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&#10139;萩往還(はぎおうかん)は、江戸時代に整備された街道の一つで、長門国の城下町である萩(山口県萩市)と周防国三田尻(山口県防府市)とをほぼ直線に結ぶ全長約53kmの街道でした。毛利氏(長州藩)が萩城に居を移した後の慶長9年(1604年)に、道幅二間(4m)の重要道路として整備したもので、日本海側の萩と瀬戸内海側の商港であった中関港とを結ぶ役割があり、幕末には志士たちが往来するなどしていましたが、明治時代以降は利用者が減って道も荒れ、険しい山道など一部はそのまま廃道となっっています。<br />公開されている資料「萩往還」「日本風景街道ちゅうごく」を基に、空撮ツアーを試みます。<br />&#10139;起点の唐樋札場跡<br />&#10139;萩往還(http://bit.ly/XRGOUj) <br />&#10139;日本風景街道ちゅうごく(http://bit.ly/12Vyerz)<br />&#10139;名所・史跡を訪ねて(http://bit.ly/14Zq6om)<br /><br />&#10139;維新の故郷、萩の史跡を訪ねて(http://bit.ly/Mt8YlF)

萩往還(萩~防府)53kmの道のり

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2013/02/17 - 2013/02/17

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boss

bossさん

➛萩往還(はぎおうかん)は、江戸時代に整備された街道の一つで、長門国の城下町である萩(山口県萩市)と周防国三田尻(山口県防府市)とをほぼ直線に結ぶ全長約53kmの街道でした。毛利氏(長州藩)が萩城に居を移した後の慶長9年(1604年)に、道幅二間(4m)の重要道路として整備したもので、日本海側の萩と瀬戸内海側の商港であった中関港とを結ぶ役割があり、幕末には志士たちが往来するなどしていましたが、明治時代以降は利用者が減って道も荒れ、険しい山道など一部はそのまま廃道となっっています。
公開されている資料「萩往還」「日本風景街道ちゅうごく」を基に、空撮ツアーを試みます。
➛起点の唐樋札場跡
➛萩往還(http://bit.ly/XRGOUj
➛日本風景街道ちゅうごく(http://bit.ly/12Vyerz
➛名所・史跡を訪ねて(http://bit.ly/14Zq6om

➛維新の故郷、萩の史跡を訪ねて(http://bit.ly/Mt8YlF

同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • &#10139;萩往還(萩〜防府)53kmの道のり<br />http://bit.ly/Z7ci82<br />&#10139;Wikiloc ツアー一覧(後順)<br />http://bit.ly/PZfsql<br />&#10139;最新のView &amp; Tour<br />http://sdrv.ms/10Qguhu<br />&#10139;Earth View <br />(Japan) http://sdrv.ms/JAF07M<br />(World)  http://sdrv.ms/JbEwoT<br />&#10139;Earth Tour <br />(Japan) http://sdrv.ms/KJMg6A<br />(World)  http://sdrv.ms/K8WLiB

    ➛萩往還(萩〜防府)53kmの道のり
    http://bit.ly/Z7ci82
    ➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
    http://bit.ly/PZfsql
    ➛最新のView & Tour
    http://sdrv.ms/10Qguhu
    ➛Earth View 
    (Japan) http://sdrv.ms/JAF07M
    (World)  http://sdrv.ms/JbEwoT
    ➛Earth Tour 
    (Japan) http://sdrv.ms/KJMg6A
    (World)  http://sdrv.ms/K8WLiB

  • &#10139;涙松跡を過ぎると萩の町が見えなくなってしまうため、人々はここで別れを惜しんで涙し、また帰った時は嬉し涙を流したということから、いつの間にか涙松と呼ばれるようになったそうです。安政の大獄に連座し江戸送りとなった吉田松陰はここで「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしお)ぬるる涙松かな」の一首を残しています。<br />&#10139;涙松跡(吉田松陰歌碑)

    ➛涙松跡を過ぎると萩の町が見えなくなってしまうため、人々はここで別れを惜しんで涙し、また帰った時は嬉し涙を流したということから、いつの間にか涙松と呼ばれるようになったそうです。安政の大獄に連座し江戸送りとなった吉田松陰はここで「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしお)ぬるる涙松かな」の一首を残しています。
    ➛涙松跡(吉田松陰歌碑)

  • &#10139;松陰記念館には松下村塾が再現され、記念館の前には高杉晋作・伊藤博文などの塾生の銅像が並んでいます。また道の駅「萩往還」では休憩所やレストラン・売店・トイレなどウォーキングの疲れを癒せます。<br />&#10139;松陰記念館

    ➛松陰記念館には松下村塾が再現され、記念館の前には高杉晋作・伊藤博文などの塾生の銅像が並んでいます。また道の駅「萩往還」では休憩所やレストラン・売店・トイレなどウォーキングの疲れを癒せます。
    ➛松陰記念館

  • &#10139;明木市は、赤色の石州瓦の屋根が軒を連ねる町並みがとても印象的で、城下の萩から数えて最初、 そして江戸からは最後の宿駅です。幕末期、吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬など多くの志士が往来しました。<br />&#10139;明木市

    ➛明木市は、赤色の石州瓦の屋根が軒を連ねる町並みがとても印象的で、城下の萩から数えて最初、 そして江戸からは最後の宿駅です。幕末期、吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬など多くの志士が往来しました。
    ➛明木市

  • &#10139;明木市

    ➛明木市

  • &#10139;落合の石橋

    ➛落合の石橋

  • &#10139;佐々並市は、宿場町、市の町として栄えた集落です。集落の真ん中を通るメインストリートは昔と同じく 鍵型に曲がっており、その街道沿いには、虫小窓や土蔵などのある伝統的建造物が並び趣のある街並みで、地域をあげてその風情と景観を守る取り組みを進めています。また、国道沿いには、道の駅もあり、多くのドライバーの心を和ませてくれます。<br />&#10139;佐々並市

    ➛佐々並市は、宿場町、市の町として栄えた集落です。集落の真ん中を通るメインストリートは昔と同じく 鍵型に曲がっており、その街道沿いには、虫小窓や土蔵などのある伝統的建造物が並び趣のある街並みで、地域をあげてその風情と景観を守る取り組みを進めています。また、国道沿いには、道の駅もあり、多くのドライバーの心を和ませてくれます。
    ➛佐々並市

  • &#10139;佐々並市

    ➛佐々並市

  • &#10139;六軒茶屋付近の石畳

    ➛六軒茶屋付近の石畳

  • &#10139;六軒茶屋跡・ 一の坂駕籠建場跡は、萩往還最大の難所とされる一の坂に設けられた休息所です。名前の由来となった6軒の茶屋(元は民家だが旅人のために軒先で茶を出し始めた)の他、藩主の休憩所である駕籠建場(藩主の駕籠を降ろして休憩する場所)がありました。<br />&#10139;六軒茶屋跡・一の坂駕籠建場跡

    ➛六軒茶屋跡・ 一の坂駕籠建場跡は、萩往還最大の難所とされる一の坂に設けられた休息所です。名前の由来となった6軒の茶屋(元は民家だが旅人のために軒先で茶を出し始めた)の他、藩主の休憩所である駕籠建場(藩主の駕籠を降ろして休憩する場所)がありました。
    ➛六軒茶屋跡・一の坂駕籠建場跡

  • &#10139;以前、広島の厳島神社を初めとし、錦帯橋、秋吉台・秋芳洞・瑠璃光寺を経由して日本海へ、長門市や萩市を訪ねたことがあります。萩往還の道のりなど念頭になく、瑠璃光寺が、その行程にあることなど知る由もなく、日本三名塔(京都の醍醐寺・奈良の法隆寺)の一つに数えられる五重塔に見入ったことが思い出されます。<br />&#10139;瑠璃光寺五重塔

    ➛以前、広島の厳島神社を初めとし、錦帯橋、秋吉台・秋芳洞・瑠璃光寺を経由して日本海へ、長門市や萩市を訪ねたことがあります。萩往還の道のりなど念頭になく、瑠璃光寺が、その行程にあることなど知る由もなく、日本三名塔(京都の醍醐寺・奈良の法隆寺)の一つに数えられる五重塔に見入ったことが思い出されます。
    ➛瑠璃光寺五重塔

  • &#10139;宮市本陣兄部家

    ➛宮市本陣兄部家

  • &#10139;防府天満宮

    ➛防府天満宮

  • &#10139;英雲荘(三田尻御茶屋)は、萩往還の終点で、萩藩2代藩主毛利綱広により承応3年(1654)、参勤交代の宿泊用に建設された三田尻御茶屋です。7代藩主毛利重就が隠居後に移り住んだことから、重就の法名にちなみ「英雲荘」と命名されました。<br />&#10139;英雲荘

    ➛英雲荘(三田尻御茶屋)は、萩往還の終点で、萩藩2代藩主毛利綱広により承応3年(1654)、参勤交代の宿泊用に建設された三田尻御茶屋です。7代藩主毛利重就が隠居後に移り住んだことから、重就の法名にちなみ「英雲荘」と命名されました。
    ➛英雲荘

  • &#10139;三田尻御舟倉跡は、戦国時代に活躍した毛利水軍が、慶長16年(1611年)に御船手組として新たに本拠地とした場所です。御座船を始めとする軍船などの停泊・修理・建造ができる設備が備えられていましたが、明治時代に御舟倉が廃止されたため、通堀とその水路の一部のみが現存しています。<br />&#10139;三田尻御舟倉跡

    ➛三田尻御舟倉跡は、戦国時代に活躍した毛利水軍が、慶長16年(1611年)に御船手組として新たに本拠地とした場所です。御座船を始めとする軍船などの停泊・修理・建造ができる設備が備えられていましたが、明治時代に御舟倉が廃止されたため、通堀とその水路の一部のみが現存しています。
    ➛三田尻御舟倉跡

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