながら、戦局が著しく悪化し抜き刺しならない状況に置かれた昭和19年9月1日ついに回天基地が開設されました。
これにより志願した隊員が大津島に上陸し、熾烈な訓練が始まったのです。なお、訓練基地は大津市島、山口県光市、平生町、大分県大神の4か所に置かれました。 -
ここからトンネルは広くなり、トロッコは並列できるようになっていました。(並列でトロッコのレールの跡が残っています。)
このトンネルは映画「出口のない海」の撮影現場です。あの映画は実際の訓練基地で一部撮影されているんです。
写真に人が立っていて照明が照らされていますが、そこには出撃する回天と乗務員、母艦の写真や回天本体の写真が掲げてあります。これらの写真は戦記物や雑誌、実録体験記などで良く掲載され何度も見た写真なので、私は写真に撮りませんでした。 -
トンネルの途中で海にでる場所があったので外に出ると魚雷発射基地が見えました。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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トンネルを抜けると発射訓練場が見えました。通路は基地まで続いています。
今は平和な海なんですよね。ここに悲しい歴史が刻まれているなんて、知らない人はここに来ても何も気づかないと思いますよ。回天訓練基地跡 名所・史跡
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魚雷発射場の碑が立っていました。
この場所は昭和12年九三式酸素魚雷の発射試験場として開設されました。 -
そして回天発射場跡の説明文です。
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回天発射訓練基地を横から見ます。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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発射訓練基地を正面から見ています。現在はコンクリートの支柱、建物の外観のみ残っていますがフェンスが張られて中には入れないようになっていました。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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フェンスに取り付けられた回天発射訓練基地跡の説明文です。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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九三式酸素魚雷はこの穴からクレーンで海に降ろして発射訓練を行っていました。
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フェンスの穴からカメラを入れて撮るとこんな感じです。
発射訓練の穴は二か所あり、こちらは左側の穴。 -
こちらは右側の穴です。
魚雷より大きい回天はこの穴からは海に降ろせません。そのため回天専用のクレーンが新たに設置されました。 -
これが回天を吊り上げて海に降ろしていた回天用のクレーンの支柱跡です。
回天はここからクレーンで吊り上げられ、回転させて今釣り客が写っている海面に降ろされて沖まで運んで訓練したり、出撃の時は母艦となるイ号潜水艦に積まれたりしたんです。
このクレーン跡の下のコンクリートの敷地は絶好の釣りポイントになっていて(男性が写っているところ)、釣り客が釣り糸を垂れていました。多い時はここが一杯になるそうです。また、この島を訪れる客の半分以上が釣り客だそうです。
私が発射場を見学している間にも島の中学生らしい生徒が2名手に釣竿を持って自転車に乗ってきました。
本当に今はのどかな場所なんですよ。
釣り客の様子は写真に撮りませんでしたが、ここや、通路用の橋の上にも釣り客がいました。 -
発射訓練場を別方向から写しました。
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さて、一旦ここは出て回天記念館に行ってみましょう。
振り返るとトンネルからここまで伸びている通路用の橋が見えます。 -
トンネル抜けた所から見た島影。
この島影から回天を載せる母艦(イ号潜水艦)が現れ、大きく迂回して発射基地に近づいたそうです。 -
再びトンネルを通って元の道に戻りましょう。
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説明のための案内板がありました。
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トンネルを抜けて坂道を上って回転記念館に向かいます。右の塀は基地があった当時のものです。
右側には馬島小中学校がありますが、戦前は回天の組立整備工場があった場所です。 -
この坂道は回天坂と呼ばれていました。この坂の上には回天搭乗員の宿舎があったからそう呼ばれていたようです。
その宿舎の跡地に現在回天記念館が建っています。
この坂道は回天搭乗員が訓練のため毎日通った道、特攻に出撃する隊員が万感の思いで最後に歩いた坂道なんです。
そのような事実を知ってこの坂を登るのと、知らないで登るのとではその心持ちに大きな違いがあると思います。
私はどんな思いで隊員達は出撃されて行ったのだろうかと心を馳せながら上っていきました。 -
振り返ってみると、途中から結構勾配がある事が分かります。
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回天記念館の入り口です。
道の両側に亡くなられた145名の名前と出身地が刻まれた石碑が設置されています。
道の奥にある建物が回天記念館です。回天記念館 美術館・博物館
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記念館の前には実物大の回天のレプリカが置かれています。
記念館の内部には亡くなられた145名の遺影、遺品や遺筆・遺書、世話になった料亭の仲居や親への手紙、軍服。回天の写真や兵舎や宿舎、組立整備工場のジオラマなど。
そして実物大の回天搭乗員の操縦席と計器類の模型がありました。
回天の内径は1mととにかく狭いです。操縦席にすわりハッチを閉めれば体の移動は出来ませんし、内側からハッチを開けようとしても水圧で開きません。脱出装置はありません。本当に出口はないんです。
しかも小型潜望鏡で敵艦を発見したら、敵艦の位置、速力と進路から回天の進む進路を素早く計算して操艦しなければなりません。鋭利な頭脳と瞬時の判断力、そして卓越した操艦術が要求された特攻兵器だったんです。ただ大部分は敵艦を発見して進路を修正し突入してもカンに頼らざるを得なかったようです。
元乗組員の手記からは回天は操縦が大変難しかったと書かれてありました。
写真の中に鉢巻を絞めた隊員が、見送る隊員たちに笑顔で答えて笑って出撃する写真がありました。必ず死が約束されている死出の旅なのにどうして笑顔で出撃できるんだろうかと、隊員の表情と、この人の心持ちを慮っていたら目頭が熱くなりました。切なくて切なくてたまりませんでした。この写真は今も忘れることができません。
また出撃する隊員が残した遺書は、勇ましい言葉の裏に隠れている思いを想像してみると不覚にもウルウルしてきました。
この中には遺族の方の遺品があるので写真は撮りませんでした。しかし、旅行記を投稿するのであればさし障りの無い個所の写真は撮っておけばよかったと思います。写真がある方が皆さんに理解していただきやすいと思ったからです。回天記念館 美術館・博物館
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弾頭に装填された炸薬は1.55トンで強大な爆発力を秘めた兵器でした。
回天記念館 美術館・博物館
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上部ハッチには楠木正成の家紋で旗印「菊水」の紋が描かれていました。
七生報国の意を表しているんだと思います。七生報国とは「七たび人と生まれて逆賊を滅ぼし、国に報いん」と言う意味で、この七生報国の精神はお国のために尊い命を投げ出して戦う言葉として特攻隊の多くの若者の間で唱えられました。回天記念館 美術館・博物館
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回天後部の推進機です。
回天記念館 美術館・博物館
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回天の左舷側です。
回天記念館 美術館・博物館
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推進機の後、説明板で分かりにくいですが回天のエンジン部分が展示されていました。
回天記念館 美術館・博物館
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回天の全景です。
回天記念館 美術館・博物館
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回天の断面図です。
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記念館の前にある回天碑(慰霊碑)です。ここで慰霊祭が行われています。
なお、この碑の「回天」という文字は、回天の発案者黒木中尉(後に大尉)が書かれた文字です。
慰霊祭には元回天乗務員の方や遺族の方が全国から集まられるそうです。回天記念館 美術館・博物館
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記念館を跡にして下りて行くと馬島小中学校のグラウンドが見えてきました。このグラウンドは元回天の組立整備工場があった場所で、今でも当時の施設が残っています。
ここは弾薬等危険物貯蔵庫跡です。グラウンド沿いの山の斜面に横穴を掘ってそこを貯蔵庫にしていました。 -
こちらは変電所でした。あと、点火試験場跡の建物も残っています。
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馬島小中学校から港に向かう途中で回天発射訓練基地がまた見えてきました。
回天訓練基地跡 名所・史跡
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来た時に見た「回天の島」の看板が見えてきました。その先は港です。フェリーが来るまで港付近にいた猫ちゃん達の写真でも撮りましょう。
ここはニャンコが多いんですよ。上陸した時は港の辺りに沢山いました。来た時はネコちゃんの写真を撮りに来た訳ではないもんですから写真はとりませんでした。
主な写真は撮り終えたのでかわいい猫の写真を取ろうと港に行くと、今度はいないんです。
どこに行ったんでしょうか?この島は猫好きの人にはたまらないと思いますよ。人に良く慣れていますので逃げません。ナデナデできます。
たぶん、島の人達が愛情持って面倒見ているんでしょうね。
この島の住人は400人だそうですが猫はそのくらいいるのでしょうか。大体島って猫が多いですよね。この島には岩合光昭さん、写真撮りにきたんでしょうか?
いい写真が撮れると思いますよ。猫好きの人にはお勧めの島です。
そうこうする内にフェリーがやって来ました。この島ともお別れです。
今度来るときは猫好きの子供達でも連れてこようかと思っています。
それでは回天の島よ、さようなら。
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