2015/06/27 - 2015/06/27
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Wind99さん
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昨年、神楽坂を散歩してみたが、歩き方が分からなかった。
好きなTV番組の「今昔!古地図東京巡り」で、丁度そこをやっていたので、それを参考に再び計画し、ほぼ同じコースとなったが、My散歩してきた。
神楽坂は江戸を感じることができて、楽しかった。
コース
後楽園駅-小石川後楽園-飯田橋駅-牛込見附(御門)跡-神楽坂-見番横丁-善国寺-本多横丁-安養寺-赤城神社-矢来公園-神楽坂駅
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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メトロ後楽園駅を出ると、きゃーという歓声が聞こえてくる。目の前の遊園地のジェットコースターだ。
そして、向かいの東京ドームへ向かう歩道上には、「嵐のワクワク学校 譲ってください」のコンサートチケットを求める女子が、そのプラカードを持って7−8人、適度な間隔をおいて立っていた。後楽園駅 駅
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小石川後楽園の石垣と家紋
東京ドームから、小石川後楽園に敷地に沿って歩くと、その外壁の石垣に多くの印が刻まれていた。
〇に山の字が最も多く見られた。帰宅し調べると、やはりこれは江戸城の石垣を再利用したもののようで、山の字は備中(岡山県)成羽藩山崎家のものと分かった。小石川後楽園 公園・植物園
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8分ほど歩いて、小石川後楽園に着く。
江戸初期からの徳川家上屋敷の回遊式泉水庭園。初代藩主・頼房が江戸の上屋敷の庭として造った庭園を、2代徳川光圀が改修して完成した庭園。後楽園という名もこのときに徳川光圀が名付けたそうだ。小石川後楽園 公園・植物園
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現在の入り口は、この一箇所だけだ。
特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮と小石川後楽園の2つだけで、全国でも9ヶ所だけだそうだ。
左回りに進む。 -
小廬山(しょうろざん)
円い築山で、その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもの。
右上にわずかに見えるのは文京区シビックホール。 -
屏風岩
三代将軍徳川家光がしばしば訪れた際に、この近くの松の枝に手拭いを掛け、川原の石に腰をおろしたといわれる。 -
西湖の堤(右側に見える直線状の堤)
この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の
「西湖の堤」の先駆けとなったそうだ。
左に見える橋は大堰川に掛る渡月橋。 -
通天橋(つうてんきょう)
京都・東山東福寺の「通天橋」にならい、大堰川の渓流に朱塗りの紅橋をかけたもの。 -
得仁堂
この建物は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂。見学は外観だけ。 -
九八屋
江戸時代の風流な酒亭。この名の由来は、「酒を飲むには昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。
戦災により焼失したが昭和三十四年に復元したとの事。 -
白雲台跡
昼なお暗き木曽の山麓を過ぎて渓流を渡りここに登ると、僅かに白雲の行き交うのが見えたという高台。
遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土の社を望むことができたという。 -
大泉水
庭園の真ん中にある大きな池で、その中心に蓬莱島がある。
大きな石は鏡石と言われ、亀の頭に模されて、巨大な亀が蓬莱島を背負っている様子を表したもので、とても、縁起の良い様を表している。 -
大泉水の1つ松と小廬山の遠景
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飯田橋駅(東口)まで歩いてきた。
JRは高架駅だ。飯田橋駅 駅
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駅前は丁度江戸城の外堀があるところ。
水道橋方面は、当時の外堀(飯田濠)が残っている。 -
反対の市ヶ谷方面もそれらしいが、これは昭和47年都の市街地再開発事業が始まり、外堀が埋められたが、都民の要望で、飯田濠を摸した公園にした。
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牛込揚場の石碑と、模造の外堀にも揚場風の作りがあった。
国立国会図書館のコレクションのどんどんノ図 牛込揚場丁 →
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail190.html?sights=ushigome-kagurazaka
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。
後で調べるとこの辺りの町名は、新宿区揚場町だった。 -
外堀に掛かる牛込橋に来た。
この先は当時の立派な外堀が残っている。 -
飯田橋駅西口がある牛込橋。橋の手前側は新宿区だが、、橋を渡ると千代田区になる。
こうして外堀基準で江戸城を図ると、途方もない敷地面積と分かる。 -
牛込橋を渡ると、牛込見附(御門)跡の石垣がある。
見附とは江戸城にあった36の見張り場所だ。
江戸城の外堀に興味を持ったので、また散歩を計画してみる。牛込見附跡 名所・史跡
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牛込見付の石垣は、明治35年にほとんど撤去されたが、橋の左右の石垣だけがわずかに残るだけだ。
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この辺りは石垣は、阿波の徳島藩が担当だったのだろう。
石は横になっていて読みにくいが、松平阿波守と刻印されているのだそうだ。
阿波の字だけは何となくわかる。 -
牛込橋と、撤去される前の貴重な写真の説明書きがあった。
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牛込見附を出て、その牛込橋渡り、江戸城を出ると神楽坂下に出る。
ここから上り坂になる。今の通り名は早稲田通りだ。 -
坂を登り振り返る。江戸時代の有名な広重の浮世絵にあこがれた。
国立国会図書館のコレクションの牛込神楽坂之図 →
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail189.html
当時は防火のため、道幅がかなり広いが、現在は歩道も車道も狭い。浮世絵では牛込見付が良く見えている。また、当時は坂が急で、明治になって山頂を削って坂を緩やかにしたようだ。 -
わき道に入る。熱海湯の脇にある階段。神楽坂に昔ながらの銭湯があるのに驚く。
神楽坂をうねうね曲がりながら、横丁の雰囲気を味わう。 -
その狭い階段にあった雰囲気の良いお店2軒。
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坂を上がると、見番横町の東京神楽坂組合事務所(左)と隣接して伏見火防稲荷神社(右)があった。
見番横町は、芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから、平成になり新宿区が名付けた。
稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくるそうだが、この日は音が聞こえず。見番横丁 名所・史跡
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見番横丁を進むと、いい雰囲気のカラフルなお店2軒が目に付いた。
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神楽坂を上りきると、やや下る道になったため、やや低い山頂があったように思えた。
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開運、厄除けの毘沙門天。
1595年の創立、善國寺。 -
日本橋馬喰町→麹町→神楽坂と2度の火事により、移転してきた。
7月に行われる神楽坂まつりは、ここがメイン会場となる。善国寺 寺・神社・教会
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ここで有名なのは、狛犬ではなく、トラである。しっぽが長い。
その理由は、毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に、この世にお出ましになったことからである。 -
本多横丁
神楽坂で一番大きな横丁に入る。昼飲みできますの看板が多かった。
その昔、この辺りは福井藩の家老で「本多 修理(ほんだ しゅり)」の屋敷があったため名が付いた。 -
本多横丁の店舗1
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本多横丁の店舗2
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芸者新道
さらにすぐ右にある横丁に入ると、芸者新道だ。車は入れないので、歩道上に看板が置いてあり、なぜか風情がある。
昭和12、3年の最盛期は神楽坂に芸妓・幇間合わせて約600名が居たそうだ。 -
鎌倉古道の跡
本多横丁に戻り、やや大きい道に入ると、鎌倉時代からある重要道で府中の国府からの街道だった。 -
兵庫横丁
石畳、黒塀、見越しの木々ともっとも神楽坂らしいと言われる。 -
奥に進むと、早稲田通りに出るが、きわめて細い道になる。
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行元寺の一角
さらに右に入ると、右折、左折、階段、右折、左折と道が続く。
この辺りに明治まで行元寺という大きな寺があり、寺の境内を町屋や遊興の場所として賑わっていて、さらに江戸後期に、振り袖火事で府内から移転してきた多くの武家屋敷でさらに活気にあふれ、神楽坂の花柳界発祥の地となった。 -
日中行列ができていた隠れ家的和カフェの神楽坂茶寮・本店。
神楽坂 茶寮 本店 グルメ・レストラン
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相馬屋
原稿用紙の老舗。 明治の中期に、和半紙だった原稿用紙を尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出したのが「相馬屋製」。 夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちが愛用していた。
店内のショーケースに、夏目漱石の手書きのコピー等を展示してあった。相馬屋 専門店
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聖天堂
神楽坂上の交差点に来た。その角に安養寺がある。
門を入って左側に上り階段があり、そこを進むと、堂々たる金銅仏の坐像の御本尊薬師如来がおられた。医光山 安養寺 寺・神社・教会
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赤城神社。1300年頃、群馬県の赤城神社からの分社された。
境内ではフリーマーケットが行われていたが、地面に敷き物ではなく、ワゴン等で店舗形式の様だった。赤城神社 寺・神社・教会
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敷地内に分譲マンションを建設、建物内にホールやギャラリーなどの施設もある。
透明感のある神社や建物で、何か空間が違うと感じられた。 -
2010年、「赤城神社 再生プロジェクト」として老朽化した社殿全体を建て替え、氏子でもある建築家の隈研吾が設計を担当し、2011年度グッドデザイン賞を住宅部門とビジネスソリューション部門の両方で受賞したという。
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赤城神社拝殿
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来月7月の神楽坂まつりを伝える看板。
第一部 ほおずき市 7月22日(水)・23日(木) 17:30〜22:00
第二部 阿波踊り大会 7月24日(金)・25日(土)
神楽坂と阿波踊りの関係は不明だが、牛込見附の石垣は阿波の徳島藩が担当だったためか? -
東京メトロ神楽坂駅まで来た。
向かいの大きな木造の建て物に座っている人々や、カメラを向けている人が多く、なんだろうと寄って見た。
後で調べると、昨年できた新商業施設「lakagu(ラカグ)」で、上質な衣食住の販売を行う店舗だ。
古い倉庫を改修し、ここも赤城神社と同じで、隈研吾建築都市設計事務所がデザインを監修したそうだ。 -
矢来公園
駅から少し歩き「小浜藩邸跡」と「杉田玄白生誕地」の記念碑がある公園に来た。
若狭国小浜藩主の酒井忠勝が、1628年、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられた。
この辺りはその大きな酒井屋敷があり、この公園はその庭園の跡地。酒井忠勝は家光の右腕と言われたブレーンで、家光はこの屋敷に144回訪問した記録が残っているという。
また杉田玄白はこの地で生まれ育ち、後に小浜藩医となり、町医者になる。解体新書や蘭学事始で有名である。なぜかこのあたりの初めて物ごとに取り組む始めて物語は好きで興味がある。矢来公園 公園・植物園
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