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 今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて<br />ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。<br />高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。<br />乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。<br />観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、<br />平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。<br /> そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。<br /> 今回は、準備~ナホトカ航路~シベリア鉄道 ハバロフスクまで、<br />移動距離2360.4キロです。<br /><br />青年は荒野をめざす 作詞五木寛之、作曲加藤和彦、歌ザ・フォーク・クルセダーズ<br /> <br /> ひとりで行くんだ幸せに背を向けて<br />さらば恋人よなつかしい歌よ友よ<br />今~青春の河を越え<br />青年は青年は荒野をめざす<br /> もうすぐ夜明けだ出発の時が来た<br />さらばふるさと想い出の山よ河よ<br />今~朝焼けの丘を越え<br />青年は青年は荒野をめざす<br /><br /> みんなで行くんだ苦しみを分けあって<br />さらば春の日よちっぽけな夢よ明日よ<br />今、夕焼けの谷を越え<br />青年は青年は荒野をめざす<br /><br /> ひとりで行くんだ幸せに背を向けて<br />さらば恋人よなつかしい歌よ友よ<br />今~青春の河を越え<br />青年は青年は荒野をめざす<br />さらばふるさと想い出の山よ河よ<br />今~朝焼けの丘を越え<br />青年は青年は荒野をめざす<br /> https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%81%AF%E8%8D%92%E9%87%8E%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%99&amp;tid=236d69f291fe7ecc8b233cf38481955f&amp;ei=UTF-8&amp;rkf=2&amp;dd=1

青年は荒野をめざす Vol.1 準備~横浜港~ナホトカ航路~シベリア鉄道 ハバロフスク

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1974/07/23 - 1974/07/26

5位(同エリア145件中)

7

42

ノスタルジア

ノスタルジアさん

 今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
 そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
 今回は、準備~ナホトカ航路~シベリア鉄道 ハバロフスクまで、
移動距離2360.4キロです。

青年は荒野をめざす 作詞五木寛之、作曲加藤和彦、歌ザ・フォーク・クルセダーズ
 
 ひとりで行くんだ幸せに背を向けて
さらば恋人よなつかしい歌よ友よ
今~青春の河を越え
青年は青年は荒野をめざす
 もうすぐ夜明けだ出発の時が来た
さらばふるさと想い出の山よ河よ
今~朝焼けの丘を越え
青年は青年は荒野をめざす

 みんなで行くんだ苦しみを分けあって
さらば春の日よちっぽけな夢よ明日よ
今、夕焼けの谷を越え
青年は青年は荒野をめざす

 ひとりで行くんだ幸せに背を向けて
さらば恋人よなつかしい歌よ友よ
今~青春の河を越え
青年は青年は荒野をめざす
さらばふるさと想い出の山よ河よ
今~朝焼けの丘を越え
青年は青年は荒野をめざす
 https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%81%AF%E8%8D%92%E9%87%8E%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%99&tid=236d69f291fe7ecc8b233cf38481955f&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道
旅行の手配内容
個別手配

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  • 平成30年9月26日(水)朝日新聞から<br /><br />若者の海外旅行に影響を与えた本に小田実の「何でも見てやろう」、五木寛之の「青年は荒野をめざす」、沢木耕太郎の「深夜特急」がある。

    平成30年9月26日(水)朝日新聞から

    若者の海外旅行に影響を与えた本に小田実の「何でも見てやろう」、五木寛之の「青年は荒野をめざす」、沢木耕太郎の「深夜特急」がある。

  •  昭和40年代、金の無い若者たちがヨーロッパに旅行するとすれば、<br />横浜から船に乗ってソ連のナホトカに着き、それから列車で<br />ハバロフスクまで行き、そこからモスクワまで国営のアエロフロート機で<br />モスクワまで行くのである。<br /> モスクワで1,2日程観光してその後、列車でフィンランドに向かうのが<br />当時、一番安く、人気コースだった。<br /><br /> 人気化に火を点けたのが、昭和42年、週刊誌「平凡パンチ」に<br />連載された五木寛之著「青年は荒野をめざす」だった。<br />作者もナホトカ航路を利用してヨーロッパに行き数々の海外小説を書いている。<br /> 「青年は荒野をめざす」を読んですっかりその気になって、<br />何も考えず、期待感、昂揚感だけで自分もヨーロッパに旅立ったのである。<br /> 

     昭和40年代、金の無い若者たちがヨーロッパに旅行するとすれば、
    横浜から船に乗ってソ連のナホトカに着き、それから列車で
    ハバロフスクまで行き、そこからモスクワまで国営のアエロフロート機で
    モスクワまで行くのである。
     モスクワで1,2日程観光してその後、列車でフィンランドに向かうのが
    当時、一番安く、人気コースだった。

     人気化に火を点けたのが、昭和42年、週刊誌「平凡パンチ」に
    連載された五木寛之著「青年は荒野をめざす」だった。
    作者もナホトカ航路を利用してヨーロッパに行き数々の海外小説を書いている。
     「青年は荒野をめざす」を読んですっかりその気になって、
    何も考えず、期待感、昂揚感だけで自分もヨーロッパに旅立ったのである。
     

  •  後年、五木寛之氏から頂いた書。<br />本当は「青年は荒野をめざす」と書いて貰いたかった。

     後年、五木寛之氏から頂いた書。
    本当は「青年は荒野をめざす」と書いて貰いたかった。

  •  海外渡航のための外国へ向けた支払承認申請書<br />申請日 昭和49年2月26日<br /><br />当時、外貨の持ち出し制限があった。

     海外渡航のための外国へ向けた支払承認申請書
    申請日 昭和49年2月26日

    当時、外貨の持ち出し制限があった。

  • 昭和48年10月現在の主要各国通貨のレートと実勢相場

    昭和48年10月現在の主要各国通貨のレートと実勢相場

  • 昭和49年2月26日<br />外貨購入 2500ドルを711,250円で購入<br />1ドル284.5円<br />

    昭和49年2月26日
    外貨購入 2500ドルを711,250円で購入
    1ドル284.5円

  • 昭和49年2月26日<br />外貨購入 500ドルを143,800円で購入<br />1ドル287.6円<br />

    昭和49年2月26日
    外貨購入 500ドルを143,800円で購入
    1ドル287.6円

  • 昭和49年2月26日<br />旅行小切手購入証明書 盗難、紛失時に必要<br />2500ドルを100ドル小切手25枚購入

    昭和49年2月26日
    旅行小切手購入証明書 盗難、紛失時に必要
    2500ドルを100ドル小切手25枚購入

  • 昭和49年2月26日<br />旅行小切手購入証明書 盗難、紛失時に必要<br />500ドルを10ドル小切手50枚購入

    昭和49年2月26日
    旅行小切手購入証明書 盗難、紛失時に必要
    500ドルを10ドル小切手50枚購入

  •  昭和49年2月26日<br />ソ連、ポーランド チェコスロバキアの旅行計画書(7月23日から8月11日)<br /><br />ソ連、東欧のビザは個人で取る事は無理であった。

     昭和49年2月26日
    ソ連、ポーランド チェコスロバキアの旅行計画書(7月23日から8月11日)

    ソ連、東欧のビザは個人で取る事は無理であった。

  •  昭和49年7月16日<br />旅行代理店からの請求書<br />324,690円

     昭和49年7月16日
    旅行代理店からの請求書
    324,690円

  •  昭和49年7月16日<br />旅行代金領収書

     昭和49年7月16日
    旅行代金領収書

  • 昭和49年7月10日の新聞記事<br />を読んで不安になり海外旅行保険に加入。<br />

    昭和49年7月10日の新聞記事
    を読んで不安になり海外旅行保険に加入。

  • 昭和49年7月16日<br />「中ソ国境戦争 今夏にぼっ発」の新聞記事で不安になり<br />海外旅行保険に加入。<br /> 加入後、約款を読むと、戦争は免責であった。

    昭和49年7月16日
    「中ソ国境戦争 今夏にぼっ発」の新聞記事で不安になり
    海外旅行保険に加入。
     加入後、約款を読むと、戦争は免責であった。

  • 旅行記の周辺地図

    旅行記の周辺地図

  • 昭和49年7月23日、午前11時、汽笛が鳴った。桟橋の見送りの人々が手を振った。<br />ナホトカ航路ジェルジンスキー4700トンがゆっくりと静かに岸壁を離れた。<br /> その時である。ロシア人の恋人同士と思われる2人が別れのテープ数本を<br />お互いの手首にしっかりと巻きつけていた為、船が離岸してもテープが切れず、<br />岸壁にいた恋人の女性がそのまま引きずられて、そのまま海に落ちてしまったのである。<br /> 幸いすぐに救出されて事なきを得たが、<br />「二人の絆は強くて簡単には切れない事がよく分かった。」<br />などと不謹慎な事を言い出す輩がいたのである。<br /> 船内ではナホトカ時間の為、時計を1時間進めた。<br />天気は最高の晴れ、海は穏やか。<br /><br />同室の者は、日系アメリカ人三世のデビッド、同行の埼玉のI、<br />そして福島のOさん。<br /> 船内のコカ・コーラが高い!115円。<br />明日はいよいよ津軽海峡を抜ける。<br /><br />日記より<br />

    昭和49年7月23日、午前11時、汽笛が鳴った。桟橋の見送りの人々が手を振った。
    ナホトカ航路ジェルジンスキー4700トンがゆっくりと静かに岸壁を離れた。
     その時である。ロシア人の恋人同士と思われる2人が別れのテープ数本を
    お互いの手首にしっかりと巻きつけていた為、船が離岸してもテープが切れず、
    岸壁にいた恋人の女性がそのまま引きずられて、そのまま海に落ちてしまったのである。
     幸いすぐに救出されて事なきを得たが、
    「二人の絆は強くて簡単には切れない事がよく分かった。」
    などと不謹慎な事を言い出す輩がいたのである。
     船内ではナホトカ時間の為、時計を1時間進めた。
    天気は最高の晴れ、海は穏やか。

    同室の者は、日系アメリカ人三世のデビッド、同行の埼玉のI、
    そして福島のOさん。
     船内のコカ・コーラが高い!115円。
    明日はいよいよ津軽海峡を抜ける。

    日記より

  • 乗船カードの表紙<br />

    乗船カードの表紙

  • 乗船カード 見開きページ<br />船室 224 食堂のテーブル 11<br />朝食8時30分 昼食12時30分 ティータイム16時30分 夕食19時<br /><br />食事のテーブルは常泉寺に予め決められていて、デビッド、I、それに女性の<br />Kさんと一緒だった。

    乗船カード 見開きページ
    船室 224 食堂のテーブル 11
    朝食8時30分 昼食12時30分 ティータイム16時30分 夕食19時

    食事のテーブルは常泉寺に予め決められていて、デビッド、I、それに女性の
    Kさんと一緒だった。

  • 乗船切符のカバー<br /><br />7月24日正午現在、船は北緯40.5度、東経142.5度、横浜港から400マイル、<br />速度17ノット、天気快晴。<br />午後8時過ぎ、船は津軽海峡を抜けた。漁火が美しく輝いていた。<br /><br />日記より

    乗船切符のカバー

    7月24日正午現在、船は北緯40.5度、東経142.5度、横浜港から400マイル、
    速度17ノット、天気快晴。
    午後8時過ぎ、船は津軽海峡を抜けた。漁火が美しく輝いていた。

    日記より

  • 昭和49年7月25日<br />左からI、デビッド、私そしてKさん。

    昭和49年7月25日
    左からI、デビッド、私そしてKさん。

  • 昭和49年7月24日<br /> 夜9時からのコンサートは、人々の歓声と音楽と拍手で沸き返り大変楽しい<br />ものであった。<br /> 乗組員たちは、皆、それぞれ相当なタレントばかりだった。

    昭和49年7月24日
     夜9時からのコンサートは、人々の歓声と音楽と拍手で沸き返り大変楽しい
    ものであった。
     乗組員たちは、皆、それぞれ相当なタレントばかりだった。

  •  昭和49年7月24日

    昭和49年7月24日

  • 昭和49年7月24日<br />右からデビッド、桑原さん、アメリカ人

    昭和49年7月24日
    右からデビッド、桑原さん、アメリカ人

  • 昭和49年7月25日<br /><br />「あなた、まるでジュンみたいね。」<br />突然、船上デッキでこれから始まる旅の事を話していた女性から言われて<br />鳥肌が立った。<br />興奮して「読んだの、ジュンは俺だよ!」と思わず訳の分からない事を言ってしまった。<br />「あなたもジャズをやるの?」<br />ここで<br />「そうだよ、ジュンと同じトランペットだよ。じゃあ、君は水森麻紀だね。」<br />答えれば二人の進展があったかも知れないのに、<br />「それはない。」と正直に答えてしまった。<br />途端に彼女の表情は夢みる小説の世界から現実に戻ってしまった。<br /><br />この会話について、五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んだ人は全て察するでしょう。<br /><br />「あなた、まるでジュンみたいね。」は旅行中に言われた最も感激した一言である。<br />それからはますますジュンに成りきってしまったのである。<br />青春していましたね。

    昭和49年7月25日

    「あなた、まるでジュンみたいね。」
    突然、船上デッキでこれから始まる旅の事を話していた女性から言われて
    鳥肌が立った。
    興奮して「読んだの、ジュンは俺だよ!」と思わず訳の分からない事を言ってしまった。
    「あなたもジャズをやるの?」
    ここで
    「そうだよ、ジュンと同じトランペットだよ。じゃあ、君は水森麻紀だね。」
    答えれば二人の進展があったかも知れないのに、
    「それはない。」と正直に答えてしまった。
    途端に彼女の表情は夢みる小説の世界から現実に戻ってしまった。

    この会話について、五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んだ人は全て察するでしょう。

    「あなた、まるでジュンみたいね。」は旅行中に言われた最も感激した一言である。
    それからはますますジュンに成りきってしまったのである。
    青春していましたね。

  • 昭和49年7月25日

    昭和49年7月25日

  • 昭和49年7月25日<br /><br />デビッド、桑原さんと

    昭和49年7月25日

    デビッド、桑原さんと

  • 昭和49年7月25日<br /> <br />ナターシャとの別れ<br />ナターシャは食事、ティータイムの時のウエートレスだった。

    昭和49年7月25日
     
    ナターシャとの別れ
    ナターシャは食事、ティータイムの時のウエートレスだった。

  • 昭和49年7月25日<br /> 午後3時近くになってナホトカが、シベリア大陸が、ソ連が見えて来た。<br />ほとんどの乗船客がデッキや廊下に出て灰色がかった陸地を眺めていた。

    昭和49年7月25日
     午後3時近くになってナホトカが、シベリア大陸が、ソ連が見えて来た。
    ほとんどの乗船客がデッキや廊下に出て灰色がかった陸地を眺めていた。

  • 昭和49年7月25日

    昭和49年7月25日

  • 昭和49年7月25日

    昭和49年7月25日

  • 昭和49年7月25日

    昭和49年7月25日

  • 昭和49年7月25日<br />案外、緑も多い、石油コンビナートも見えた。<br /><br />緑の多い山肌を眺めながら船はゆっくりと港湾に入り、<br />一番奥へと進んでいった。

    昭和49年7月25日
    案外、緑も多い、石油コンビナートも見えた。

    緑の多い山肌を眺めながら船はゆっくりと港湾に入り、
    一番奥へと進んでいった。

  • 昭和49年7月25日<br /> 横浜を出たジェルジンスキー号は、3日目の7月5日午後5時、<br />ナホトカに着いた。<br /> 1458キロ、2泊3日の船旅だった。<br /><br /> 船が接岸すると制服の入国係官が乗り込んで来て通関検査が始まった。<br />雰囲気はかなり物々しく緊張した。<br /> 検査自体も厳しく、日系アメリカ人三世のデビッドの検査は特に厳しく、<br />リュックの中、衣類、手紙類まで徹底的に調べられたのである。

    昭和49年7月25日
     横浜を出たジェルジンスキー号は、3日目の7月5日午後5時、
    ナホトカに着いた。
     1458キロ、2泊3日の船旅だった。

     船が接岸すると制服の入国係官が乗り込んで来て通関検査が始まった。
    雰囲気はかなり物々しく緊張した。
     検査自体も厳しく、日系アメリカ人三世のデビッドの検査は特に厳しく、
    リュックの中、衣類、手紙類まで徹底的に調べられたのである。

  • 昭和49年7月25日<br /> 検査済みのカードを提示してタラップを降りると人影まばらな埠頭に<br />大きな矢印の看板が立っていて、その方向に歩くと待合室のある2つの<br />建物の間に出た。建物の後ろには切り立った崖が迫っていた。<br /> バスが待合室から丘の上の鉄道駅まで乗客を運んだ。<br />ナホトカの街ははやはり外国であった。ロシア文字、旧式の車、赤レンガ造りの建物など、何もかもが異国であった。<br /> 10ドルを両替したら734カペイカだった。

    昭和49年7月25日
     検査済みのカードを提示してタラップを降りると人影まばらな埠頭に
    大きな矢印の看板が立っていて、その方向に歩くと待合室のある2つの
    建物の間に出た。建物の後ろには切り立った崖が迫っていた。
     バスが待合室から丘の上の鉄道駅まで乗客を運んだ。
    ナホトカの街ははやはり外国であった。ロシア文字、旧式の車、赤レンガ造りの建物など、何もかもが異国であった。
     10ドルを両替したら734カペイカだった。

  • 昭和49年7月25日<br /> ボストーク号の前でデビッド、Iさんと<br />彼らとはイルクーツクまで一緒。<br /><br /> 気になるKさんはハバロフスクからモスクワへ、<br />そして留学の為、チェコスロバキアのブラチスラバへ向かった。<br />8月7日に再会の約束した。<br /> <br /> 定刻より15分遅れて20時15分にハバロフスクに向けてボストーク号は<br />出発した。<br /> いよいよこれからモスクワまで約1万キロの列車の旅が始まるのである。

    昭和49年7月25日
     ボストーク号の前でデビッド、Iさんと
    彼らとはイルクーツクまで一緒。

     気になるKさんはハバロフスクからモスクワへ、
    そして留学の為、チェコスロバキアのブラチスラバへ向かった。
    8月7日に再会の約束した。
     
     定刻より15分遅れて20時15分にハバロフスクに向けてボストーク号は
    出発した。
     いよいよこれからモスクワまで約1万キロの列車の旅が始まるのである。

  • 昭和49年7月26日<br />ハバロフスク駅前で<br /><br /> 11時11分、ボストーク号はハバロフスク駅に到着。<br />雨。かなり蒸し暑いとまず、感じた。<br /> 駅を出ると街の印象は薄汚い田舎町という雰囲気。<br />日本人が珍しいのか露骨にジロジロと見られるのには閉口した。<br /> 駅の食堂で昼食を摂ったが、ハエを追っ払うのに必死だった。

    昭和49年7月26日
    ハバロフスク駅前で

     11時11分、ボストーク号はハバロフスク駅に到着。
    雨。かなり蒸し暑いとまず、感じた。
     駅を出ると街の印象は薄汚い田舎町という雰囲気。
    日本人が珍しいのか露骨にジロジロと見られるのには閉口した。
     駅の食堂で昼食を摂ったが、ハエを追っ払うのに必死だった。

  • ナホトカ〜ハバロフスク〜イルクーツク〜モスクワ(7月25日〜8月2日)<br />列車切符カバー<br />91.40ルーブルで35491円 1ルーブル 388円

    ナホトカ〜ハバロフスク〜イルクーツク〜モスクワ(7月25日〜8月2日)
    列車切符カバー
    91.40ルーブルで35491円 1ルーブル 388円

  • ナホトカ〜ハバロフスク(7月25日〜26日)列車切符<br />6.20ルーブルで2405円

    ナホトカ〜ハバロフスク(7月25日〜26日)列車切符
    6.20ルーブルで2405円

  • ハバロフスク〜イルクーツク(7月26日〜29日) 列車切符<br />13.50ルーブルで5238円

    ハバロフスク〜イルクーツク(7月26日〜29日) 列車切符
    13.50ルーブルで5238円

  • これは何か、ロシア語の分かる人教えてください。

    これは何か、ロシア語の分かる人教えてください。

  • これは何か、ロシア語の分かる人教えてください

    これは何か、ロシア語の分かる人教えてください

  • 昭和49年7月23日〜26日<br />横浜港からソ連ハバロフスクまでの移動距離2,360.4キロ

    昭和49年7月23日〜26日
    横浜港からソ連ハバロフスクまでの移動距離2,360.4キロ

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この旅行記へのコメント (7)

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  • olive kenjiさん 2020/10/23 16:39:32
    一瞬、私の旅行記かと思いました
    ノスタルジアさん 初めまして フォロー有難うございました。

    どの様な方かと旅行記を少し読まさせて頂きましたけど、びっくりもびっくり。
    顔ファッションも似ているし、この方は私じゃないのと一瞬勘違いしました。
    全く同じ時期に,同じような旅行をなさっているじゃないですか。
    おそらく同じ年齢ではないかと思います。昭和26年生まれです。

    船中ではいい写真を撮っていますね。
    金髪ロシア娘のダンサーを見たときは、もう完全に欧州へ来たと思いましたね。
    桑原さん可愛いですね。もうさっそく肩に手を置いちゃって。でもその後はデビット君が手を置いてますね。私の眼は鋭いでしょう。

    モスクワまで列車でスルーだったんですね。羨ましいですね。
    私は途中から飛行機でしたのでイルクーツクからと思っていましたが、ハバロスクからだったんでしょうか。まーどうでもいいですが。

    プロフィールに全世界旅行は飛行機で行かず船とは凄いですね。
    飛行機に弱いと書いていましたが、おそらく冒険家の意地ではないでしょうか。
    ノスタルジアさんは船で行くとか、行き先が私たち同世代の憧れの旅をしています。

    私からもフォローさせて下さい。
    しばらくは立て続けにコメント差し上げるかもしれません。
    ただ、その後それっきり音信不通になる悪い癖がありますので悪しからず。

    本当に久しぶりの大型旅行記に遭遇したことに喜んだというよりも,唯々びっくりとしたのと、自分と同じような旅行者がいたことの不思議さを感じています。
    これからもよろしくお願いします。

                   olive kenji


    ノスタルジア

    ノスタルジアさん からの返信 2020/10/23 17:31:01
    Re: 一瞬、私の旅行記かと思いました
    olive kenjiさん、コメント有難うございます。
    1974年前後にソ連経由でヨーロッパ旅行された方と知り合えて嬉しい限りです。私は昭和25年生まれです。
    飛行機に乗らないのは高所恐怖症だからですが、例えばヨーロッパ最西端のロカ岬で日本人最初の証明書を貰ったのが自慢ですが、もしリスボンまで飛行機で行ってロカ岬に行っても価値が無いと思っているからです。
    青年は荒野をめざす Vol.34 ポルトガル リスボン ロカ岬 地の果て証明書 日本人第1号は私です。
    https://4travel.jp/travelogue/10955039
  • アニさん 2019/03/25 16:24:13
    1979年9月ナホトカ航路~シベリア鉄道~ヘルシンキ
    ノスタルジア様
    本当に懐かしく読ませていただきました。また、詳細なパンフやチケットなどの資料をよく保存されていましたね。
    私は今から40年前に「親指一本の旅」と「ぶらり世界放浪術」(※いずれも和智香著1977年出版)に感化されヨーロッパ、モロッコをノスタルジアさんと同様にヒッチハイク、列車、船、バスで旅しました。しばらくロンドンに滞在してその後アメリカをバスで横断。トータル9ヶ月19ヶ国の放浪でした。(今、電子本にする準備中ですが、家族に送った絵葉書を頼りに書き始めるところでした)
    当時「青年は荒野をめざす」を読んでなかったので最近読み始めています。
    まだ、Vol.1を読ませて頂いただけですが、楽しみに全部読ませていただきます。
    それにしても髪型服装が当時の私と似ています。(ジージャンにジーパン)


    ノスタルジア

    ノスタルジアさん からの返信 2019/03/25 20:25:35
    Re: 1979年9月ナホトカ航路~シベリア鉄道~ヘルシンキ
    アニさん、今晩は。多くのいいねの投票とコメント有難うございます。同じ様な体験をされた方のコメント本当に嬉しい限りです。アメリカバス横断さぞかし良かった事でしょう。電子本出来ましたら是非お知らせ願います。来年の4月、健康状態さえ問題無ければニューヨークからシアトルまで大陸横断鉄道に乗ります。ヒコーキ嫌いの私ですので仕方なくピースボートでニューヨークで下船してシアトルで再乗船します。三途の川の渡し舟に乗る方が早いかもしれません。これからも宜しくお願いします。

    アニ

    アニさん からの返信 2022/12/22 19:03:03
    RE: Re: 1979年9月ナホトカ航路?シベリア鉄道?ヘルシンキ
    ノスタルジア様

    ご無沙汰しております。お陰様でやっと出版出来ました。下記のアマゾンkindleストアから無料キャンペーン(25日まで)ですので、ダウンロードしてお読み頂けます。
    265日間世界一周放浪の旅 前編:シベリア鉄道~欧州ヒッチハイク編: あなたも43年前にタイムスリップ!ネットもスマホもない超アナログ時代の世界19ヶ国放浪記 https://www.amazon.co.jp/dp/B0BQC2HT97?ref_=cm_sw_r_apin_dp_3FSM31GC7AN20N5SHKYY

    > アニさん、今晩は。多くのいいねの投票とコメント有難うございます。同じ様な体験をされた方のコメント本当に嬉しい限りです。アメリカバス横断さぞかし良かった事でしょう。電子本出来ましたら是非お知らせ願います。来年の4月、健康状態さえ問題無ければニューヨークからシアトルまで大陸横断鉄道に乗ります。ヒコーキ嫌いの私ですので仕方なくピースボートでニューヨークで下船してシアトルで再乗船します。三途の川の渡し舟に乗る方が早いかもしれません。これからも宜しくお願いします。
  • himeさん 2017/08/28 13:21:34
    1977年ナホトカ航路
    懐かしく読ませて頂きました。私の場合は、ハバロスクからモスクワまでアエロフロートでしたが。同じように青年は荒野を目指すや、何でも見てやろう、に影響をうけたものです。金額等詳細に記録がとられており感銘を受け、懐かしさもあって投稿させてもらいました。
    ありがとうございました。

    ノスタルジア

    ノスタルジアさん からの返信 2017/08/28 13:57:46
    RE: 1977年ナホトカ航路
    himeさん、投稿有難うございました。
    同じ頃に同じ様に旅行されたのですね。嬉しいです。是非、旅行記のアップお願いします。
    これからも宜しくお願いします。
    ノスタルジア
    > 懐かしく読ませて頂きました。私の場合は、ハバロスクからモスクワまでアエロフロートでしたが。同じように青年は荒野を目指すや、何でも見てやろう、に影響をうけたものです。金額等詳細に記録がとられており感銘を受け、懐かしさもあって投稿させてもらいました。
    > ありがとうございました。

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