2014/08/20 - 2024/04/14
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砂布巾さん
1919年4月15日 堤岩里(チェアムリ)事件(日本統治下の朝鮮、韓国)
三・一運動直後に起こった標記事件について、小林慶二著「観光コースでない韓国」(高文研)から、一部を引用して紹介する。
「堤岩教会」が建てられたのは1905年、熱心な信徒、安鍾厚(アン ジョンフ)の努力が実ったものだった。三・一独立運動は33人の宣言署名者のうち16人がキリスト教徒だったことでも明らかなように、抗日闘争ではキリスト教徒が大きな役割を果たしている。安はソウルのキリスト教指導者と密接な関係を持ち、地元での抗日運動を計画していた。安らは1919年4月5日、発安(パラン)に市が立つ日にデモをする計画を立てた。
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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デモは成功をおさめ、大勢の朝鮮人が発安駐在所前で「万歳」を叫び、日本の警察を慌てさせた。警察は武力鎮圧に出て、多くの人が怪我をしたという。
事件が起きたのはその集会から10日後の4月15日である。水原駐在の第78連隊の有田中尉が憲兵1個小隊を率い、発安駐在所長と堤岩里にやってきて「去る5日、発安市場ではあまりにひどい仕打ちをしたので謝罪したい。15歳以上の男子信徒は教会に集まれ」と告げた。21人の信者が集まると、駐在所長は名簿を持って点呼をした後、「しばらく座って待て」と言って外に出た。そのあと直ちに憲兵たちは礼拝堂の戸に板を張って封鎖し、周りにガソリンをかけて火を放ち、外から一斉射撃を加えた。 -
唯一の目撃者、田同礼(チョン ドンレ)おばあさんによると、教会が火の手に包まれた頃、1人の若い女性が教会の庭に走り寄って泣きだした。犠牲者の1人、姜泰成の結婚後2ヶ月の若妻だった。憲兵の1人が刀を抜き、若妻の首を斬った。1回では首が落ちず、2,3回も刀を振り下ろしたという。また畑仕事を中断して教会に駆けつけた洪元植(ホン ウォンシク)の妻も銃殺された。
憲兵たちはこの後、33軒の家のうち自分たちが宿泊所にする1軒を除いて全部に火をつけて焼き払った。さらにそこから500メートル離れた古州里(コジュリ)に行き、天道教信者6人を山へ引き出し銃殺した。 -
夫を失い、家を焼かれた婦女子たちは、恐ろしさのあまり骨を拾いにも行けなかった。事件の真相を世界に知らせたのは、17日に現場を訪れたカナダの医療宣教師スコフィールド博士だった。
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*砂布巾注 謝罪の現場、謝罪する日本人たち
日韓正常化が実現した直後の1965年10月、尾山牧師と大学生らが戦後初めて現地を訪れた。謝罪の意味を込めて教会の再建を申し出るが、献金は拒否された。しかし、日本側は「堤岩里教会焼討ち事件謝罪委員会」をつくり、募金活動を開始。4年足らずで目標の1千万円を達成した。
韓国側も日本側の誠意をくんで資金の受け入れを決め、事件の50周年にあたる日に教会再建の起工式が行われた。この時も起工式中止を叫ぶ遺族の声があがった。募金をした日本人の誠意には感謝するが、殉死者のことを考えれば、日本人の金で教会を再建するわけにはいかない、という抗議で、事件の根の深さをうかがわせた。結局、遺族会との協議の結果、半分の500万円で教会を、残りの半分で遺族会館をつくることが決まった。 -
丘の上に立つ白い教会は、空から見おろすと礼拝堂が三、鐘つき台が一の形をしており、三・一を象徴する建築になっている。
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同じくアシアナ航空を利用した2005年南北同時訪問(北は終章で触れる)した際にソウルで迎えた「光復」(日本の植民地支配から解放された日)60周年の翌日に訪問した。訪問時の国旗の数には度肝を抜かれた。場所は水原駅の観光案内所でもすぐわからなかった。切符売り場の女性が乗り場を教えてくれなかったが、実は売り場のすぐ横だった。
教会があった場所に建設されたのが堤岩里三・一運動殉国記念館となっており、受付の女性(写真)が流暢な日本語で案内してくれた。印象に残ったのは、ソウルの景福宮に日の丸が掲げられている写真の前で絞り出すような声で「悔しいですね」、「焼討ち事件」ではなく「虐殺事件」とするべきではないのか、いうことを強調されていた点だった。 -
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*パゴダ公園にある事件のレリーフ 赤ちゃんを窓から逃がそうとしているのが見える
子どもをおんぶして来た日本人男性、涙を浮かべて謝罪する人も居るそうだ。事件のあらましは知っていただけに、冷静に見ることは出来た。月並みではあるが、やはりこのようなことは繰り返してはならないし、我々は心に刻んでおかなければならないと感じた。
女性は水原まで乗せてくれ、世界遺産水原華城も一部見学出来た。車中では南北統一についても意見交換を行い、あらゆる意味で南北の異質化が進んでいる以上、相互承認など現状での和解が先決ではないか、との個人的見解を述べた。(2005年8月16日訪問)
もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693 -
*ここからは2005年の旅、帰国までの写真です
*ハラボジ、凄い! -
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*韓国の乗り物には時々物売りが出現する シャツ売りのおじさん
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*こちらはゴザを売るおじさん 誰かに似てる…
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*スーウォン名物はカルビなのでお店に入ったら、何とカルビはなかった でもタコ入りの料理は美味だった
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*このお店
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*こんな面白い日本語も発見
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*明洞も散策
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*ショック!! 明洞トンカスはスタバになっていた
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*全州中央会館へ石焼ビビンバを食べに 今度は食べる前にちゃんと写真も撮った
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*明洞トンカス
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*地下鉄市庁駅
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*非武装地帯直前に位置する京義線臨津江駅
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*臨津閣から北の非武装地帯方面を望む
イムジンガク (臨津閣) 建造物
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*臨津閣から次の都羅山に向かう列車 その先からは軍事境界線をまたいで北の開城に繋がっている
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*三・一独立宣言ゆかりの地、とみた
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*仁川空港に向かう車窓から 国会議事堂(多分)
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*仁川空港に駐機する朝鮮民航。光復60年を記念して北から代表団が訪韓中だった
仁川国際空港 (ICN) 空港
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*ピョンヤンが珍しい
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*韓国には不思議と国旗などをあしらったステッカーがない あれだけ国旗があふれているのに‥仁寺洞でようやく見つけたのがこれ でも何か勘違いされそう
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この旅行記へのコメント (4)
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- Takeさん 2018/04/27 10:28:39
- 歴史的な日を迎えて
- 20余年前、僕もソウル、堤岩里、そして板門店を観光しました。3月のはじめ寒い日、僕らを見つけた牧師が「どこから来られましたか?」と。「日本からです」と答えると「ようこそ」と手を差し出してくれました。温かく柔らかい手のぬくもりは忘れられません。その日を思い出しました。
さてその後、板門店に行く途中のバスの車窓から見える鉄道「京義線」。案内のガイドさんが、「38度線で切断されたこの鉄道、しかしいつでも復活できるようになっている」と説明してくれました。韓国側最終駅を過ぎたあたりに巨大な看板『列車は北に行きたがっている』
そんな日がまもなく来るかもしれませんね。今日がその第一歩の日となりますように、心から祈ります。
すいません、旅行のコメントではなくてごめんなさい。かの地に平和が訪れますように祈ります。
- 砂布巾さん からの返信 2018/05/01 21:54:43
- Takeさんコメントありがとうございます
- 返信遅くなって申し訳ありません。
堤岩里教会を訪問した際、帰ろうとした頃、ちょうど牧師さんが帰ってこられました。本当に挨拶しただけで終わってしまったのが今考えると残念です。
そうですね。南北首脳会談、衝撃的でしたね。一部には楽観論も出ていますが、まだまだ予断を許さない情勢だと思います。そもそもアメリカ政府から楽観論が出ているのにはガッカリです。そんなに簡単だと思っているのでしょうか?
返信にならない返信になってしまいました。
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- pedaruさん 2016/03/05 06:12:12
- 知らなかった事
- 砂布巾さん お早うございます。
おとなりの国で戦時中こんな事件もあったということすら知りませんでした。
4トラでは異質の旅行記だと思いますが、私の心を捉えて放しません。
今朝はドレスデンの事も含めて一時間も 砂布巾さんの旅行記を見てしまいました。一人でも多くの方にこの旅行記を見てもらいたいと思っております。
ありがとうございました。
pedaru
- 砂布巾さん からの返信 2016/03/06 19:36:43
- こちらこそ有難うございます
- こんな異質な旅行記を1時間も読んでくださるとは。感激です。
変な言い方になってしまいますが、細く長くお付き合いいただければと思いますので、あまり根詰めて一気に読まないでください。(* ´艸`)クスクス
pedaruさんの旅行記もまたじっくり訪問させていただきます。
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