2026/04/29 - 2026/04/29
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スネフェルさん
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縁切寺の満徳寺にやってきました。
満徳寺に行ったのは徳川発祥の地を訪れたついでではありましたが、学びが多い場所でした。
寺自体は明治維新の時に廃寺になったようで、遺構しかありません。
資料館の方にいろいろと説明があり、縁切り寺に関して学ぶことができます。
資料館は説明文が中心で、学ぶ気が無い人にとっては全くつまらない内容ではありますが、興味がある人にとっては興味深い内容でした。
つまり、人を選びます。
尤も、縁切り(離婚)という、極めて俗人的な事象に興味を持つこと自体、普遍的ではありませんが。
この縁切り寺。
日本に二か所しかなかった、というのも驚きです。
離婚と言えば三行半ですが、三行半の説明等がなかったのはちょっと残念。
あくまで、三行半を出さない「夫」に対して、公権力を用いて「離縁」を強制するのが縁切り寺であった、とのことを理解できました。
ちなみに、三行半って、文字を書けない人(夫)が離縁状を書く時に用いたもので、長い棒を3本、半分の長さの棒を1本引いたら離縁状として用いる、ということからきているんですよね。
とはいえ、学校の歴史の教科書では詳しく語られることがない民衆史を学ぶ貴重な場でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
新田荘歴史資料館を後にして縁切り寺に向かいます。
道端に曰くのある地蔵が・・・ -
令和の米騒動の時に建てられたであろう看板。
ちなみに、米騒動が一服して一転、コメ余りになり、在庫を抱えて「売り渋った」問屋が在庫を抱えて「大損だ!」と顔出しでテレビに出てましたねぇ。
あの顔出しの問屋のオヤジを見た時に「いや、在庫あったのに値上がりを待っていて売り渋って、人様が困っているときに大儲けを決め込んでいたのに、当てが外れたのは自業自得でしょ?」って思ってしまいました。
「ナフサ不足で日本は2026年6月で終わり!」と喧伝し、パニックを煽ったTBSも、この令和の米騒動で売り渋り在庫を抱えて大損こいた米問屋と同じ末路をたどるでしょうねぇ。
結局、社会のまっとうな一員として生きてく、稼いでいくのであれば、他人を踏みつけて金儲けしちゃ、あかんのよ。
三方一両徳、じゃないとね。
まぁ、オールドメディアは他人の不幸、他人の血涙を利用して金儲けしているような悪魔のような連中だから、理解するのは無理か・・・ -
太田を抜けて伊勢崎に入ってしまいました
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と思ったら再び太田に。
市境と道は一致していないようです。 -
おお!
町名が「徳川町」!
なんとなく、テンションあがります(^^) -
駐車場エリアに到着
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縁切り寺の向かいの永徳寺も謂れがありそうなので行ってみます
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永徳寺の縁起
大同元年(806)に創建。
薬師如来の寺のようです。 -
寺標がなんともいい感じ
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永徳寺の本堂
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本堂脇には船が。
寄進されたものの様です。
この辺は輪中というか、道より船での移動が多かった地域なので、船が移動の中心でした。
でも、何故船を寄進したんだろう? -
本堂脇のお堂
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これh薬師如来?
それともただの地蔵? -
新田荘付近の観光案内板がありました。
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さて、縁切り寺に向かいます
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閉まってる?
と思ったら、入口は左から、のようです -
小道を進みます
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縁切り寺の「遺構」の案内図。
なるほど・・・
一度、失われたようです -
「かるた」の題材になているようです。
ってか、群馬の旧跡に行くと「かるた」が良く出てきます。
どんだけ「かるた」が好きなの、群馬県!? -
資料館の入口
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縁切りの「仕掛け」があるようです
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その仕掛けはなんと、「便器」!
和式ってのがいいですね。 -
縁切り装置はもう一つ。
言うまでもありませんが、縁切り以外で「使用」してはいけません -
この「装置」の名前は「縁切り厠」「縁結厠」と言うそうです。
白が縁切り、黒が縁結び、だそう。
縁切りが黒、と勝手に思い込んでいたけど、縁切りが白なのは「縁を切って真っ白にする」という意味なのかな? -
「縁切」の説明展示が続きます。
縁切り、という行為の性質上、派手な「御物」はありませんが、江戸時代の縁切り=離婚がどのような過程で進んだか、を学べてなかなか興味深い。
ちなみに、中世ヨーロッパでは離婚は「一切禁止」でした。
夫の暴力で耐えきれなくても離婚は禁止。
そのヨーロッパが今になって「ポリコレ」を主張して「ぼくのかんがえるさいきょうのせいぎ」を他人に押し付けようとする。
欧米白人はいつの時代も「傲慢」です
さて、関東では「縁切り」は「縁起が悪い」こと、と昔はされていた、との記事です。
その一方、関西では「縁切り」と「縁結び」は表裏の関係で、それほど縁起のわるいこととは考えられていなかった、とあります。
縁切りを祀るのが「欅」というのも面白い。
なぜ欅なんだろう? -
江戸時代の「離婚」に関する解説です。
夫からの離縁状である「三行半」の話は良く知られていますが、妻が婚家を飛び出す「飛び出し離婚」も認められていた、とあります。
三行半を夫が出さないと、縁切り寺に駆け込む、と脅して三行半を出させることもあったとか。
この縁切り寺の「権限」が大きかったことを物語るエピソードでしょう
これを「したたか」と言うかどうかはともかく、女性の権利が江戸時代でも一定程度認められていた、というのは日本の誇るべき歴史ではないでしょうか?
欧米では女性が殺されるまで「離婚」を選択することができなかったのですから。 -
寺役場の説明文ですが、「縁切寺法」というキーワードが出てきます。
寺役場では縁切寺法の説明と離婚の説得(復縁の場合と、離婚に応じる場合の双方)がされた、とあります。
現代でいうところの家庭裁判所ですね。
寺役場の他に「お腰かけ」という設備もあった、とあります。
これは妻の親が駆け込みの真意をただしたり、復縁を説得する場所であった、とあります。
法と第三者による説得。
江戸時代に日本では既に現代社会の雛形が形成されていたのですね -
寺役場の役割の解説。
寺役人は上段の畳の間に座す。
夫は土間に着座。
白洲を模したとありますが、確かに構図は白洲です。
白洲と異なる点は、夫を中心に名主や親類が一緒にいる点でしょう。
現代日本より「恥」の概念が強い江戸時代において、衆人環視の中、家庭内のことを赤裸々に語らされるのは、夫にとってかなりの苦痛だったことでしょう。
妻に不義密通などの落ち度が無ければ、寺社奉行の権威で夫に離婚を認めされた、とあります。
妻に「不義密通」がなければ「夫の落ち度」として強制的に離婚させた、というのがポイント。
縁切り寺に駆け込みさえできれば、女性にかなり有利な判決がでることが決まっているのが縁切り寺。
日本に二か所しか無いのが難ですが、女性の権利がかなり強力に認めていた、ということが分かります。 -
縁切り寺に駆け込んだ女性を駆け込み女と呼んだそうです。
髪の一部を切り落とし、読経や清掃(いわゆる奉仕活動)をして25か月、縁切りが認められるまで滞在した、とあります。
滞在費用は5~6両とあります
1両はコメ価格換算で4~5,5万円程度、とされるので、25か月の滞在で、凡そ20~30万円といったところでしょうか。
まとまった金が必要だったのは問題ですが、25か月という期間を考えると破格の安さでは? -
親族・親類の位置づけの説明文
駆け込みがあると女性の親類が呼び出しされたらしい。
当時の召喚だから、かなり強力な命令だったことは想像に難くありません。
親類の役割は内済離縁のため。
いわゆる「調停」の役割だったようです。 -
寺役宿とはなんだろうと思って読み進めると、基本的には離縁しようとする女性に宿を提供すること、支払いの代行、および調停の役割があった、とのこと。
農家が担っていた、とあるが、ボランティアのようなものだったのかな。
とはいえ、知らぬ土地で孤独と不安にさいなまれる女性にとって心強い味方であったことでしょう。
現代でもなかなか無い、細やかな配慮だと感じました。 -
夫の説明。
縁切り寺から召喚状が夫へ出た段階ではほとんど離縁は決まったも同然らしい。
夫が縁切り寺まで来るのは復縁を懇願する場合がほとんど、とあります。
とはあいえ、遠路はるばる縁切り寺まで来るのです。
復縁に応じる女性はほぼいなかったのでは? -
駆け込み寺のあった村の役人の役割が掛かれていますが、駆け込み女の届け出は、まぁ、理解できるにしても、召喚された親族や夫を連れてくる義務もあったとか。
遠方から駆け込む女性もいるはずなので、これはかなりの負担だったことでしょう。 -
寺役人は離婚の手続きの全責任があった、と記されています。
ここでは味馬手知る事実。
この寺、尼寺だったんですね。
尼寺ゆえ、駆け込み女の世話は寺役人の女房や親類が世話をした、とあります。
寺役人の棒禄の記載はありませんが、役職給は十分ではなかったのが当時の給料事情です。
あまりおいしい役職ではなかったことが推察されます。 -
寺役場の様子。
役人は畳の上で被告(夫)の取り調べをしたのでしょうが、意外とこじんまりとした部屋です。 -
縁切り寺法の決定フロー。
不受理の場合もあるのは当然にしても、どのようなケースで不受理になったのだろう? -
縁切り寺は本山も末寺も持たない唯一独立した寺だったようです。
-
縁切り寺法の決定の全フロー。
決定までにかなり長い期間がかかったことが分かります。 -
縁切り寺の解説
1758年が記録の残る最初の「駆け込み」であったらしい。
離婚を頑強に拒否する夫に対し、協力に命令する権限があった、とあります。 -
縁切り寺の寺格についての説明
新田氏ゆかりの寺であることと、千姫が入ったことで権威を高めた、とあります。 -
縁切り寺の意義に関して
ここで新しい用語。
寺社の治外法権をアジール、というらしい
縁切り寺の機能に関しては、家康の朱印(許可)にゆおり成立していた、とあります。
そりゃ、徳川幕府で、開祖・家康の権威に逆らえる庶民は皆無だったでしょうね。
強力な離婚の命令が出た、ということでしょう。 -
このキャラをあちこちで見かけたのですが、コレ、千姫だったんですね。
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アジール(寺社の治外法権)に関する説明
不法に泣く女性の離婚を成立させた、差別撤廃の原点と言える、とまで書いています。
単純にそう決めるものでは無いようにも感じます。
差別云々ということより「かわいそうなよね」という自然な感情に対し、縁切りの機能が設定されたのだ、という気もします。
なんせ、家康が千姫に対して「かわいそう」だと考えたことから成立したのが、縁切り寺の起源と機能なのですから。
差別云々以前を言い始めると、なんか、本質を見誤る気がします。 -
縁切り寺の遺構エリアに向かいます。
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客殿跡
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庫裡(復元)
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庫裡の脇には寺役場跡
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旧本堂
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外に出ます
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門から寺敷地を眺める
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縁切り寺の説明文
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寺標は経年劣化で一部文字が失われています
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義重夫婦の墓の標識を発見。
行ってみます。 -
道の先には田んぼしかない様に見えます・・・
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畑の中にポツンと東屋が
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東屋へのルートは石畳が敷かれていました
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新田義重の墓
意外と小さいです。
宝塔もあるようですが、どれが宝塔でどれが墓かイマイチわかりません -
新田義重の墓と徳川館跡の宝塔の解説文
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