2026/04/11 - 2026/04/11
39位(同エリア180件中)
松本伸雄さん
武田勝頼が背水の陣で築いた新城
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韮崎市民俗資料館でスタンプをいただきます
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新府城のジオラマ
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東出構 新府城は韮崎城ともいい、織田信長の甲斐侵攻に備えて、武田勝頼が築いた城
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いのししがミミズを食べた跡 新府城の築城が始まったのは、1581年(天正9)2月のこと。勝頼が配下の真田昌幸に普請を命じた
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どんぐりが沢山落ちています 武田信玄の死去によって勝頼が家督を継ぐが、2年後の長篠・設楽原の戦いで、武田軍は信長と徳川家康の連合軍に壊滅的な敗北を喫してしまう
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出構の上から 躑躅ヶ崎館は、堀が一重しかないが信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」を考えるならば、この居館でも十分であった
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搦手の堀 だが大敗の結果、家臣を失った勝頼には堅牢な城が必要になった
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西側の堀 勝頼は反対を押し切って築城を決めた
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堀 新府城は2月に着工。8ヶ月という超短期間で突貫工事を行い、12月24日には躑躅ヶ崎館からの移転が行われた
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新府城西側 釜無川に侵食された七里岩台地上に築かれた
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乾門枡形虎口跡 勝頼が入城した時点では、まだ城は未完成だったとされ、廃城に至るまで完成をみることはなかった
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井戸跡 翌1582年(天正10)1月に家臣の木曾義昌が謀反。家臣の穴山信君が織田方に内通していたことが分かり戦意を失い、3月3日、勝頼は在城60日という真新しい新府城に火をかけ、一族郎党とともに小山田信茂の居城岩殿山城を目指して落ちていった。
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本丸跡 このとき、昌幸は勝頼に上野の岩櫃城に退くことを進言したが、聞き入れられなかった
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武田勝頼公霊社 力を失い、家臣の心が離れていった武田氏は頼みの綱の信茂までにも裏切られる。退路を断たれた勝頼らは天目山へと向かい、ふもとの田野で自害。武田氏は滅亡した
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蔀(しとみ)の構 本丸と本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見透かせないように工夫したもの
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枡形から丸馬出方向 富士山が見えます
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枡形土塁
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南門から枡形
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三日月堀
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三日月堀から丸馬出を見上げる おわり
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