2013/10/24 - 2013/10/24
467位(同エリア920件中)
ムッシュさん
北関東の主要な宿場、宇都宮宿を歩いて見ましょう
宇都宮宿は、江戸から17番目の宿場。城下町で二荒神社の門前町。幕末期の日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが南北20町(約2.2km)東西18町58間(約2.1㎞)、宿内惣家数家が1219軒(本陣2軒、脇本陣1軒、問屋場1軒、旅籠42軒)、宿内人別6457人(オトコ3302人、女3154人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共142文、軽尻馬1疋92文、人村1人1文でした。
「当町は日光道中第一の繁昌の地にして、町四十八丁、通りぬけ四十丁ヨ」(五海道中細見独案内)とあり、明治に入ってからも「宇都宮町 東京市を距(へだた)ること二十八里余(河内)郡の中央に位置し、奥州街道及び諸街道の要路に当り、実に下野国第一の都会なり」(日本名勝地誌)と記された交通の要所であった。
地名の起こりは「地名の起り、開発の年代は詳ならざれ共、土人の伝には人王十代崇神天皇第一の皇子豊城入彦命を東国の総管となし下し玉ふに、国民豊に治り、此処に宮居し玉ふゆゑ民おのつから宇津くしき宮と称し、仰ぎ尊みけるをいつの頃よりか中略して宇都宮と唱へ改め庄名とし、宇都宮庄、或は蓬莱の庄と唱来れりといふ」(日光道中略記)
日光街道最大の宿場として栄えた。栃木街道、鹿沼街道、茂原街道、水戸街道、真岡街道などの始点でもあり、将軍はじめ諸侯の日光参詣の宿泊地でもあった。「宇都宮城の釣天井」伝説で有名な本多正純が江戸時代の初め頃に宇都宮城主となり、街道や城下町の整備、宇都宮場の大改造を行って、現在の宇都宮市街地の基礎を造りました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- 徒歩
PR
-
不動交差点に建つ【不動堂】
不動堂には宇都宮朝綱(ともつな)が造立した不動明王が安置されています。
中世の奥州街道の追分である。
近世(江戸時代)なると、追分はこの左側の先となった
宇都宮城主の本多正純が、宇都宮宿の西側を通るように付け替えたという(栃木県宇都宮市不動前) -
【不動堂】
宇都宮友綱の建立と言われる。現在の地名も”不動堂”と呼ぶ。この三叉路を左に進むと宇都宮宿です。 -
堂内をチョイと覗き、不動様をぱちりと撮りました
-
宇都宮宿入口にも相当する不動堂に立つ目印の【追分道標】
「右奥州街道及び日光街道」と標されている。
①奥州街道追分
「往古の奥州街道は石橋宿の東、上三川より当宿入口不動堂の前を経て下河原の辺にかゝり、城内に入り上河原小袋町辺に出、今泉村に達せしを、元和年中(1615~24)南新町通に往還をひらき、日光・奥州の両道に定られしと云」
(日光道中略記)昔の奥州街道は不動堂前から北東に向かい、田川の西沿いに進
む道筋である。 -
街道を進み東部宇都宮線のガードを潜ると、宇都宮宿に貢献した
【蒲生君平勅旌碑(ちょくせいひ)】が立つ。
明治天皇の命により、宇都宮藩知事の戸田忠友が明治2年に蒲生君平の遺功を追賞したものである。この碑のある場所が宿南入口で、木戸、土塁、番所があった。
天保14年(1843年)の頃、宇都宮宿の宿内家数は1,219軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠42軒で宿内人口は6,457人でした。 -
【蒲生君平顕彰碑(明治2年建)】
蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ)
明治天皇の命により、宇都宮藩知事の戸田忠友が明治2年(1869)に蒲生君平の遺功を追賞し建立。蒲生君平は林子平、高山彦九郎とともに寛政の三奇人といわれ明和5年(1768)に宇都宮で生まれ、学者・尊王家として知られている。
文化5年(1808)に「三陵志」や「職冠誌」を著した。三陵志は機内を中心とし
た天皇陵について文献と実地検証に基づいて考証した書。古墳研究の画期をなす
書として、その後の三陵復興運動にも影響を与えた。
蒲生君平の墓は桂林寺にあり、蒲生神社は八幡山にある。
明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、先祖は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山陵志」を著し修復の必要性を説きました。
また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や、国防についてまとまえた「不恤緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。 -
【台陽寺(たいようじ)】
⑪台陽寺(たいようじ)
慶長10年(1605)建立。かつては、この付近に多くの寺院が配され、宇都宮城
下入口を固める防御戦の役割をはたした。戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓「重寛素静居士」がある。 -
新町の大エノキ。
推定樹齢800年とされ。樹高約40m。宇都宮城下の南口の目印であった。
【新町のケヤキ】 栃木県指定天然記念物(昭和63年12月26日指定)
所有者 新町自治会
樹高43.0m 目通周囲7.9m
枝張り 東西34.0m 南北31.0m
推定樹齢 800年
この木は、江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っており、多くの旅人の目印となっていたもので、落葉する10月下旬頃の姿が、特に美しい。
樹齢は、推定800年であるが、樹勢は旺盛であって、根周り20m程もあり、根張りが良く、幹はしっかりとしている。
なお、戦前までは、このようなケヤキが3本あったが、一番大きなこの木を残し、供木したため、現在はこの木だけが残っている。
栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会 -
【熱木不動尊(ねぎふどうそん)】
宇都宮宗円が1059年、戦勝を祈願して造った不動尊。
初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して彫った不動尊を祀っています、この不動尊は宇都宮城乾の守護仏でした。
「贄木町(にえきまち)持宝院持。此不動は宇都宮朝綱の建立なりと云」(日
光道中略記)
宇都宮宗円が康平2年(1059)、多気山上に布陣したとき、戦勝を祈願して造った三体の不動尊の一つ
【熱木不動尊由来】
持宝院に鎮座する不動尊像は初代下野の国司宇都宮宗円公天皇の命を受けて奥州の賊徒征伐に遠征城山村多気山山頂に陣を張りし時に戦勝を祈願して不動尊三体を造成したという内の一体で世にも得難い不動明王で願い事叶うという伝説がある
九代公綱公
多気山より城を宇都宮本丸に移転するに当り、第一に守護神である不動明王尊像を宇都宮城内南方畑中に建立国網代に至り秀吉に伏せず、以って検地の不正を理由に宇都宮家は秀吉に取潰しとなり、さすが古城を以って日本に誇れる名城も茲に全く断絶するに至った。而して豊臣家滅亡して徳川家に至り宇都宮城復元するや、約天井事件で有名な本田正純十八万石城主として赴任したるも一年有余にして出羽山形に配流となり、後任に家康の娘婿奥平美作守の入城するや産業に志し、特に織物を奨励し大いに声価を上げたという。
斯くして宇都宮城の安泰を祈ってまつられた不動明王であった。
康平二年(後冷泉天皇・西暦1519年)以来茲に星霜九百余年、そしてその歴史の中には幾多の災悪が来したことであった。
大洪水、大火災、地震、暴風、戦争等々、次から次へと起こる災難を突破して漸く今日の安泰と幸福を見る事が出来た次第でこれ皆不動明王の御利益と断ずるものであります。 -
【一向寺】
この寺院には「汗かき阿弥陀」と呼ばれる国指定の重要文化財がある。
境内に入ると本堂で、何やら書き物をする御人がみえる。
阿弥陀さまについて問うと、見せてあげましょうとの言。
安置されている応永12年(1405年)に宇都宮十二代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像(国重文)は汗かき阿弥陀と呼ばれます、世の中に異変が起こる前になると汗をかいたといいます、五十里湖(いかりこ)洪水や関東大震災、そして宇都宮大空襲の前日にも汗をかいたといいます。 -
-
一向寺の阿弥陀堂
-
【阿弥陀如来座像】
蔵を開けて、拝観しました。こちらが阿弥陀様。阿弥陀如来座像。この像は応永12年(1405)の制作。大事件が起こる前に汗をかくといわれる。
【銅製阿弥陀如来坐像】 国指定重要文化財(昭和25年8月29日指定) (入口の説明板)
(旧国宝・大正3年8月25日指定)
像高/105.7cm
この仏像は第12代城主宇都宮満綱が願主となって、応永12年(1405)、長楽寺の本尊として造られた。明治2年(1869)、長楽寺が廃寺になったので、本尊は一向寺に移された。衣前面に340人を超える寄進者の名前などの文字が刻まれ、その数は1105字という。
作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師泰景重で、鎌倉時代の作風を残した仏像である。
この仏像には、世の中に異変が起こる前になると、汗をかくという伝説が残されており、「汗かき阿弥陀」の名で親しまれている。五十里洪水や関東大震災の前日にも汗をかいたという。日曜日に拝観することができる。 -
一向寺を出て、次の信号を左に曲がり、数分歩くと
【報恩寺】
江戸時代初期と思われる美しい山門がある。奥平家昌の正室による寛永16年(1639)開山といわれるが、鎌倉時代かそれ以前と見られる大五輪塔があることから、古くは別の寺があったといわれる。鉄製板塔婆は現存する日本最古の鉄製の塔婆といわれている。戊辰戦争で戦死した官軍の薩摩藩や長州・大垣諸藩の「戦死烈士之墓」がある。 -
その山門は当時のまま。この辺り戊辰戦争時の宇都宮争奪戦の激戦地。
江戸時代初期の美しい茅葺の山門がある。 -
報恩寺の山門を入ると、宇都宮城争奪戦で戦死した「薩摩戦死者墓」や、長州大垣諸藩の「戦死烈士の墓」を見れる。
-
【臨済宗妙心寺派 報恩寺】 境内の本堂
宇都宮第26代城主、奥平家昌公の室 仙遊院殿開基により開山、梁津玄棟禅師を迎えられ1639年の創建。茅葺屋根の山門は創建当時のものといわれてます。境内には松を中心とした樹木、様々な種類の草花が四季それぞれの表情を魅せてくれます。 -
境内に”吾、唯、是、知(われただこれをしる)の文字をあしらった池がある。
-
【六道の辻に建つ戊辰之役戦士の墓】宇都宮市六道町
六道の辻一帯は、戊辰戦争で宇都宮城を奪還しようとした新政府軍と、迎え撃つ旧幕府軍が激戦を繰り広げた地。ここに会津で戦死した長岡藩などの戦士の墓がある。
②六道の辻
六道の辻一帯は、戊辰戦争で宇都宮城を奪還しようとした新政府軍と、迎え撃つ旧幕府軍が激戦を繰り広げたところ。ここに会津で戦死した長岡藩士などの戊辰役戦士墓がある。飯寺で捕らえられた山本帯刀と長岡藩兵は、明治に改元された9月8日に、長岡の方向に別れを告げ粛々と異郷の地に散っていった。
六道の辻には捕らえられた長岡藩兵と、捕らえた宇都宮藩兵との友好の証となるような墓標が残されている。
報恩寺はこの戦いの際に焼失した。 -
【六道の辻に立つ六道厄除閻魔堂】
六道閻魔堂六つの道が集まる。仏教の六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のことで、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)になぞらえ、六道閻魔堂を建てたという。 -
六道の辻辺りの民家。古風な感じがなかなか良いです。
-
六道の辻には懐かしい民家が数軒あり。思わず写真を撮りたくなる。
-
伝馬町の交差点が【日光街道と奥州街道の追分】
フォトの上方が日光へ、右方が奥州街道。
⑫奥州街道の追分
「此辺より伝馬町、池上町のあたりは、屋壁ともに石にて作れる土蔵多し。又人家の屋上に多く石を置り。此地しばしば風損ある故なり」
「日光街道・奥州街道の分かれめなれ。両道の荷物貫目改所及び本陣、伝馬会所などありて、賑はへる町なり」(日光道中略記) -
ここで、この追分を奥州街道方向へ進むと、大通りに面した【二荒山神社】の大鳥居があります。
-
【二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)】
鳥居を潜ると正面にこの石段。ここは「下野国一宮二荒山神社」。
源頼朝や徳川家康はじめ多くの武将が戦勝祈願しているが、日光の神社と無関係らしい。
【由緒】
主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王が第十六代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命(大黒)、事大主命(恵比寿)を祀られました。その後承和五年(838)に現在の臼ケ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。古くは、延喜式内社、名神大、当国一之宮明治になって国幣中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町もお宮を中心に八呈発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の社を中心に栄えてきた」とうたわれています。 -
石段を登り神社に到着しました。
【二荒山神社(ふたあらやま)】
崇神天皇の第一皇子で毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこ)を主祭神とする。古くは宇都宮大明神とも呼ばれたが、その語源は、「一ノ宮(いちのみや)」、「征討(うつ)の宮」、「移(うつ)しの宮」など、いろいろな説がある。平安の終わり頃、宇都宮氏が神社の祭祀や神社領地の支配を行うようになり、鎌倉時代に、「宇都宮」は地名としても用いられるようになった。
藤原秀郷、徳川家康などの名だたる武将らが戦勝などを祈願し、寄進をしたと伝えられる。また、平家物語で、那須与一が屋島の合戦で扇の的を射る際に「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったという。
現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の再建だが、鎌倉時代の鉄製狛犬・南北朝時代の三十八間星兜(ともに国選択重要美術品)や、徳川家康の寄進による本殿高欄擬宝珠(宇都 -
二荒山神社の舞台
-
再び、追分交差点に戻り、日光街道を進みます。
幕末官軍は宇都宮藩を屈服させると、兵力を二手に分け、一手は奥州街道を東北諸藩の鎮圧に、他手は徳川幕府の要所である日光東照宮の制圧に向った。 -
-
【桂林寺】
曹洞宗松峰山桂林寺があります、応永3年(1396年)12代城主宇都宮道綱の創建です、当寺は戊辰戦役の際、官軍の大垣藩と長州藩の官舎となり、会津藩の奇襲を受け灰燼に帰し、その後再建されました。
墓所には蒲生君平の墓があります、近畿地方などの陵墓の研究書である山陵志を著しました。尊皇攘夷を説き、後世に大きな影響を与え、業半ばにして病に倒れ、文化10年(1813年)江戸で生涯を閉じました、享年46歳でした。
*桂林寺は応永3年(1396)宇都宮家第12代当主満綱が建立。元和6年(1620)に現在の場所に移された。戊辰戦争の宇都宮の戦いで長州兵と大垣兵が立て籠もり会津藩の焼き討ちにあった。その後再建された。境内には蒲生君平、岡田貴吾らの墓がある。このあたりに木戸があり宇都宮宿の北の入口だった。 -
【琴平神社】
四国金毘羅山の分霊を祀っています、境内には清住不動尊があります。 -
寺と神社は並んでる
【桂林寺】
1396年に宇都宮家第12代当主宇都宮満綱により建立。戊辰戦争時、長州藩と大垣藩が建て籠ったので、焼き討ちにあったが、その後再建された。この辺りに木戸口があったらしい。
桂林寺
桂林寺は応永3年(1396)宇都宮家第12代当主満綱が建立。元和6年(1620)に現在の場所に移された。戊辰戦争の宇都宮の戦いで長州兵と大垣兵が立て籠もり会津藩の焼き討ちにあった。その後再建された。境内には蒲生君平、岡田貴吾らの墓がある。このあたりに木戸があり宇都宮宿の北の入口だった。 -
大谷石の蔵が並び建つ。
-
【宇都宮一里塚】
この辺り、宇都宮宿の北の入口木戸であった。
この先街道の中央に土手があり、左側は新里村に通じる車道、右側が日光街道で土地の人は二重街道とよんだと、日光道中分間延絵図に記されている。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
34