2007/02/22 - 2007/02/22
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- #遺跡・歴史
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バナウェの棚田、高原の街バギオを再び訪れた後で戻って来た首都マニラ。
思いがけなく移動に時間のかかる車の運転はもう今回は終えて、残る2日間はマニラに留まることに。
と言っても、ホテル内に終日いるのも性に合わないSUR SHANGHAIとその旦那は市内も探索。
91年に初めてフィリピンに来た時、不思議に印象に残った≪華僑義山≫をまず再訪。
≪華僑義山≫と言うのは、一見すると住宅街のような墓所が並ぶ広大な中国人墓地で、フィリピンに渡ってきた華僑の歴史の一端や死生観も垣間見られる場所。
ここは観光地ではありませんが、一般の人も見学できますよ。
そのあとで行ってみたのは、マニラでは観光地の一つとなったイントラムロスの一画にあるサンチャゴ要塞。
ここも前に行ったかも、と思いつつ、フィリピンの歴史やその中に飲み込まれた人物の一人ホセ・リサールを振り返りつつの再訪問。
同じ所を訪れても、時が流れると自分の感想も違う物になったマニラでの1日。
表紙の画像は、ホセ・リサールが処刑の日にサンチャゴ要塞から刑場まで歩いた道筋を示した足型金属プレート。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 2.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
常に渋滞状態のマニラ市街地の道。
路上での物売りのおじさんたちも寄ってきます。
このおじさんが危ないという訳ではありませんが、車に乗っている時には、ドアは全部ロックしたほうがいいそうですよ。
停車中に外からドアを開けられて、犯罪に巻き込まれることがあるそうです。 -
さて、まず訪れたのは、中国人墓地≪華僑義山≫。
入って来たサウス・ゲートを振り返る。
元々は観光スポットではありませんが、一般の人も見学できるので興味のある方は行ってみては?
サンタ・クルス地区の北、PAMPANGA STREETとF. HUERTAS STREETとの交差点近くのサウス・ゲートから入れます。
広大な敷地の外回りにはゲートが数ヶ所ありますが、開いているのはここ。北のほうにあるゲート1は、中国人墓地とは違うカトリック系の墓地への入口なので、間違えないようにご用心。
マラテ地区から車だと30分くらい。入場料はありませんが、墓地の敷地内に駐車すると、50ペソ徴収されます。
このゲートにはガードマンさんがいて、どこへ行く?と聞いてきますが、墓地見学と言えば大丈夫です。 -
一見すると住宅のように見える墓所が並ぶ中国人墓地≪華僑義山≫敷地内部の一画。
遠目に見たら、住宅街かと思う人は多いはず。
普段は、敷地内の清掃をする人や墓所の補修をする作業員さんくらいが出入りしています。 -
日本の墓地と同じく、普段の日には訪れる人も少なく閑散とした中国人墓地≪華僑義山≫。
中国には、日本のお盆のように先祖のお墓参りをする清明節(元々は旧暦の3月3日だったようですが、現在では新暦の4月5日に統一)という日があるので、ここマニラの中国人墓地もその日にお参りの人たちで賑わうのかと思ったら間違いだった。
ではいつなのかと言うと…、 -
…なんとカトリックの万聖節(11月1日)前後がこのマニラの中国人墓地のお参りの日なのだそう。
そう言えば、ヨーロッパのカトリック圏でも、万聖節の頃、お墓参りをする人が多い。
スペインの植民地だったフィリピンに渡ってきた華僑の人たちも、『郷に入れば郷に従え』で風習を変えていったんだろうな。 -
小さなお寺や住宅のような門構えの墓所を一軒一軒見ていくと、フェンス越しに内部が見える場所も多数。
内部には、正面の祭壇の上のほうに故人の肖像画や写真が飾られて、その下の壇に棺が納められています。
特に立派な墓所では、お参りの日に参拝者が集うための設備も内部にあって、テラス席やテーブルや椅子、トイレや扇風機なども取り付けられていたりします。 -
チラッと見ただけだと、住宅にしか見えない門構えの墓所。
庭木や鉢植えも、手入れに来てくれる人がいるようです。 -
中国人墓地とは言え、墓所のスタイルは信仰する宗教によってもまちまち。
仏教様式だけとは限りません。
これはキリスト教を信仰している一家の墓所だと一目で分かる。 -
住宅のような造りの墓所だけではなく、敷地に亭を持った露天墓地も。
1571年にスペイン遠征隊の隊長だったミゲル・ロペス・デ・レガスピがマニラを首都として初代総督に就任してからは、南シナ海(ルソン海)対岸の中国・福建省から渡ってきた華僑がスペインの植民地となったフィリピンの経済活動を握るようになったのだとか。
フィリピン全体での現代の華僑の人口は70万人を超えるという話で、今回は行きませんでしたが、マニラにも中華街がありますよ。
この≪華僑義山≫に眠る人々もその子孫なんだろうなあ、と想像してみるSUR SHANGHAI。 -
外回りの建物が無く、露天の敷地に石棺と墓碑だけが付いてある墓所も。
石棺の中には、さらに棺が納められているのだそう。
青と金の目を持った子猫がその石棺に座って、SUR SHANGHAIをジッと見つめる。 -
二階建てになった墓所も混じる≪華僑義山≫。
植木や外回りは手入れされていても、生きた人々が住む家とは違う一種独特の雰囲気が漂う一画。
ジョルジオ・キリコの空ろな印象の町並みの絵を思い出す。 -
不謹慎かと思いつつ、一軒の墓所の内部をフェンス越しにちょっと失礼。
ここはお参りに来た人が使えるトイレなどの設備もある墓所。
赤地に黄色い≪寿≫や≪福≫の字があるのは日本人には奇妙な感じですが、来世での長寿や幸福を願う言葉なのでは。
ちなみに生前に準備しておく棺やお墓、経帷子のことをそれぞれ≪寿材≫、≪寿穴≫、≪寿衣≫と呼ぶようです。
棺の納められた壇の前面の碑には故人の出身や生没年なども彫られてあって、正面に肖像画があるご夫婦は1800年代末に生まれた福建省・晋江の出身のようでした。
華僑は1500年代後半からフィリピンに渡って来たと書きましたが、現代のフィリピンの華僑社会では、一般に華僑の一世と言われるのは1800年代後半から1900年代初めに来島した人々のことらしいので、この墓所のお二人も一世と見なされていたのかも。 -
上の画像とは別の墓所。
奥に肖像画が見えているご夫婦らしきお二人は、同じ墓所に入ったあとも心を通わせているように見える柱の文字。 -
墓地の敷地内を清掃する人も通る道。
それぞれの道には名前も付いていて、標識が出ていました。
手押し車が入って来るこの道は≪MABINI ROAD≫。 -
今も補修や清掃の人がやって来る墓所だけではありませんでした。
墓守りの役目を引き継ぐ人がいないのか、内部の棺などが取り除かれて物干し場や物置のようになった場所も。 -
ここも同じように、棺や祭壇が取り去られて物置になっている。
なかには全体が取り壊されて瓦礫の山になっている一画もありましたよ。
そう言えば、この≪華僑義山≫の墓所は、どういうシステムで管理されているのか聞かなかった。
こういう誰も面倒を見なくなったような墓所はこれからどうするんだろう。 -
中国人墓地≪華僑義山≫の広大な敷地には、戦時中、日本軍に抵抗して亡くなった華僑を祀る≪菲律賓(フィリピン)華僑抗日紀念館≫やその碑もあります。
(注:中国語では≪記念≫を≪紀念≫と書きます)
この時には補修中だったせいか閉まっていたので、内部を見学できるのかどうかまでは未確認。 -
中国人墓地≪華僑義山≫を取り巻く壁は高い。
壁にずらりとロッカーのように区切られているのは、遺骨や遺灰を納める場所。
壁の上にはフェンスまで取り付けられていて、こう言ってはなんですが、刑務所の壁のよう。
ん? フェンスの上に見える人は何をしてるんだろう。 -
今度は墓所の部分部分を見ていくSUR SHANGHAI。
これはお参りに来た人が墓所の入口でロウソクやお線香を立てる場所。
あ、ここにも泰山石敢当があった。
(泰山)石敢当というのは、気の流れが直撃する民家の入口、河の流れのそば、三叉路などに置いて、邪気が入り込まないようにする役目を持っていて、中国の古い町や村ではよく見かけます。
でも、墓所に置いてあるのは初めて見たなあ。
由来はよく分かっていないらしいですが、中国・山東省にある泰山は古代から信仰の対象になっていたので、その名のご利益で魔除け・厄除けにされたとも言われているのだそう。8世紀に福建省からその風習が始まり、その後は沖縄(琉球)にも伝わったのだとか。
(泰山)石敢当の風習も、福建省からフィリピンに渡って来た華僑と共にここにも伝わったのかな。 -
これは別の墓所の入口にあるロウソクやお線香を立てる場所。
≪后土≫と彫られた碑の前に、よくお線香を立てる小さい穴が開けられています。
≪后土≫と言うのは、古代からの大地の神のことらしいですよ。 -
この炉も、よく墓所の入口脇で見かけます。
ここでは故人があの世で使うための≪紙銭≫が焚かれます。
お墓参りの人々がやって来る11月1日の万聖節前後には、お線香やロウソク、紙銭を売る露店も、この中国人墓地≪華僑義山≫のサウス・ゲート付近に並ぶそうです。
そうそう、フィリピンの華僑についての小さい博物館がイントラムロスにあるそうですよ。バハイ・チノイ(BAHAY TSINOY)と言う名の博物館で、所在地はKAISA-ANGERO KING CENTER ANDA VORNER CABILDO ST.だそうです。
事前に知らなかったのが残念。
月曜休館で、開館時間は午後1時から5時までだそうす。 -
紙銭を焚く炉も墓所によってスタイルが少しずつ違う。
これはお寺の屋根をつけたような形。
試しに旦那に
「私にはどんなお墓を造ってくれる?」と聞いてみたら、
「うんと小さいのを作る。」だって。(^^ゞ
「どうしてよ〜。」
「そしたらどこへでも持ち運び出来るじゃんか。」
うれしいような、悲しいような気分になったSUR SHANGHAI。なぜか二人ともシンミリ…。
気を取り直して、次のサンチャゴ要塞へ向かいます。 -
中国人墓地≪華僑義山≫からイントラムロスの中にあるサンチャゴ要塞入口あたりへは車で30分くらい。
それ自体が城壁に囲まれたイントラムロスの中でも、パシグ(PASIG)川に面した一画にあるサンチャゴ要塞の入場料は40ペソ。
入場は毎日8:00〜18:00
ただし内部にあるホセ・リサール関連の展示があるリサール廟は9:30〜12:00、休憩をはさんで13:00〜17:00と言うことなのでご注意。
チケット売り場を入ってすぐに売店やトイレがあるので、必要な方はどうぞ。
画像は、売店前で一休みするSUR SHANGHAIたちにお尻を向ける三毛猫。 -
サンチャゴ要塞のチケット売り場から要塞内部へは広場や横切り、お堀を渡って入って行きます。
サンチャゴ要塞内は徒歩で十分見て回れます。
睡蓮の花が咲くにはちょっと早い時期。
パシグ川を隔てたBINONDO地区のビルも見える。 -
1571年に建てられてから戦災や地震で何度も破壊・修復が繰り返されたサンチャゴ要塞のゲート。
マニラ湾に流れ込むパシグ川に面している立地ということで、1700年代にはイギリス軍、1900年代半ばにはアメリカ軍、日本軍にも占領されたり使用された歴史があります。
出て来る人と大きさを比べてみてくださいね。 -
サンチャゴ要塞のゲートの浮き彫りがある部分。
要塞の建設が始まったのは1571年でも、このゲートが出来たのはそれよりもずっと後の1714年なのだそう。 -
ゲート内部にあるリサール廟の一画。
ホセ・リサールに関する展示があるのは、これと隣接した新しい建物のほう。展示がある部分は撮影不可。
リサールが処刑の前日に妹に残した『わが最後の別れ』の詩の各国語訳、リサールが日本滞在中に愛したおせいさん=臼井勢以子の憂いを秘めたような肖像画もありました。
このレンガ造りの部分はサンチャゴ要塞の中でも最も古い建築物の一つで、1593年に建てられた時にはスペインの兵士のバラックとして使用され、その後1898年からのアメリカ合衆国による統治時代には将校やその家族が使用していたとのこと。
第二次世界大戦中に破壊され、今の姿になったのだとか。 -
リサール廟とは別に、リサール家具館というのもあって、ここの見学はサンチャゴ要塞のチケットとは別途10ペソ。
リサールが使用した家具、衣服などが展示されています。
ホセ・リサール(JOSE RIZAL)は、今もフィリピン第一の英雄とされている、19世紀末のフィリピン独立運動の志士だった人物。
1861年にルソン島の中産階級の家庭に生まれたリサールは、少年期からスペイン植民地だったフィリピンの実情に憂いを感じていたのだそう。
1882年にヨーロッパに留学し、84年に医学博士の学位をとったあとで87年にベルリンで発表したフィリピンの政治・社会をするどく描写した社会小説『我に触れるな』がもとで帰郷後に追放。
その後は…、 -
…香港、日本を巡り、1891年にベルギーで出版した次なる小説『反逆』の中では民族自立を主張し、母国フィリピンを革新しようとする思想がさらに高まっていたのだそう。
リサールと共にフィリピンを追放されて香港にいた家族との幸せな生活を送った一時期もあったようですが、1892年には周囲の反対を押し切ってマニラに戻りフィリピン同盟を結成。
これでスペイン側に危険人物と見なされたリサールはミンダナオ島に4年間の流刑。
1896年、流刑生活を終えてマニラに戻ってきたリサールを待っていたのは、流刑中に結成されていた急進的なカティブナン党の反乱発覚だった。
総督はその反乱とは無関係という保証も付けてリサールをスペインに送ったところ、到着と同時に逮捕されマニラに送還。
1896年12月30日には、収監されていたこのサンチャゴ要塞から刑場に送られ、スペイン植民地政府によって公開銃殺に処された35歳のホセ・リサール。 -
ホセ・リサールが主張した民族自立は、その後のフィリピンをはじめとするアジアのナショナリズムも呼び起こしたものだった。
その先駆者として、志半ばで歴史の流れの中に飲み込まれたリサール。
これはそのリサールが着用していた衣服。 -
リサール家具館の中は撮影OKでした。
これはリサールが少年時代に使っていたという寝台。
リサールが夢見たフィリピンの改革は生前には実現はしなかったものの、医者などとしても民衆に貢献したその志でフィリピン第一の英雄とされているリサールの著書は、学生の必読図書にもなっているようです。
1998年には、マリルー・ディアス=アバヤ監督の映画『ホセ・リサール』も上映されたようですよ。 -
リサール家具館があるあたりのサンチャゴ要塞の城壁は、マニラ湾に流れ込むパシグ川に面している。
今はその川べりには下りて行けませんが…、 -
…見張り台もあるその城壁からは、パシグ川とその向こうのBINONDO地区の町並みがよく見えます。
この画像だと左手方向がマニラ湾。 -
サンチャゴ要塞の一画には、ホセ・リサールが収監されていた建物が残っています。
今は天井部分が無くなっているこの建物は立ち入り禁止。
この画像だと黒くて見えにくいですが、これから刑場に向かおうとするリサールの像も立っています。
これが等身大なら、身長が160cmあるかないかのSUR SHANGHAIと比べてもリサールは意外に小柄だったと気付いた。フィリピンの人たちは一般に小柄ですが。
フェンスの所から続く足型は、刑場までの道筋を示しています。 -
今はリサール自身の銅像(画像右上に小さく見えています)も立つサンチャゴ要塞敷地を通って続く足型プレート。
自分を処刑する人々が待つ場所に向かうこの足跡!
リサールに対する畏敬の気持ちと共に、その一歩一歩に恐怖を覚える。
LAST WALKと呼ばれるこの足取りが残る道筋を、リサールは何を思い歩いて行ったんだろう。 -
リサールの足跡は、サンチャゴ要塞のゲートを出て…、
-
…さらにその先の、イントラムロス方向へと続く。
今、イントラムロスの南にあるリサール公園内のリサール・モニュメントが建っている場所が、処刑地だったのだとか。
午後の長い影を引き始めた街灯や木々。
道の奥からはるかな銃声が聞こえてきそうな錯覚。 -
イチオシ
サンチャゴ要塞の中には、そのほかにもこれまでの戦争で内外の兵士が命を落とした場所を記念するモニュメントなどが残っていました。
その一つ一つの場所には英語での説明を付けたプレートや碑が出ているので、是非読んでみてくださいね。
この国の歴史の一端を知るために。 -
SUR SHANGHAIたちも再び訪れてみたサンチャゴ要塞。
以前は、何も無い場所でつまらない、と思ったのが恥ずかしい。 -
夕暮れも近づいた西日の中の影と色。
ちょっとイントラムロスの中も歩いてホテルに帰ることに。
イントラムロスというのは、スペイン語で≪城の中≫を意味する言葉で、文字通り城壁に囲まれた町並みが残っています。
今はマニラの一部になっていますが、フィリピンがスペイン植民地だった時にはその城の中がマニラそのものだったのだそう。
さっき行ったサンチャゴ要塞はイントラムロスのパシグ川に面した一画。 -
城壁に囲まれた町イントラムロスの中では、マニラ・カテドラルが一際目を引きます。
サンチャゴ要塞から徒歩2,3分。
これは正面から見て左側の側面。
ドームや尖塔を持つ石造りの形が重々しい。
正面に回りこんでみると…、 -
駐車違反の車をお迎えにレッカー車が来ていた。
SUR SHANGHAIたちの車ではありません。
持ち主が来ないうちに、とすばやい作業。 -
あれよあれと見守るうちに…、
-
…はい、さようなら。
通知の紙は路上の石ころの下に置いて行ったけど、大丈夫なのかなあ。(^^ゞ -
イントラムロスの中に立っていたドラッグの無い町作りのスローガン。
城壁に囲まれたイントラムロス内の町並みは24時間いつでも入れるわけではなく、ゲートが開いているのは朝は5時から夜は10時半までと表示が出ていましたよ。 -
この日最後の西日を浴びたイントラムロス内の町角。
明日は、今回のマニラ滞在の最後の夕景を楽しんでみます。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- ドク金魚さん 2010/04/19 10:04:22
- ありがたい!!実は行きたいトコ
- こんにちは〜SUR SHANGHAIさん
唐突ですが、ここ行きたかったんですよ!<ホセ・リサール記念館と中国人墓地>
中国人墓地に関してはSUR SHANGHAIさんの詳細なコメントは大変有り難い
です。またこんなに敷地が広いとも思いませんでした。
汗だくになりながら、幼児連れでの散策には不向きと思います。
この旅行紀で満足したしたよ〜♪
宗教も様々なんですね。キリスト教や仏教 道教も有るのでしょうね。
住宅の様に立派な建物や墓守の居ない洗濯物の掛かった様子も感慨深い
です。(実は墓好き)
ホセ・リサール記念館は出来れば訪ねたいです。
未確定ですが、今年の11月にボラカイ島の前後泊でマニラを予定してます。
でも知れば知るほど謎だな〜死を予期と言うより自ら死を選択したような〜
またじっくりと楽しませて頂きますね。
お邪魔しました ドク @^・^@
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2010/04/19 21:26:57
- RE: ありがたい!!実は行きたいトコ
- マニラの中では超が付くほどマイナーな見所(…と言っては不謹慎ですが)の中国人墓地。
興味深い所ですが、残念ながらお子さん連れ向きではないですね。(~_~;)
日本人でも仏教、神道、キリスト教…と信仰がさまざまあるように、中国人墓地でも信仰によって墓所の様式が異なっていました。
ただ、私は宗教についてはよく分からないので、細かい宗派などの分類は到底無理です。(^^ゞ
ホセ・リサールもミステリアスな一面がありますね。
そのうちにドク金魚さんの視点での旅行記アップをお願いいたします。(*^_^*)
昔の旅行記もアップ予定とのことで、そのうちにまたお邪魔させていただこうと思ってます。
もうすぐGW。ご家族ご一緒に楽しめるようにお祈りしています。(*^。^*)
> こんにちは〜SUR SHANGHAIさん
>
> 唐突ですが、ここ行きたかったんですよ!<ホセ・リサール記念館と中国人墓地>
>
> 中国人墓地に関してはSUR SHANGHAIさんの詳細なコメントは大変有り難い
> です。またこんなに敷地が広いとも思いませんでした。
> 汗だくになりながら、幼児連れでの散策には不向きと思います。
> この旅行紀で満足したしたよ〜♪
>
> 宗教も様々なんですね。キリスト教や仏教 道教も有るのでしょうね。
> 住宅の様に立派な建物や墓守の居ない洗濯物の掛かった様子も感慨深い
> です。(実は墓好き)
>
> ホセ・リサール記念館は出来れば訪ねたいです。
> 未確定ですが、今年の11月にボラカイ島の前後泊でマニラを予定してます。
>
> でも知れば知るほど謎だな〜死を予期と言うより自ら死を選択したような〜
>
> またじっくりと楽しませて頂きますね。
>
> お邪魔しました ドク @^・^@
>
-
- kioさん 2007/05/14 22:17:38
- ホセ・リサールの足跡
- 刑場に向かうホセ・リサールの足跡、これもある種のモニュメント
なんでしょうが、見入ってしまいました。
リサールの後ろ姿が浮かび上がって見えてきましたよ。
そしてルネタパーク(リサール公園)内のモニュメント像のある場所が
彼が処刑された地だったんですね。 いや〜知らなかった。
ここでは二人の衛兵が24時間、微動だにせず、彼を護っているんですよね。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2007/05/15 20:02:49
- RE: ホセ・リサールの足跡
- 私はこれらの足型プレートを見ながら、そのホセ・リサールの後姿は…、と想像してみました。
うなだれている姿なのか、胸を張っている姿なのか、ただ淡々としている姿だったのか。
自分の足で刑場へ歩いて行くという恐怖を感じさせないために、事前に何か薬物を投与されていたのでは、とも思いました。
私はサスペンス映画の見すぎですね。(^^ゞ
-
- azianokazeさん 2007/04/13 11:52:03
- 死者の街
- 日本人は「あの世」(死後の世界)と「この世」(世俗の世界)は比較的切り離してとらえますが、中国の人は始皇帝の兵馬俑にしてもこのお墓の街にしても「この世」の世界を死後まで持ち込もうとするみたいですね。
死に方の違いは生き方の違いにも影響するかも・・・
足跡を残すというのは、追体験の方法としていい考えですね。
(?)の小魚の燻製の写真面白かったです。
CHICO、初めて見ましたが食べてみたいですね。
調べてみると、この木の樹液が「チクル」(チューインガムの原料)みたいですね。
他の東南アジアの国々でも思うのですが、比較的大雑把な仕事をする割には果物なんかの店先のデコレーションには異様に労力を注いでいるように見えることが多いですね。
(?)のマニラ湾の夕陽は皆さんが賞賛されているとおりで。
あれやこれや、まとめて。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2007/04/14 10:59:38
- RE: 死者の街
- >果物なんかの店先のデコレーションには異様に労力を注いでいるように見えることが多いですね。
そうですね。台湾やインドなどなど、果物を売る屋台では、お店を目立たせようとする目的もあるんじゃないかと思うほど、飾り切りにした果物も盛り上げていたり。アジアの色彩が濃いなあと思います。
マニラの中国人墓地は、その一家の財力の程も表そうとした造りが多いような気がしました。それだけの財力があるというのを墓所の造りでも具現するのがかの地の華僑の先祖供養の一つの方法なのかも。
サンチャゴ要塞敷地内の足型プレートは、はじめは何だろうと思いましたが、ホセ・リサールが収監されていた建物の所に出ていた説明を読んで、リサールが刑場に向かったLAST WALKの足取りだったと分かりました。そう気付いてから見てみると、その足型が続く道筋に異様な迫力を感じましたよ。まさに追体験をさせてくれる展示(?)でした。
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