2013/04/25 - 2013/04/26
298位(同エリア348件中)
ムッシュさん
草加を出ると、越谷宿、春日部宿方向に北へと歩いてゆきます。
【越谷宿】
越ケ谷宿は二と七の付く日に六斎市が立ち、近郷商圏の中心地でした。
天保14年(1843年)頃の越谷宿は、宿内家数は1,005軒、うち本陣1、脇本陣4、旅籠52軒で宿内人口は4,603人でした。
宿長は越ケ谷町から大沢町迄の十八町四十八間(約2.1km)で、宿並は明治7年(1874年)と同32年(1899年)の大火で灰燼に帰してしまった。
PR
-
綾瀬川の前方対岸に一里塚(大木)が見えています。これから歩き、大木のある公園で休憩します。
綾瀬川は大きく左にカーブしている
前方に見える橋は蒲生大橋でその右の大きな木のあるところが、
【蒲生一里塚】。
この辺り草加市蒲生愛宕町は、かつての【藤助(とうすけ)河岸】のあったところ,江戸時代中期に作られたもので、年貢米の運搬に使われたとのこと -
綾瀬川に架かる蒲生大橋
【蒲生大橋】
「日光道中分間延絵図(文化三年1806年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ十二間四尺、幅二間一尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。
足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
昭和五一年八月に永久橋に架替された時の橋歴書によると、大正七年六月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和四〇年及び四八年補修整備や重量制限(二トン)を施行してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架替えた。
草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。 -
蒲生大橋の説明板
-
-
【蒲生の一里塚】
日光街道で、一里塚がきちんと残っているのはココだけです。日本橋から5番目の一里塚。綾瀬川と出羽堀が合流する蒲生愛宕町にある。
現在は東側のみが残る。
塚の横に道標と供養塔がある。道標は安政4年(1587)のもので
「成田山 是より八条へ壱里 流山へ六里」と刻まれている。
埼玉県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚
【交通の要衝綾瀬川】
川口市、草加市との境を流れる綾瀬川は、古くは荒川の一分流でしたが、「あやしの川」ともいわれるほど上流部で川筋がいく筋にも分かれていた。「九十九曲がり」と表現されるはなはだしい蛇行は、流れが緩やかで水量が豊富であることから舟運に適し、綾瀬川舟運は埼玉と江戸・東京を結ぶ重要な交通手段として役割を果たしていた。 -
蒲生の一里塚説明板
【蒲生の一里塚】 埼玉県指定史跡(昭和60年3月5日指定)
一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬駄賃の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
文化年間(1804~1818)幕府が編さんした『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。
現在は、高さは二メートル、東西幅五・七メートル、南北七・八メートルの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ二・五メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。
昭和六十一年十月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎 -
藤助河岸。昔の船付き場。ここから多くの荷が上がってきた。その商権は地元高橋藤助が持っていた。江戸への年貢米の積み出しが行われました、維新後も舟運が盛んでした。
「藤助河岸」
江戸時代中期、旧日光街道と綾瀬川が交差するという地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つ。江戸時代は年貢米、明治以降は粕壁、越谷、岩槻などの特産物が荷車で運ばれ、船に積み替え、東京に運ばれた。
明治の近代化以降、鉄道の普及などで河岸場がつぎつぎと廃止されるなかで、藤助河岸は繁栄を続けた。しかし、大正9年、東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、事実上昭和初期に廃止された。
現在、藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元されている。 -
【藤助河岸跡の説明板】(越谷市蒲生の綾瀬川通り)
明治時代には汽船まで就航する賑わい。陸羽道中(日光街道)に面してる利点を生かし大正2年(1913年)に資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社となり、越谷、粕壁、岩槻から運ばれてきた特産物を船に積み替えて東京にむけて出荷していた。大正9年東武鉄道が開通し、越谷駅が設置されて次第に衰退し、昭和初期に廃止された。
越谷市蒲生の綾瀬川通りにある藤助河岸は、高橋藤助の経営により明治時代には汽船までが就航するほどに繁栄。この頃、古利根川や元荒川の舟運は陸上交通の発達により衰退しましたが、陸羽道中(旧日光街道)に面しているという地の利を生かし、大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社となり、越谷・粕壁・岩槻から荷車で運ばれてきた特産物を、舟に積み替えて東京に向けて出荷していました。しかし大正9年(1920)に東武鉄道が開通し、越谷駅が設置されたのを期に、しだいに衰微し、昭和初期に廃止。現在この藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元され、唯一当時の面影を伝えるものとして保存されている。(越谷市商工会ホームページより) -
藤助河岸から一里塚を望む。
-
埼玉県越谷市。
右手に豪壮な【清蔵院の冠木門】があります、
蒲生の清蔵院は真言宗智山派で、慈眼寺と号し、天文3年(1534)祐範という僧が開山したと伝えられている。本尊は、十一面観音です。蒲生清蔵院の山門は、屋根など部分的に改造されていますが、その棟札により寛永15年(1638)関西の工匠による建立であることが確認されている。
欄間に掲げられている龍の彫刻をはじめ、虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な彫刻様式が伺われる。
【清蔵院の山門】 越谷市指定有形文化財(歴史資料)
この山門は、屋根など部分的に改造されているが、その棟札により寛永十五年(1638)関西の工匠による建立であるのが確認される。ことに欄間に掲げられている龍の彫刻はじめ虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な様式をうかがわせている。
なお、この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を脱けだして畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の一人で、日光の往返に世話になった因縁から、東照宮竣工(寛永十三年)後再び、国元から蒲生に来てこの山門を建立したものであろう。
越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮造営にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。
平成十五年一月 越谷市教育委員会 -
【清蔵院の山門】
越谷市の有形文化財に指定されている山門は屋根など一部は改修されているが、
案内板には、寛永15年(1638年)に関西の工匠によって建てられたものである。
山門の欄間に掲げられた龍の彫刻は江戸時代初期のもので、一説には日光東照宮の
眠り猫で有名な左甚五郎作との伝説があり、龍が夜な夜な山門を抜け出して周辺の畑を荒らしたことから、これを金網で囲んでしまった。とあり、
山門を見上げると、確かに龍の彫刻は今も金網で覆われている。 -
【清蔵院の山門】
山門の龍の彫刻は名人左甚五郎作と伝わっています、この龍は夜な夜な山門を脱け出し、畑を荒らしたところから金網で囲われています。これは、寛永十五年(1638年)建立の山門にあります。
【清蔵院の山門】 越谷市指定有形文化財(歴史資料) 昭和59年9月27日指定
この山門は、屋根など部分的に改造されているが、その棟札により寛永十五年(1638)関西の工匠による建立であるのが確認される。ことに欄間に掲げられている龍の彫刻はじめ虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な様式をうかがわせている。
なお、この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を脱けだして畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の一人で、日光の往返に世話になった因縁から、東照宮竣工(寛永十三年)後再び、国元から蒲生に来てこの山門を建立したものであろう。
越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮造営にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。
平成十五年一月 越谷市教育委員会 -
【照蓮院の正門】
真言宗慈氏山照蓮寺があります、創建年代は不詳ですが、天正19年(1591年)に徳川家康より寺領五石の御朱印状を拝領した古刹です、木造地蔵菩薩立像は越谷市有形文化財です。
街道書には戦国武将・武田勝頼の遺児・千徳丸の供養塔がある、と記されてます。
越谷市の資料によると、瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)で、その子長藤は天正10年(1582年)武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は
照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。
秋山家の墓所に寛永14年(1637年)建立の御湯殿山千徳丸と刻まれた
小さな五輪塔(供養塔)がありました。 -
【照蓮院の本堂】
瓦曽根の秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えている。天正1 0年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居したが、千徳丸は間もなく病死した。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔り、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔した。これには「御湯殿山千徳
丸」と刻まれてる。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没した。また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶した。
武田氏の家臣秋山信藤の子、長慶は天正10年(1582)武田氏滅亡の際、勝頼の遺児幼君千徳丸を伴って、瓦曽根に潜居した。千徳丸はまもなく早世し、それを悲しんで長慶は照蓮院の住職となり、その菩提を弔ったという。
寛永14年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた、千徳丸墓石供養塔と言われる五輪塔が造立された。 -
【千徳丸供養塔】
瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)であり、その子長藤は天正十年(1582年)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。小さな五輪塔がある。 -
白屋旅館
この辺り、越谷の街道筋街並み。越谷駅にも近いところ。 -
行徳屋
-
塗師屋(小泉市右衛門宅)
蔵造りの塗師屋。 東講商人鑑には太物荒物店 塗師(ぬし)屋右衛門と記されています、古くは漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商いました。 -
明治33年(1900年)築の蔵造りの鍛治忠さん(雑貨商)
-
会田金物店?
-
大沢香取神社の入口参道。(越谷市大沢)
【香取神社】
本殿は明治元年(1868)再建。奧殿は、慶応2年(1866)の建造で、四面の外壁に彫刻が施されている。彫物師は浅草山谷町の長谷川竹次良で、高砂の翁、大黒天、龍などの浮き彫り、奉納者の名が刻まれ、北側の一部には紺屋の労働作業の有様が精巧に刻まれている。当時、越ヶ谷、大沢は紺屋業が盛んでした。大沢町鎮守。本殿四面の彫刻、龍や鳥、高砂の扇、大黒天、紺屋の作業の様子は見事。 -
大沢香取神社の本堂
本殿は明治元年に再建されたもの。
香取神社、応永年間(1394~1427)に下総國一の宮香取神宮の分霊を勧請し、大沢村の鎮守としました。
慶応二年(1866)建立の奥殿の外壁に紺屋の作業風景が彫刻されています、越ケ谷は染物業が盛んでした。
香取神社という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。 -
大沢香取神社の本堂前に坐する狛犬
-
本堂の後ろに建つ奥殿の彫刻。凄いです。
本殿四面の彫刻、龍や鳥、高砂の扇、大黒天、紺屋の作業の様子は見事。
現在の本殿は、明治元年(1868)の再建だが、四面の外壁に彫刻が施された奥殿は、その棟札から慶応2年(1866)に再建されたものである。
彫物師は、浅草山谷町長谷川竹次郎で、高砂の翁、大黒天、龍などの浮彫がそれぞれ奉納者の名とともに刻まれている。 -
-
-
古奥州の道標
「右じおんじのじま道」と刻まれた文字庚申塔がある。 -
【宮内庁埼玉鴨場(入場禁止場所)】
宝性寺越谷別院入口先左手の砂利道奥に宮内庁埼玉鴨場。鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904年)皇室用の遊猟場として建設されました、約11万7000㎡の敷地の中に約1万2000㎡の鴨池があります。
嘗て、皇太子さまと雅子さまもこちらでデートされたとか。
ここは元幕府と御三家の紀州藩の鷹場で明治41年に現在の埼玉鴨場として開設されたとのこと此の辺一帯は野鳥が今でも豊富でマガモ、オナガガモなども冬になると多数飛来してくる。
【宮内庁埼玉鴨場】
「此宿并大沢町共御捉飼場有レ元」(日光・奥州・甲州道中宿村大?帳)とあり、幕
府が使っていたものを、明治41年(1908)に宮内庁埼玉鴨場として開設した。
皇室関連の行事のほか日本に駐在する外交官や賓客接遇の場としても用いられてお
り、鳥を傷つけない伝統的鴨猟を紹介し、それを通じて日本の自然・伝統・文化・歴史を感じてもらう絶好の機会となっている。
訓練したアヒルを使い鴨を猟者が潜む直線的な細い水路に誘導し、飛び立つ瞬間を
網で捕獲する。水路で飛翔方向が限定されるため、網を振るだけで子供でも容易に捕獲が可能である。その後捕獲した鴨は国際鳥類標識調査に協力するために種類・性別などを記録し、標識(足環)をつけ放鳥される。
元々は徳川将軍家や有力大名家が行っていた伝統猟で、明治時代以降は皇室が維持
保存を行っている。 -
越谷だるま製造工房(越谷市下間久里)
越谷だるまは、280年前、間久里(まくり)の人形師だる吉が従来からあった玩具の起き上がり小法師に座禅を組んだ達磨大師の姿をとりいれたのが始まりとのこと
江戸時代は武州だるまとして人気になったと言う
越谷だるま
江戸時代の中期「起きあがり小法師」という縁起物に中国禅僧の祖、達磨大師を描いたのが始まりといわれ、子供の疱瘡除け・開運・厄除け・商売繁盛の縁起ものとして、長く親しまれてきました。越谷近辺で生産されるだるまは、年間50万個を数え、川崎大師・柴又帝釈天など関東一円をはじめとして、北海道から九州まで広く「越谷だるま」の名で知られています。 -
街道沿いには、かなりご立派なお家も。この階高で、2階建とは。すごーーい!
お寺みたいな大きな家 -
秋田屋(現上原宅)
なかでも「秋田屋」は、秋田の殿様・佐竹侯が参勤交代の際、必ず立ち寄って道中名物の蒲焼きに舌鼓を打ち、自分専用の秋田炉という座敷を建てたといわれている。 -
下間久里村の総鎮守、【下間久里香取神社】が鎮座しています
-
本日のランチは、4号線沿いのイタリアン”ベルバエーゼ”さん
パスタランチ、ピザランチが美味い。 -
ランチ後のケーキも絵柄付きで美し、美味!
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
34