2026/06/02 - 2026/06/02
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gianiさん
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福岡藩(筑豊炭田)と並んで、長州藩の宇部は17世紀から石炭採掘がおこなわれていました。記録の上だけでなく、藩政時代の炭坑跡を実際に見学できるのは、宇部だけかと思います。戦後まもなく閉山した炭鉱を含めて、のんびりと見学します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは宇部駅。山陽本線から宇部線へ乗り換えます。新山口こと小郡まで繋がる列車です。
宇部駅 駅
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戸籍上は山陽本線の支線なので、サニーカラー。
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床波駅で下車。
山陽本線は毎時運行、宇部線に至ってはデイタイムは毎時未満なので乗り継ぎも併せて時間がかかります。床波駅 駅
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駅前はこんな感じ。海(周防灘)がすぐそばです。
宇部市は防長に跨り、境界線が曖昧ゆえに、昔から境界論争が絶えませんでした。
※曖昧とは、大河/稜線/海といった歴然とした境界がないという意味です。 -
海岸には長生炭鉱追悼広場が。いきなりヘビーなスポット。
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長生炭鉱は中堅クラスの炭坑で、海底採炭を行っていました。宇部炭田の典型的特徴を背負っています。1942年2月4日、坑道に海水が浸入し、183名が溺死しました。
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長生坑の地図
東側から二坑/一坑/三坑と並んでいます。 -
追悼広場付近には、1882(M15)年に開坑した新浦炭鉱が存在しました。1921(T10)年の出水事故で33人の犠牲者を出します。川沿いの共同墓地には、慰霊碑が建ちます。この事故後、同炭鉱は隣の長生炭鉱に吸収され第二坑と呼ばれます。
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新浦会館の裏側には、坑口が僅かながら遺っています。
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川を挟んで反対側にも、墓地が広がります。
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墓地の隣の公園は、火葬場跡でした。
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その隣は合宿所。3棟ありました。
東側の合宿所は、四方を囲むような形でした。
長生炭鉱は人手不足に悩まされ、朝鮮人労働者を雇用します。過酷な労働環境から脱走を阻止するための「収容所」でもありました。 -
現存する建物は、当時の図に沿って建っています。
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サッシ/ガス等を取り付けて、住宅として生き残りました。
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海底炭田は、海底と坑道の間に十分な間隔を開けるよう法律で定められていましたが、戦時中は政府から厳しいノルマを課され、達成するために法律を破ったことが大きな要因です。
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戦時中の各炭鉱は無理を強いられましたが、長生炭鉱は、宇部炭田の中でも「ヤバい」炭鉱と認識され、日本人坑夫が集まらないブラックな側面も事故を誘発しました。
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事務所や社長社宅があったとされる場所には、不似合いな立派な門が遺ります。
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広場のようにゆったりとしたスペースです。
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倉庫や資材置き場もあったようです。
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廃坑になってから80年以上ですが、それなりの形で面影が残っているエリアです。
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1945年に廃坑となっています。
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コンクリート造りの倉庫には、
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トロッコ軌道が敷かれています。
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海岸通りからは、全く見えません。
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共同浴場/炭鉱長屋が続きましたが、道路に籔が迫り、何とか縦断できる状態でした。
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海岸を西に歩くと、坑口広場。実は、入口は裏側で数km迂回しないと入れません…
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海底に煙突のようなものが出ています。
ピーヤと呼ばれる通気口が沖へ伸びています。 -
海底へ通じる一坑の坑口です。二坑は買収ですが、一坑は自前で開発しました。
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日本の石炭は第三紀層に分布しますが、その上の海底第四紀層が5-10mの場合は第三紀層の上層40mの掘削は禁止されていました。しかし、浅部を坑道が通り、遂に海水が浸入します。
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余談ですが、山口宇部空港がすぐそば且つ進入路と重なっているので、飛行機の着陸を眺められます。28mmで撮影しているので、肉眼では3倍以上大きく見えます。
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通気口や坑口からダイバーが潜入して遺骨を探す事業が日韓の有志で行われていますが、今年ダイバーが事故死するなど、なかなか大変みたいです。
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1982年に作られた慰霊碑が横に建てられています。
犠牲者の完全な名簿が見つかったことで、徴用問題が明るみに出ました。ただ、長生炭鉱に限らず、「徴用」は政府の無理な増産要求に応えるべく全国の炭坑で当たり前に見られた事象で、危険な採炭を行い、起こるべくして起こした事故の犠牲者であることが特有の問題です。 -
坑口の後ろには、山の神が祀られます。
ケーブルカー方式のトロッコにボタを積み、巻上機で動かして廃棄しました。ボタが積み重なり、ボタ山となりました。 -
宇部線の線路沿いに、永らく巻上機の土台が遺っていました。
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選炭された石炭は、ピーヤ沿いに延びた埠頭にレールが敷かれ、船に直接積み込まれました。坑外図では沖のピーヤに斜めアプローチになっていますが、写真ではピーヤに沿って延びています。
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周りには、発掘されたものが並べられています。
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坑口のコンクリート片や、トロッコのレールも置かれています。
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インスタ映えのスポットだけあって、見ていて飽きません。
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そして、晴天の海が何とも言えない美しい色を醸し出します。
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正直、ピーヤとかどうでも良くなる自然の浄化力です。
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瀬戸内海だけあって、いろいろな貨物船が横断します。
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海岸を西へ進むと、
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炭層が海に露出しています。
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濃い色の薄い層が石炭で、薄めの堅い部分はボタです。
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戦後に護岸されたようですが、元々は長生炭鉱が防水堤を築いていました。
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向こうは、宇部空港の埋立地。滑走路延長で防長国境だった鍋島を削り、跡形もなくなっています。沖宇部炭鉱の跡地でもあります。
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こんな茂みへ潜入すると、
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コンクリートの筒らしき埋設物。
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第三坑の坑口です。
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入口に鉄格子が填められ、中へは入れません。
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茂みの裏側はこんな感じで、住宅が何軒か建ちます。巻上機台座等が建ちました。
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坑口から1kmほど内陸まで移動、八王子社沿いの山口宇部道路の跨線橋手前です。
こんな茂みに入ります。 -
トロッコ軌道が走ります。
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火薬庫がありました。
これで長生炭鉱スポット巡りは終了です。 -
ときわ湖水ホールを目指します。
ときわ湖水ホール 名所・史跡
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常盤池沿いの公園の周回路を歩きます。
山口県で最大の溜池で、1698年造成です。これだけ年数が経つと、自然と同化しています。常盤湖 自然・景勝地
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コースの脇に、落とし穴のような不自然な窪みがあります。
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菜の花畑から更に進むと、
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窪みに現場検証の鑑識用標識が現れます。
事故現場ではありません。 -
3-8番
3番は木漏れ日でライトアップ。
宇部炭鉱発祥の地という石碑から分かるように、石炭採掘のために掘った穴の跡なのでした。 -
全部で31までありました。
1698年に水没した部分からも多く見つかっているので、それ以前から採掘がおこなわれていたことになります。水田の下層に石炭層があることに農民が気付き、農閑期の副業としました。 -
炭生(たぶ)
3-7mの垂直な穴を掘り、周囲の石炭を採掘する原始的な方法です。炭が生まれる野原ということで、炭生野という地名があります。元々は家庭用燃料として採掘していましたが、18世紀後半に床波で塩田が操業すると塩釜の燃料として需要が増し、多くの炭生が掘られました。 -
こんな感じです。
2002年に安全のために、埋め戻されました。 -
29番は原型がとどめられています。
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穴の中。
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石炭の積出/排水
支点で支えられた横木をテコの原理を使って釣瓶を引き上げる「跳ね釣瓶」、3本の棒を三脚のように組んで三本が交わる頂部から滑車を吊るして釣瓶を引き上げる「かなまた」を用いましたが、7-9m引き上げるのが限界でした。 -
南蛮(なんば)車
木製の人力ウィンチで、大きな力を掛けられるので坑の深度は30mまで進歩しました。2つの滑車を通して、ロープを縦向きの力へ変えています。坑の上には櫓を建てて滑車を取り付けました。1840年に向田兄弟が発案/製作した宇部の発明品です。 -
大正時代の水田の光景
南蛮車は藁小屋の中で組み立てられ、野天では行いませんでした。 -
向こうに宇部自動車学校が見えます。
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丘の上の平らなスペース。
元はというと、 -
ソーラーパネルからお察しのように、かつては常盤炭鉱が操業していました。
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宇部炭鉱(1954)
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横の道路は、防長の国境です。常盤池は長門国/写真の左側は周防国です。
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UBE(旧宇部興産)の研究所もあります。
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東見初炭砿竪坑の櫓が見えると、
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石炭記念館です。
撮影と写真の使用に関しては厳しいですが、展示内容は素晴らしく、尚且つ無料です。石炭記念館 美術館・博物館
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