2013/10/25 - 2013/10/25
79位(同エリア122件中)
ムッシュさん
宇都宮宿を経ち、いよいよ日光杉並木を歩きます。本日はずっと雨の中の行軍になってしまった。だから余り寄り道していない。
今市宿までの歩程です。
【徳次郎宿】
江戸から18番目の宿場。徳次郎宿は南から下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎の3つの宿場に分かれていたが、1つの宿場として扱われることもあった。また門前・田中・西根の三ヶ村を加えて徳次郎六郷と呼ばれている。
幕末期の記録日光・奥州・甲州道中宿村大概帳によると、
町並みの長さが9町17間(約1㎞)、宿内惣家数168軒(旅籠72軒、本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣・問屋場各3軒)、宿内人別653人(男339人、女314人)、駄賃・賃銭(下徳次郎より)荷物一駄・乗掛荷人共140文、軽尻馬1疋90文、人足1人68文でした。
「此宿之儀は上中下徳次郎宿と相分候得共、門前村・田中村・西根村一躰にて徳次郎六郷と相唱来」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
徳次郎石を使った伝統的な石蔵など、明治から昭和初期の建物が残っており、宿の面影を感じることができる。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 徒歩
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宇都宮宿の出口辺りの桂林寺入口です。
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【上戸祭の一里塚】
昭和58年(1983年)に修復整備され、西塚にはヒノキが植栽されています、江戸日本橋より数えて28里目です。 -
【光明寺】
真言宗智山派宝珠山玉塔院光明寺、文禄2年(1593年)の創建で薬師堂に安置されている野沢桜本薬師は里人から篤く信仰されています、将軍日光社参の際は境内に御茶屋が設けられました。
野沢村は宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置する間の宿で光明寺前に立場がありました。
光明寺向い近くの亀田家の庭内に静桜(しずかざくら)の古木があり、一枝に八重と一重の花が咲き、兜のような珍しい花も咲くといいます、根方には五輪塔が祀られています。奥州に落ち延びた義経を追う静御前の桜の杖が根付いたものと伝わっています。
光明寺
文禄年間(1592~96)、野沢の石塚に玉塔院を建立したのに始まり、寛文11年
(1671)にこの地に移された。寛永年間(1624~1644)に家光が日光参詣をしたときに、お茶を設けたという御茶屋跡がある。また、寺の前には立場があったといわれている。
宝暦7年(1757)女人講が建てた宝篋印塔(ほうきょういんとう)には「…往来貴賤童男童女結一見一礼法…」と刻まれている。十九夜塔は、如意輪観音の軸を掛け、その前で勤行(ごんぎょう)が行われる。般若心経、ご詠歌、和讃、真言など
があげられ、安産を祈り、死後のの血の池地獄から逃れる祈願をする。 -
【高谷林の一里塚】
塚は街道より高い位置にある。
日本橋から29番目で江戸時代の面影が残る一里塚。東の塚には大きな杉、西側の塚には桜と檜が生えている。 -
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高台に宇都宮市水道今市水系の【第六接合井】があります。
大正4年(1915年)建設の水道施設で今市浄水場からの浄水を約25km、標高差約240mの戸祭配水場までの送水管にかかる水圧を調整しています、六角形の赤レンガと大谷石造りの上屋(うわや)は登録有形文化財指定です。
接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。 -
【智賀津(ちかつ)神社の参道鳥居】
奥に赤く見えるのが神社。結構参道は長い。
智賀都神社は宝亀9年(778年)日光二荒山神社の分霊を勧請し千勝森(ちかつのもり)に祀りました、徳次郎六ケ郷の鎮守です。
【沿革】 (字がかすれて不明確)
当神社に日光二荒山神社より、○亀九年六月二十日外鯨邑千勝(とくじらむらちかつ)の森に勧誘遷座せしものにして、大正五年に特定郷社に列せられしも、昭和二十二年占領軍の指令により社格○上となり現在に至たる -
智賀津神社に残る樹齢700年の大ケヤキ
【長壽の夫婦欅】 栃木県指定天然記念物(昭和29年9月7日指定)
所 有 者 智賀都神社
樹 高 二本とも 40m
目通し周囲 東の株 8.0m、西の株 7.3m
枝 張 り 東の株 東西 26m、南北 44m
西の株 東西 22m、南北 37m
推定樹齢 約700年
けやきはニレ科の落葉高木で、本州各地の平地から山地に自生する。普通は風景樹として、また将来の建築材として民家や神社仏閣境内に植えられることが多い。
このけやきの西側の株は天に向い、東側の株は天を受けるように枝を広げている。
栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会 -
【智賀津神社】
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【徳次郎の6本杉】 現在は車道の中央に残っている。
徳次郎(とくじら)宿は下、中、上の三宿で一宿とし、問屋は各宿にあり、月のう ち上十日は中徳次郎宿、中十日は上徳次郎宿、下十日は下徳次郎宿が勤めました。
天保14年(1843年)の頃、宿内家数は168軒、うち本陣2、仮本陣1、脇本陣3、仮脇本陣1、旅籠72軒で、宿内人口は653人でした。
徳次郎の地名の起こりは宝亀9年(778年)日光二荒山より智賀津明神(徳次郎明神)を勧請した際、日光山の久次郎(くじら)に対して外なるところから外久次郎(そとくじら)と称し、いつしか転化して徳次郎(とくじら)とった。 -
石那田八坂神社の祭り案内
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【石那田八坂神社】
石那田八坂神社御仮屋が鎮座しています、天王祭は夏の厄病退散祈願で、七月下旬に一週間かけて行われます。
祭典は八坂神社本殿から御神体を神輿に乗せて、ここ御仮屋に移す下遷宮から始まり、一週間御仮屋に遷座し、最終日に神輿の帰還とともに六台の彫刻屋台が本殿に繰り込む上遷宮で締めくくりとなります。 -
こちら日光街道です
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馬頭観音
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うらない地蔵又は、お願い地蔵
【地蔵尊の由来】
この石佛は享保十五年(1730)、八代将軍吉宗公時代厄病が流行し住民が苦しんだ時、地域の人々により石佛が作られ、人の体の悪い所と佛の同じ所に赤い布を付けお願いすると不思議に治ったと云う。それ以来、この地蔵を「お願い地蔵」と呼ぶ。 -
【日光杉並木】
台風通過後のため街道も杉の枝だらけです
杉並木を進むと大沢交差点に出ます、ここが大沢宿の江戸(南)口です、大沢宿に到着です!大沢宿は元和3年(1617年)家康の日光東照宮遷座に伴い宿駅となりました、宿並は度重なる大火に見舞われ灰燼に帰しました。
天保14年(1843年)の頃、大沢宿の宿内家数は43軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒、宿内人口は278人、宿長は四町四間でした。
この地に源頼朝が狩に訪れると、広大な荒地だったところから四人の従者に開拓を命じました、頼朝のこの恩に因みこの地は恩沢と呼ばれ、転訛して大沢となりました。 -
【日光杉並木街道の一里塚】
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日光街道と杉並木
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日光市まで11kmの標識
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日光杉並木も車が通れる場所あります。
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【杉並木の一里塚】
日本橋から34里目の一里塚。道の両側に塚が残っていて、案内板がある。右の
塚は3本の苗木が生長する過程で癒着し、根本付近から3つに分かれている。
日光街道では最後の塚になるが、この瀬川の一里塚から鉢石宿まで1里以上あるので、日光古道を通って七里付近に一里塚があったらしい。 -
【今市の追分】
〔石造地蔵菩薩坐像(通称・追分地蔵〕
蓮台を含めて下から仰ぎ見る姿はまことに壮大。丸彫り石地蔵としては、東日本有数の巨像である。
製作年代は明らかでないが、八代将軍徳川吉宗の日光社参のとき、すでに現在地にあったと記録されている。おそらく、街道の成立による今市宿整備の時期と、この地蔵のまつられた年代とは、密接な関係があろう。
地蔵の手印は、ふつうは錫杖と宝珠であるが、これは密教系の胎蔵界大日如来の法界定印という手印を結んでいる。あるいは製作当時の信仰形態・製作事情を暗示しているのであろうか。
昭和五十二年十月 日光市教育委員会 今市ロータリークラブ -
【追分地蔵尊】
追分地蔵堂があります、日光道中と日光例幣使道の追分に祀られているところから追分地蔵と呼ばれています。
丸彫坐像の石地蔵として東日本有数もので、八代将軍吉宗の日光社参の折には現在地に祀られていたといいます。
この地蔵尊は大谷川(だいやがわ)の洪水で流され河原に埋もれていました、石工が単なる大石だと思い、ノミを打ったところ真っ赤な血が流れたといいます、背にはこのノミ跡を残しています。 -
今市に入ると二宮報徳神社です。
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この先に二宮報徳神社があります。
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この先に【二宮報徳神社入口の鳥居】
報徳二宮神社が鎮座しています、二宮尊徳は明治24年(1891年)従四位が追贈されました。
報徳二宮神社は明治31年(1898年)二宮尊徳を祭神として創建されました。
社殿の裏には二宮尊徳の墓があります。 -
【報徳二宮神社】
【由緒】
ご祭神二宮尊徳命は江戸時代、天明七年(1787)現神奈川県小田原栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、二十四歳のとき独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージはその頃のものである。
この経験を元に小田原藩の家老服部家の財産再興を成功させ、武士として登用された尊徳命は、その後下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約六百の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。
晩年の嘉永六年(1853)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九村の復興に尽力し、安政三年(1856)報徳役所にて七十歳で逝去され、手厚く埋葬された。
即ち、『栃下県史跡 二宮尊徳の墓』である。葬列は報徳役所のある春日町より続いたという。
その後、尊徳の終焉の地であるという全国唯一の由緒を持つこの霊地に明治三十一年神社が創建され、今日まで学問・経営の神様として信仰されている。
尊徳命の建て直しの方法は「報徳仕法」と呼ばれ普遍性を持つことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され弟子たちによって継承された尊徳命の思想は「報徳運動」として実践されている。
【二宮尊徳翁遺訓】
人生れて学ばざれば生れざると同じ
学んで道を知らざれば学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば知らざると同じ
故に人たるもの必ず学ばざるべからず
学を成すもの必ず道を知らざるべからず
道を知るもの必ず行はざるべからず -
神社の本堂
【報徳二宮神社】
報徳二宮神社は幕府の命により日光御神領での荒廃した農村復興のため、報徳仕法(日光仕法)を始めたが、安政3年(1856)10月業績半ばにして今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じた二宮尊徳翁を奉っている。二宮金次郎と二宮尊徳翁の像がある。また、報徳文庫には、日光仕法における遺品の数々が展示されている。 -
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二宮金次郎像
【二宮尊徳翁遺訓】
人生れて学ばざれば生れざると同じ
学んで道を知らざれば学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば知らざると同じ
故に人たるもの必ず学ばざるべからず
学を成すもの必ず道を知らざるべからず
道を知るもの必ず行はざるべからず -
社殿の裏に、【二宮金次郎さんの墓】
【二宮尊徳の墓】 栃木県指定史跡(昭和32年8月22日指定)
二宮尊徳(1787~1856)は江戸時代末期の農政家・思想家であり、相模国足柄下郡栢山村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、尊徳と称した。
尊徳は、勤倹力行(きんけんりっこう)して藩家老家再興をした手腕を買われ、文政4年(1821)に小田原藩主大久保忠真の命を受け、下野国桜町領の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野で過ごすこととなった。
桜町領を復興させたことにより、各地で教えを乞われ指導し著しい効果を挙げ、現在でも水路等の成果が各地にのこっている。
これらの実績により幕府に日光神領89ヶ村の復興を命ぜられ復興開発方法を書き、嘉永6年(1853)には今市に報徳役所を設置して日光神領復興に全精力を注いだ。
しかし、安政3年(1856)に事業半ばで報徳役所において70才で死去した。
今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の地に埋葬された。
栃木県教育委員会・今市市教育委員会
【二宮尊徳翁の遺言と墓碑の建立】
『我が死応に近きあらん、我を葬るに分を越ゆること勿れ、墓石を建つること勿れ、碑を建つること勿れ、只々土を盛り上げて、その傍に松か杉を一本植え置けば、それにて可なり、必ず我が言に違う勿れ。」と遺言されたが、忌明けの安政四年に門人間に墓碑建立の議が起り、是非の意見が区々として容易に決定せず、遂に未亡人の遺志を伺って建立し、今日に至っている。 -
二宮尊徳像(栃木県今市)
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二宮金次郎の墓と塚(栃木県今市)
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【如来寺】
二宮尊徳の葬儀が行われた寺でもある。
【木造 地蔵菩薩立像】日光市指定有形文化財(彫刻)(昭和41年7月20日指定)
規 模:像高160㌢、肩幅33㌢、台座高38㌢
建築年代:江戸時代初期と推定
伝承によれば、鎌倉時代に二位の禅尼(北条政子)が安達盛長に日光山奉納するよう運ばせた途中、この地で車は動かなくなり、一宇を建立して安置したと伝えられる。そのため、「車止め地蔵」と称している。
手法は、胴体に、頭部、肘、足は別木をはめ込んで造られている。眉は美しく、豊かな頬の温容な容貌で、白毫は水晶、目は彩色彫眼である。胴体は両襟が直角に下がり、豊胸に両袖がひるがえる。力強い彫刻に繊細な工芸手法である。
日光市教育委員会 -
上今市駅舎
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【朝鮮通信使今市客館跡碑】
これより杉並木公園が始まる
杉並木公園があります、園内に朝鮮通信使今市客館跡碑があります。
寛永13年(1636年)幕府は一万両の費用をかけて朝鮮通信使の宿泊用の館を建てました。
朝鮮通信使は室町時代の正長元年(1428年)に初来日し、その後12回来日しました、うち3回はここに宿泊し、日光東照宮の参拝を行いました。 -
【杉並木公園】
公園には、いくつかの水車が、ここに移設されている。これは2連の水車
重連水車は、今市の名産であった杉線香の生産の動力源として利用されました。 -
公園から遠くに男体山の連山方向を見る
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大きな水車
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杉並木公園内に蕎麦やさんあり。
ランチに立ち寄った手打ち蕎麦やさん”報徳庵”の全景 -
ランチに立ち寄った手打ち蕎麦やさん”報徳庵”
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報徳庵に隣接で旧家”江連家”の館も。
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江連家の説明板
*名主 の家復元。南小倉村の世襲 名 主 「 江 連家」を移築。
【旧江連(えずれ)家】
この住宅は、天保元年(1830)に南小倉村小倉(現日光市小倉)に建築され、建築後175年の住宅を江連氏から、平成5年(1993)に市が寄贈を受け、現在の場所に解体移築したものです。
移築にあたっては、保存材を最大限に利用する施工方法をとりましたが、老朽化が進み改修整備するにあたり、平成23年(2011)に、防火及び維持管理上の理由から屋根材を当時の茅葺から銅板葺に葺き替えています。
江連家は、江戸時代に南小倉村の世襲名主を務めた家で、建築面積は約91坪(約300㎡)の木造茅葺屋根平屋建てで、間取りは、馬屋・土間・囲炉裏付居間の他、囲炉裏付茶の間や納戸等座敷が6間もあり、当時の名主や農民の暮らしぶりが見えてくる貴重な歴史的資料です。 -
江連家の正面
この公園の北端にあたり、今市も終了。さらに街道を日光に向う。
旧江連(えずれ)家住宅は天保元年(1830年)の建築で、南小倉村の世襲名主江連家の住宅でした。
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