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 釈尊(ブッダ)がたどった仏跡巡礼地は、「四大聖地」としてルンビニ(生誕地)・ブッダガヤ(成道の地)・サールナート(初転法輪の地)・クシーナガラ(涅槃の地)がある。<br /> また、これにラージギル(王舎城の竹林精舎)・ヴァイシャリー(広厳城)・シュラーバスティー(舎衛城の祇園精舎)・サンカーシャを加えた「八大仏跡地」がある。<br />  私は,このおもな仏跡地をこのほど一人で巡ってきた。以下は、その巡礼記録である。<br /><br />2001年<br />4.29 日本〜デリー<br />4.29 デリー〜べナレス〜ブッダガヤ<br />4.30 ブッダガヤ<br />5.1  ブッダガヤ<br />5.2  サールナート(初転法輪の地)<br />5.3  クシーナガラ<br />5.4  ルンビニ(生誕地)<br /><br />  お釈迦さんが生まれた「ルンビニ」は、現在チベットになっているので、インドからは国境がありネパールのビザを国境で取らねばならない。この手続きが結構手間取り1時間程がかかった。<br /> 仏陀は、その後の生涯を人々に悟りと愛と友情を教える事に捧げ、84才でこの世の生涯を終えた。この世を去る時には、何万人という弟子たちがその仏陀の教えに従っていたといわれている。<br /> 仏陀は、この世に生を受けている全ての人間の救いのために自分自身の一生を捧げ尽くしたのである。その時以来、ルンビニは世界中の仏教徒の聖地とされた。<br /><br /> ルンビニの周囲には、古代のストゥーパや僧院の遺跡が数多く残されている。また、仏陀の生まれた庭園は修復されて多くの参詣者で賑わっている。また紀元前250年にアショカ大王によって建てられた石碑には仏陀の誕生についての記録が刻まれている。<br /><br />  ルンビニでもう一つの重要な史跡は、マヤ・デヴィを祭る寺院である。そこには、仏陀が生まれた時に、母親のマヤ・デヴィが木にもたれかかっている姿をあらわす石像がある。子供がない女性たちが数多くその像を撫でて子どもを授かるようにとお参りするので、現在では大分擦り減ってきている。<br />  寺院の南には、池があるが、ここで、マヤ・デヴィが生まれたばかりの仏陀に沐浴を使った所といわれている。<br /><br /> 近年ルンビニは、聖地としてのルンビニの修復と開発を目的として設立されたNGOであるルンビニ開発トラストによる計画によって、さまざまな開発が行われている。<br />  この計画は1978年に建築家である丹下健三氏によって立案されたもので、仏陀の生誕地の周囲3平方マイルの地域を聖地公園として整備するものである。ここには僧院や、アショカ大王の石碑とマヤ・デヴィ寺院を囲む円形の庭園の開発、そしてホテルやレストラン、文化センターなど観光客のための施設を含むルンビニの市街地開発も予定されている。私が行った時(2001年5月)は、少し離れたところの広い敷地で建物などの工事が行われていた。現在は、それらの工事も完成しているであろう。<br /><br />【追記】<br /> 京都新聞にネパールのカトマンズに浄土宗本願寺派・西本願寺の「カトマンズ本願寺」が年内(2006年中)に完成するという記事が掲載されていた。そして「南アジア諸国で日本の佛教教団が本格的に伝道の拠点を築くのは初めて・・」と記されていた。(2006.9.5京都新聞記事)<br /> 私は、インドやネパールそれにチベット・中国・カンボジア・タイ・ベトナム・シルクロードなどの佛教寺院や遺跡などを歩いてきたがイスラムやヒンドゥー教の影響が強くなり佛教そのものが殆どと言ってよいほど見られなくなってきているだけに非常にうれしい記事であった。<br /> <br /> 仏の教えと日本文化<br /><br />  すべての人間は幸せな世界の実現に貢献できる能力を備えた仏の子として生まれてきており、その自己の能力に気付いた時「即、仏になれる」という啓示であります。その気付きが、この世の万物が互いに必要とする存在であることが解るという「悟り」であり、智慧への到達であります。このことは、私達に多様性の重要性、換言すれば「平和の文化」を教えてくれています。これからも世界遺産との交流と対話を通じて世界平和に貢献されることを願っています。<br /><br />ユネスコ世界遺産の目的「平和の文化」を創造すること<br /><br />  異文化の出会いは、新たな文化創造の源であり人類発展の泉でもあります。それ故に、私達は、日本をはじめ世界の文化財に対しての保護が必要です。<br />  人は国境を越えた交流の中で、自国の文化を認識し他国の文化を理解せねばなりません。そうすれば、互いに必要な存在を発見することができます。その発見が「智慧」、即ち、この世に存在するあらゆるものが、それぞれに必要な存在であるということになり、それが世界の平和共存を創造する力になります。<br /><br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

世界遺産 The world heritage 釈尊の聖地を巡礼「インド・ネパールの仏陀遺跡」?仏陀の生誕地ルンビニ Lumbini  

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2000/05/04 - 2000/05/06

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koi

koiさん

釈尊(ブッダ)がたどった仏跡巡礼地は、「四大聖地」としてルンビニ(生誕地)・ブッダガヤ(成道の地)・サールナート(初転法輪の地)・クシーナガラ(涅槃の地)がある。
 また、これにラージギル(王舎城の竹林精舎)・ヴァイシャリー(広厳城)・シュラーバスティー(舎衛城の祇園精舎)・サンカーシャを加えた「八大仏跡地」がある。
私は,このおもな仏跡地をこのほど一人で巡ってきた。以下は、その巡礼記録である。

2001年
4.29 日本〜デリー
4.29 デリー〜べナレス〜ブッダガヤ
4.30 ブッダガヤ
5.1  ブッダガヤ
5.2  サールナート(初転法輪の地)
5.3  クシーナガラ
5.4  ルンビニ(生誕地)

お釈迦さんが生まれた「ルンビニ」は、現在チベットになっているので、インドからは国境がありネパールのビザを国境で取らねばならない。この手続きが結構手間取り1時間程がかかった。
 仏陀は、その後の生涯を人々に悟りと愛と友情を教える事に捧げ、84才でこの世の生涯を終えた。この世を去る時には、何万人という弟子たちがその仏陀の教えに従っていたといわれている。
 仏陀は、この世に生を受けている全ての人間の救いのために自分自身の一生を捧げ尽くしたのである。その時以来、ルンビニは世界中の仏教徒の聖地とされた。

 ルンビニの周囲には、古代のストゥーパや僧院の遺跡が数多く残されている。また、仏陀の生まれた庭園は修復されて多くの参詣者で賑わっている。また紀元前250年にアショカ大王によって建てられた石碑には仏陀の誕生についての記録が刻まれている。

ルンビニでもう一つの重要な史跡は、マヤ・デヴィを祭る寺院である。そこには、仏陀が生まれた時に、母親のマヤ・デヴィが木にもたれかかっている姿をあらわす石像がある。子供がない女性たちが数多くその像を撫でて子どもを授かるようにとお参りするので、現在では大分擦り減ってきている。
寺院の南には、池があるが、ここで、マヤ・デヴィが生まれたばかりの仏陀に沐浴を使った所といわれている。

 近年ルンビニは、聖地としてのルンビニの修復と開発を目的として設立されたNGOであるルンビニ開発トラストによる計画によって、さまざまな開発が行われている。
この計画は1978年に建築家である丹下健三氏によって立案されたもので、仏陀の生誕地の周囲3平方マイルの地域を聖地公園として整備するものである。ここには僧院や、アショカ大王の石碑とマヤ・デヴィ寺院を囲む円形の庭園の開発、そしてホテルやレストラン、文化センターなど観光客のための施設を含むルンビニの市街地開発も予定されている。私が行った時(2001年5月)は、少し離れたところの広い敷地で建物などの工事が行われていた。現在は、それらの工事も完成しているであろう。

【追記】
 京都新聞にネパールのカトマンズに浄土宗本願寺派・西本願寺の「カトマンズ本願寺」が年内(2006年中)に完成するという記事が掲載されていた。そして「南アジア諸国で日本の佛教教団が本格的に伝道の拠点を築くのは初めて・・」と記されていた。(2006.9.5京都新聞記事)
 私は、インドやネパールそれにチベット・中国・カンボジア・タイ・ベトナム・シルクロードなどの佛教寺院や遺跡などを歩いてきたがイスラムやヒンドゥー教の影響が強くなり佛教そのものが殆どと言ってよいほど見られなくなってきているだけに非常にうれしい記事であった。
 
 仏の教えと日本文化

すべての人間は幸せな世界の実現に貢献できる能力を備えた仏の子として生まれてきており、その自己の能力に気付いた時「即、仏になれる」という啓示であります。その気付きが、この世の万物が互いに必要とする存在であることが解るという「悟り」であり、智慧への到達であります。このことは、私達に多様性の重要性、換言すれば「平和の文化」を教えてくれています。これからも世界遺産との交流と対話を通じて世界平和に貢献されることを願っています。

ユネスコ世界遺産の目的「平和の文化」を創造すること

異文化の出会いは、新たな文化創造の源であり人類発展の泉でもあります。それ故に、私達は、日本をはじめ世界の文化財に対しての保護が必要です。
人は国境を越えた交流の中で、自国の文化を認識し他国の文化を理解せねばなりません。そうすれば、互いに必要な存在を発見することができます。その発見が「智慧」、即ち、この世に存在するあらゆるものが、それぞれに必要な存在であるということになり、それが世界の平和共存を創造する力になります。

■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
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同行者
一人旅
一人あたり費用
25万円 - 30万円
交通手段
タクシー
航空会社
タイ国際航空

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  • お釈迦さんが生まれたルンビニ園【世界遺産】<br />子どもを出産するマヤ・デヴィ女王と右「太子の像」<br /><br /> ルンビニは、ネパールの南部に広がる広大なタライ平野に位置する小さな町で今も古い遺跡が残されている。<br />仏陀は王家に生まれたが、母親であるマヤ・デヴィ女王は、釈迦が生まれる前に「天国から九つの牙を持つ白い象が下ってきて自分の体に入る」夢を見たという。<br /> 子どもの出産が近づいたマヤ・デヴィ女王は、しきたりに従って実家への帰途についたが実家につく前、ルンビニの地でゴウタム・シッダルタを生んだ。<br /><br /> 写真は、釈尊(ブッダ)の「四大聖地」としてのルンビニ(生誕地)にある「ルンビニ園」は、現在ネパールになっていてマーヤ堂の中に、お釈迦さんが生まれた時の子どもを出産するマヤ・デヴィ女王の像がある。<br /> 右下は、右手を天井に上げ、左手を天下に挿した「太子の像」。

    お釈迦さんが生まれたルンビニ園【世界遺産】
    子どもを出産するマヤ・デヴィ女王と右「太子の像」

     ルンビニは、ネパールの南部に広がる広大なタライ平野に位置する小さな町で今も古い遺跡が残されている。
    仏陀は王家に生まれたが、母親であるマヤ・デヴィ女王は、釈迦が生まれる前に「天国から九つの牙を持つ白い象が下ってきて自分の体に入る」夢を見たという。
    子どもの出産が近づいたマヤ・デヴィ女王は、しきたりに従って実家への帰途についたが実家につく前、ルンビニの地でゴウタム・シッダルタを生んだ。

     写真は、釈尊(ブッダ)の「四大聖地」としてのルンビニ(生誕地)にある「ルンビニ園」は、現在ネパールになっていてマーヤ堂の中に、お釈迦さんが生まれた時の子どもを出産するマヤ・デヴィ女王の像がある。
     右下は、右手を天井に上げ、左手を天下に挿した「太子の像」。

  • お釈迦さんが生まれたルンビニ園の「太子の像」【世界遺産】<br /><br /> 釈尊(ブッダ)の「四大聖地」としてルンビニ(生誕地)。お釈迦さんが生まれた「ルンビニ園」は、現在ネパールになっていてマーヤ堂の中に、右手を天井に上げ、左手を天下に挿した「太子の像」が保存されている。<br /> <br /> 現在ルンビ二のあるネパールは、ヒンドゥー教が多いが仏教徒にとって仏陀の生誕地としての聖なる地となっている。<br /> 釈迦牟尼仏陀は、2500年前にネパールの南部にある現在のインド国境に近いルンビニで4月4日に生まれた。<br /> <br />◎お釈迦さんの「太子の像」<br /><br /> お釈迦様の右手は顔の高さまで掲げられ、親指と人差し指で丸いわっぱを作っています。<br /> これは「お釈迦様が苦しみの淵や悩みの淵に落ち込んでいる私達を救い出してくれる」ということを表しています。つまり、お釈迦様は、右手の親指と人差し指を使って、苦しんでいる人間、悩んでいる人間を救ってくださるのです。<br /><br />※この画面に手を合わせて「合掌」して下さい。きっと貴方を救ってくださいますから…。 合掌! 合掌!…。<br /><br /> 私達の小学生の頃は、お寺でお釈迦様の誕生日にこの像を出してきて甘茶をかけてその甘茶を戴いたのを覚えています。今はこれらの行事も見られなくなりました。<br /><br /> 日本では、お釈迦様の生誕節を「花祭り」と呼び、当日は花をいっぱいに飾り、甘茶を仏像にかけるという行事をあちこちで見かけることができました。現在の日本は、花祭りよりも、クリスマスの方が有名になりました。本来は殆どが佛教徒なのに世の中クリスマス一色になるなんて何故なのでしょうか。佛教が葬式佛教に化してしまったからではないでしょうか。多宗教国ならではかもしれませんね。

    お釈迦さんが生まれたルンビニ園の「太子の像」【世界遺産】

     釈尊(ブッダ)の「四大聖地」としてルンビニ(生誕地)。お釈迦さんが生まれた「ルンビニ園」は、現在ネパールになっていてマーヤ堂の中に、右手を天井に上げ、左手を天下に挿した「太子の像」が保存されている。

    現在ルンビ二のあるネパールは、ヒンドゥー教が多いが仏教徒にとって仏陀の生誕地としての聖なる地となっている。
    釈迦牟尼仏陀は、2500年前にネパールの南部にある現在のインド国境に近いルンビニで4月4日に生まれた。
     
    ◎お釈迦さんの「太子の像」

     お釈迦様の右手は顔の高さまで掲げられ、親指と人差し指で丸いわっぱを作っています。
     これは「お釈迦様が苦しみの淵や悩みの淵に落ち込んでいる私達を救い出してくれる」ということを表しています。つまり、お釈迦様は、右手の親指と人差し指を使って、苦しんでいる人間、悩んでいる人間を救ってくださるのです。

    ※この画面に手を合わせて「合掌」して下さい。きっと貴方を救ってくださいますから…。 合掌! 合掌!…。

     私達の小学生の頃は、お寺でお釈迦様の誕生日にこの像を出してきて甘茶をかけてその甘茶を戴いたのを覚えています。今はこれらの行事も見られなくなりました。

     日本では、お釈迦様の生誕節を「花祭り」と呼び、当日は花をいっぱいに飾り、甘茶を仏像にかけるという行事をあちこちで見かけることができました。現在の日本は、花祭りよりも、クリスマスの方が有名になりました。本来は殆どが佛教徒なのに世の中クリスマス一色になるなんて何故なのでしょうか。佛教が葬式佛教に化してしまったからではないでしょうか。多宗教国ならではかもしれませんね。

  • 祇園精舎の鐘(日本人が寄進)【世界遺産】<br /><br /> 平家物語で有名な祇園精舎跡は、現在レンガ積みの遺跡があちこちに数カ所あるだけで建物などは何も残っておらず、日本人が建てた「祇園精舎の鐘」がありました。また関西大学名誉教授の網干善教氏がインド政府と共同で1986年から日本側責任者として発掘された沐浴場と仏塔跡それに井戸があるだけであった。このほかには、中国寺院の一角に瞑想場として「三味堂」が設置されていた。

    祇園精舎の鐘(日本人が寄進)【世界遺産】

     平家物語で有名な祇園精舎跡は、現在レンガ積みの遺跡があちこちに数カ所あるだけで建物などは何も残っておらず、日本人が建てた「祇園精舎の鐘」がありました。また関西大学名誉教授の網干善教氏がインド政府と共同で1986年から日本側責任者として発掘された沐浴場と仏塔跡それに井戸があるだけであった。このほかには、中国寺院の一角に瞑想場として「三味堂」が設置されていた。

  • インド政府と共同で発掘された「沐浴場」【世界遺産】<br /><br /> 釈尊の「四大聖地」ルンビニ(生誕地)の「ルンビニ園」周辺を関西大学名誉教授の網干善教氏が日本側責任者としてインド政府と共同で1986年から発掘された。<br /> その時に発掘された「沐浴場」。後方に菩提樹の木が茂っている。<br /><br />【参考】 <br /> 関西大学名誉教授の網干善教氏は、高松塚古墳壁画の発掘主任でありました。先生は、2005年末に京都府木津町で開催された文化講演会で「高松塚古墳壁画のカビとキズ」について昔に撮った写真と最近撮った写真を比較しカビとキズがあることを初めて指摘され意義を述べ文化庁をきびしく批判されました。私は、その時に聞きに行っていたので大変な事になると思いました。それから1ヶ月後に新聞で高松塚古墳壁画の文化財保存に対する記事が取り上げられ大騒ぎとなり、その後も責任問題まで発展しました。<br /><br /> 網干先生は、私が博物館学芸員資格を取得した時の先生の1人で、私が祇園精舎に行くことにしたのも先生の祇園精舎発掘の話を聞いてからでした。<br /> ところが網干氏は、この講演会後の約8ヶ月後の2006年7月末に78歳で亡くなられました。私は、木津町での講演会で高松塚古墳の被葬者が誰であるのかを聞きたくて毎年聞きに行っていましたが、残念ながらもう聞かれなくなりました。あの時によほど「被葬者が誰であるのか」聞こうかと手が上がりかけました。しかし先生は明日香村で毎年開催されている講演会でも、他の先生が被葬者の話で話題になっていても誰が被葬者なのか一切お話しされませんでした。きっと高松塚古墳の発掘主任であったからかも知れません。今となっては残念でなりません。ご冥福をお祈りしたいと思います。<br /><br />【追加】<br /> 京都新聞に、飛鳥保存財団が関西大学名誉教授の故 網干善教氏の遺骨を祇園精舎跡に2006年11月頃に行き分骨するという計画の記事が掲載されていました。(京都新聞2006年8月23日記事)

    インド政府と共同で発掘された「沐浴場」【世界遺産】

     釈尊の「四大聖地」ルンビニ(生誕地)の「ルンビニ園」周辺を関西大学名誉教授の網干善教氏が日本側責任者としてインド政府と共同で1986年から発掘された。
     その時に発掘された「沐浴場」。後方に菩提樹の木が茂っている。

    【参考】
     関西大学名誉教授の網干善教氏は、高松塚古墳壁画の発掘主任でありました。先生は、2005年末に京都府木津町で開催された文化講演会で「高松塚古墳壁画のカビとキズ」について昔に撮った写真と最近撮った写真を比較しカビとキズがあることを初めて指摘され意義を述べ文化庁をきびしく批判されました。私は、その時に聞きに行っていたので大変な事になると思いました。それから1ヶ月後に新聞で高松塚古墳壁画の文化財保存に対する記事が取り上げられ大騒ぎとなり、その後も責任問題まで発展しました。

     網干先生は、私が博物館学芸員資格を取得した時の先生の1人で、私が祇園精舎に行くことにしたのも先生の祇園精舎発掘の話を聞いてからでした。
     ところが網干氏は、この講演会後の約8ヶ月後の2006年7月末に78歳で亡くなられました。私は、木津町での講演会で高松塚古墳の被葬者が誰であるのかを聞きたくて毎年聞きに行っていましたが、残念ながらもう聞かれなくなりました。あの時によほど「被葬者が誰であるのか」聞こうかと手が上がりかけました。しかし先生は明日香村で毎年開催されている講演会でも、他の先生が被葬者の話で話題になっていても誰が被葬者なのか一切お話しされませんでした。きっと高松塚古墳の発掘主任であったからかも知れません。今となっては残念でなりません。ご冥福をお祈りしたいと思います。

    【追加】
     京都新聞に、飛鳥保存財団が関西大学名誉教授の故 網干善教氏の遺骨を祇園精舎跡に2006年11月頃に行き分骨するという計画の記事が掲載されていました。(京都新聞2006年8月23日記事)

  • 石碑に刻まれた仏陀像<br /> <br /> ゴウタム王子は、マヤがいちじくの木陰に横たわっていた時に体の右側から生まれてきたといわれている。そして、生まれてすぐに、四方に七歩歩いて、その足が触れた所には、蓮華の花が咲いたという。<br />(この情景は、インドやネパールに残っている石碑に刻まれた仏陀像で見ことが出来る)<br /><br /> 誕生の後、シッダルタ王子は、両親と共に王宮でこの世の悪や苦しみから縁遠い生活を送っていた。ある予言者が「この王子は将来偉大な国王になるか、あるいは聖人になるか、そのどちらかである」と両親に予言していたので、両親が宗教家になる事を恐れて、この世の諸々の問題から遠ざけた。両親は王子に立派な国王になってほしかったからである。<br /><br /> ある日王子は王宮を抜け出し、王宮の外でこの世の悲しみや、痛み、死とそのような苦しみから人々を解放しようと一生をささげている人たちを見た。王子は、この時深く悩み、「この世の苦しみを突き止め、その苦しみから人々を解放する事は出来ないのか」と考えるようになった。そして、ある夜、王子は宮殿の人たちが眠っている間に王宮を抜け出し、贅沢な王子の衣装を脱ぎ捨てて頭を丸め、苦行僧としての修行の道を輪歩みを始めた。<br /><br /> 彼は何年にもわたりインドの各地で断食と瞑想の修行を積み、この世の苦難を解決する道を追い求めていた。そして、ある満月の夜、北インドのボダガヤ(Bodhgaya日本ではブッダガヤ)という所、木(菩提樹)の下で瞑想していたところ、悟りを開いたのである。これ以来彼は、王子でなく仏陀となった。

    石碑に刻まれた仏陀像
     
     ゴウタム王子は、マヤがいちじくの木陰に横たわっていた時に体の右側から生まれてきたといわれている。そして、生まれてすぐに、四方に七歩歩いて、その足が触れた所には、蓮華の花が咲いたという。
    (この情景は、インドやネパールに残っている石碑に刻まれた仏陀像で見ことが出来る)

     誕生の後、シッダルタ王子は、両親と共に王宮でこの世の悪や苦しみから縁遠い生活を送っていた。ある予言者が「この王子は将来偉大な国王になるか、あるいは聖人になるか、そのどちらかである」と両親に予言していたので、両親が宗教家になる事を恐れて、この世の諸々の問題から遠ざけた。両親は王子に立派な国王になってほしかったからである。

     ある日王子は王宮を抜け出し、王宮の外でこの世の悲しみや、痛み、死とそのような苦しみから人々を解放しようと一生をささげている人たちを見た。王子は、この時深く悩み、「この世の苦しみを突き止め、その苦しみから人々を解放する事は出来ないのか」と考えるようになった。そして、ある夜、王子は宮殿の人たちが眠っている間に王宮を抜け出し、贅沢な王子の衣装を脱ぎ捨てて頭を丸め、苦行僧としての修行の道を輪歩みを始めた。

     彼は何年にもわたりインドの各地で断食と瞑想の修行を積み、この世の苦難を解決する道を追い求めていた。そして、ある満月の夜、北インドのボダガヤ(Bodhgaya日本ではブッダガヤ)という所、木(菩提樹)の下で瞑想していたところ、悟りを開いたのである。これ以来彼は、王子でなく仏陀となった。

  • ナーランダ大学跡<br /><br /> ナーランダ大学跡は、紀元前から仏教研究の場所として栄えたところであるが、12世紀にイスラム軍団により廃墟となった。ここは密教が盛んな所で降三世明王や不動明王などの像が保存されている。<br /><br />【解説】<br />降三世明王と不動明王などについて<br /> 本来、五大明王(または五大尊・五忿怒)は、密教の中心的仏像で不動明王を中心に降三世明王(東)・金剛夜叉明王(北)・大威徳明王(西)・軍茶利明王(南)の五体からなっている。 これらの像は、中央の大日如来である不動明王以下の五仏が、衆生教化のため姿を忿怒形にかえたものである。つまりおろかな衆生は菩薩の慈悲に甘えるだけでは救われない場合があり、これらのしからねばならない衆生に対しては牙をあらわす憤怒相の三眼の姿で命令を持って教化している。 明王は如来の厳しい命令を実行する使者である。このため炎が上に燃え広がっているような髪で、沢山の手には悪をこらしめるための持仏を持った力強い姿をしていて腰等に薄い衣を巻き付けている。 <br /><br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.<br /><br /><br />

    ナーランダ大学跡

     ナーランダ大学跡は、紀元前から仏教研究の場所として栄えたところであるが、12世紀にイスラム軍団により廃墟となった。ここは密教が盛んな所で降三世明王や不動明王などの像が保存されている。

    【解説】
    降三世明王と不動明王などについて
     本来、五大明王(または五大尊・五忿怒)は、密教の中心的仏像で不動明王を中心に降三世明王(東)・金剛夜叉明王(北)・大威徳明王(西)・軍茶利明王(南)の五体からなっている。 これらの像は、中央の大日如来である不動明王以下の五仏が、衆生教化のため姿を忿怒形にかえたものである。つまりおろかな衆生は菩薩の慈悲に甘えるだけでは救われない場合があり、これらのしからねばならない衆生に対しては牙をあらわす憤怒相の三眼の姿で命令を持って教化している。 明王は如来の厳しい命令を実行する使者である。このため炎が上に燃え広がっているような髪で、沢山の手には悪をこらしめるための持仏を持った力強い姿をしていて腰等に薄い衣を巻き付けている。

    ■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
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