2015/06/28 - 2015/06/28
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Wind99さん
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東京都のJR線大森駅〜京急線の立会川駅間を散歩してきた。
大森駅はMAP(線路)上は東海道本線の表記であるが、東海道線は止まらず、東北本線のみと停車となる不思議な駅である。
コース
大森駅−山王草堂記念館−大森貝塚遺跡庭園−鈴ヶ森処刑場遺跡−二十歳の坂本龍馬像−浜川砲台跡
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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坂の途中にある大田区の蘇峰公園に来た。
徳富蘇峰は、明治〜昭和初期の作家、ジャーナリストであるがほとんど知らない。蘇峰公園 公園・植物園
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隣の看板に大きな周辺地図があり、馬込文士村と書いてある。
大正〜昭和初期のこの馬込村に多くの文士、芸術家が住み、彼らの文学作品などにも、大きな影響を与え、戦前まで交流は続いたという。
確かにMAPを見ると多くの著名人の名が見えた。 -
公園には屋敷の様な門がある。
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23夜待ち信仰の碑
陰暦8月23日の夜、月待ちをすれば願いが叶うという信仰。
写真では分からないが、石碑の上部に日輪と月輪が彫られていた。
明治17年の製作。 -
坂を上って行く。徳富蘇峰の銅像。
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蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が、大田区立山王草堂記念館として無料公開されていた。
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蘇峰の書斎があった家屋2階部分。(聞くと撮影OKとのこと)
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玄関部分の復元保存。
館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。 -
庭には小さな池が保存されていた。
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少し歩くと品川区立大森貝塚遺跡庭園に着く。
大森貝塚遺跡庭園 公園・植物園
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庭園MAP
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ちょっと変わった作りの遺跡広場。
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モース博士の広場
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明治10年、米の動物学者モースが腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見した。この大森貝塚から日本の考古学が始まった。
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縄文時代は、海が間近にあった。
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時代背景として縄文後期は、東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、急激な人口減少が起きている。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらないという。 -
さらに海側へ移動すると鈴ケ森刑場遺跡がある。
鈴ヶ森刑場跡 名所・史跡
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隣接する大経寺と共に、しながわ百景である。
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東京都指定文化財である。
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磔台
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に角材が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺したのである。 -
火炙台
八百屋お七を初め火炙りの処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て、足下にマキを積み縛りつけてその上部に縛りつけて処刑されたのである。 -
ここは旧東海道沿いになり江戸の南の入り口となる。
江戸時代にはどちらも江戸の入り口に存在した大和田刑場、小塚原刑場とともに三大刑場といわれたそうだ。 -
品川方面へ進むと京急線立会川駅の商店街に出る。
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立会川駅近くの北浜川児童遊園に二十歳の坂本龍馬像がある。
1853年、坂本龍馬が二十歳の時、ペリーの黒船艦隊が来航した。この翌年、龍馬は浜川砲台の警護にあたっていたとのことで、龍馬ゆかりの地となっている。
しかし、この像はなじみ深いな思っていたら、なんと、あの高知県桂浜にある龍馬像と同じものだという。珍しく桂浜でこの像の土産を買って、それ以来ずっと家に置いてあるため見慣れていたのだ。龍馬像 名所・史跡
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後で調べてみると、この年龍馬は、江戸へ剣術修行に行き「北辰一刀流剣術」の桶町千葉道場に入門し、ペリー来航時は土佐藩臨時御用として品川沿岸警備にあたっていた。土佐藩より脱藩したのはその9年後となる。
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龍馬像の足下に、浜川砲台を作ろう貯金箱(缶)が置いてあった。
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すぐ近くに立会川が流れ、この先で海に合流する。川はクリーム色で不気味だ。
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この浜川橋は、家康入府と共に架けられたため1600年頃という。
別名を涙橋と言い、鈴ケ森刑場で処刑される罪人は、江戸から裸馬に乗せられ護送されてきて、親族らがこの橋で共に涙を流しながら別れたということに由来する。涙橋 (浜川橋) 名所・史跡
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その涙橋。
立会川の由来も、その親族らが最後に見送る(立ち会う)場所であることからという説もある。 -
橋の袂に天祖神社があった。
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たまに神社で見る茅の輪(ちのわ)。
そのくぐり方が書いてあったし、勉強になった。(ここは龍馬とは関係ない)天祖諏訪神社 寺・神社・教会
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涙橋から立会川に沿って少し行くと、行き止まりに立会川の浜川砲台跡に出る。
石がいくつかあるだけで、これが砲台跡かとがっかりする。龍馬像にあった貯金箱でもう少し体裁を保てたらいいなと思った。浜川砲台跡 名所・史跡
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この辺りは土佐藩の抱え屋敷であり、ペリー来航の翌年、砲台を八門を作り、敷地を2300坪に拡大している。
二十歳の龍馬は毎日、この浜川砲台と屋敷との往復をしていたのだろうか。 -
かつてはここが海であったが、今は運河であり、東京湾は2km先になる。
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