2026/03/10 - 2026/03/10
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gianiさん
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2026/03/10
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木屋瀬は九州初の政令指定都市としてスタート(1963年)する一方で、長閑さと藩政時代の情緒が残る不思議な街です。知る人ぞ知る穴場で、学べる史料館もあって、楽しい時間を過ごせます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、黒崎駅。
コムシティ1階にある黒崎歴史ふれあい館でお勉強。COM CITY 名所・史跡
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そのまま筑豊電鉄に乗車し、
黒崎駅前駅 駅
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木屋瀬駅で下車。
木屋瀬駅 駅
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駅向かいのサンリブ側には、豪華な案内看板が。
湖月堂 サンリブ木屋瀬店 グルメ・レストラン
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まずは、みちの郷土資料館で座学します。
北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館 美術館・博物館
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古代~
律令下では幹線道路から外れた田舎ですが、荘園制が発達すると東大寺系の観世音寺領が遠賀川流域に林立し、奈良(東大寺)へ納める年貢米の集積地として木屋瀬が発達します。当時九州産の米は「鎮西米」と呼ばれ、高級ブランドでした。 -
地名の由来
10世紀の文献には「木夜(こや)郷」という記述がみられ、平安末期には鎮西上人が明星寺を再興するための木材を調達する際に積載船が遡れる水深を確保できる地点(瀬)に貯木場(木屋:こや)を設置したことから「木屋瀬」になったと言われます。 -
中世
遠賀川流域は平氏の領地でしたが、鎌倉時代に北条氏の手に渡り、現地代理人として東国武士の麻生氏が管理します。麻生氏は足利尊氏に従い、領土を安堵されます。室町時代後期には、守護大名の大内氏(山口在住)が現地代理人として陶氏を筑前国守護代に任命し、木屋瀬に守護代が駐屯しました。 -
これまで木屋瀬は、遠賀川水運の要所として存在します。陸路については、九州縦貫道は秋月街道が担い、次いで福岡城下を経由する唐津街道/日田往還が利用されました。
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長崎街道の整備
関ヶ原の戦いの恩賞として福岡藩初代藩主となった黒田長政は、(防諜対策から)城下を他国の人々が往来することを嫌い、新たな九州縦貫ルートとして黒崎~山家間に新道を建設します。この時期のトレンドとして、最短距離で結ぶルートです。1611年に最大の難所冷水峠が開通することで完成します。 -
筑前六宿/木屋瀬宿
参勤交代は徳川家への忠誠の証として、幕府誕生後に自発的に発生し、1635年に制度化されると街道の交通は激増します。行列は小藩でも100名は下らず、薩摩藩は2000名に及びました。大名行列は、移動に可能な人足/宿舎を提供できるルートを選択するしかなく、長崎街道を通行するようになります。とりわけ福岡藩内の6つの宿場は交通量が多く、筑前六宿(むしゅく)として繁栄します。 -
筑前六宿は、小倉宿方向から黒崎/木屋瀬/飯塚/内野/山家/原田を指します。薩摩藩(90万石)をはじめとする15の大名家が通行する一大繁忙区間でした。大河を渡る必要もなく、確実性の高いルートでした(参勤交代では、江戸到着が期日から一日遅れるたびに億単位の違約金が発生しました)。
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唐津街道のバイパスとして
小倉と福岡城下を結ぶ唐津街道は、若松で洞海湾/芦屋で遠賀川河口を横断し、水難事故と大雨による川止めの影響を受けやすく、通行の大きな支障となりました。赤間から六反田を経て植木へ至り、対岸の木屋瀬を経由するバイパスルートが実用的で利用が増します。芦屋よりも上流なので、川止めのリスクも減少します。木屋瀬は唐津街道の需要も取り込み、交通量が更に増加します。写真は、植木~木屋瀬で使用された渡し船。 -
情報伝達経路
江戸と長崎を結ぶルート上でもあり、幕府に海外の最新技術や国際情勢を運ぶ重要な役割を果たしました。特に、東インド会社が毎年作成する「風説書」は、過去1年間の国際情勢報告書で、幕府で最重要のインテリジェンス活動でした。 -
文化の伝播
オランダ商館長の江戸参府や長崎貿易を通して、多くの輸入品が国内に拡がりました。一番多かったのは砂糖です。真っ先に入手できたのは長崎街道の宿場で、砂糖菓子が名産となります。 -
御茶屋(本陣)
御茶屋は藩主別邸、本陣は宿場内のVIP向け宿泊施設です。優先順位は、長崎奉行/諸大名/日田郡代の順番でした。長崎奉行は、遠国奉行筆頭の高級官僚でした(京都所司代/大坂城代は譜代大名が務めました)。写真は、非常時の避難経路図。裏門から出て、避難先は庄屋宅。 -
跡地からは黒田家の紋の入った瓦が発掘され、藩主別邸(御茶屋)であることが証明されました。福岡藩では、本陣は御茶屋が果たしていました。
木屋瀬宿は、1623-53年まで東蓮寺支藩(のちの直方支藩)の領地でした。筑前木屋瀬宿場まつり 祭り・イベント
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1980年の発掘調査の様子
宿場の中央、ちょうど「へ」の字に屈折する部分です。当時の絵図を見ると、左側が町茶屋(脇本陣)の長崎屋(92坪)、右側が町茶屋(脇本陣)の薩摩屋(64坪)と御茶屋(本陣157坪)でした。御茶屋の管理は、2軒の町茶屋に委任されました。長崎奉行/日田郡代(大名格)以外の旗本官僚は、町茶屋に宿泊しました。
※オランダ商館長一行は、長崎屋に宿泊するのが規則でした。 -
宿駅の運営制度
筑前六宿では、各宿場に代官を配置し、代官所では下役と呼ばれる世襲の地役人を従えました。
一方の宿方では問屋/年寄、村方では大庄屋/庄屋/組頭が宿村役人として宿場を運営します。
写真下の覚書は、大名行列の通過スケジュールが書かれています。参勤交代は時期が重なり、薩摩/柳川/久留米藩/長崎奉行などが列挙されています。 -
写真下は春の参勤交代に備えて柳川藩(10万石)の人馬方役人が、前年11月に出した覚書。植木から遠賀川を渡るために800人の人足確保を要請しています。当日の怪我人/病人を見越して、人数に余裕をもって準備してほしいと書いています。宿泊する場合は、一行の宿の手配も要請します。
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大名行列に先立って藩の宿割役/関札役が遣わされ、宿割の張り紙や関札を渡され、行列がスムーズに滞在できるようにします。写真は、松平肥前守(佐賀藩主)が宿泊する際に掲げられた関札。宿場の入口に掲げられ、通行人の目に留まるようにしました。出発時には、本陣に下げ渡されました。御跡小払役と御判留人が残って、宿賃を支払いました。
※本陣前に掲示されるのは、掛札(紙)です。 -
物流/旅客輸送は、隣の宿場までリレー方式で運ばれました。馬や人足/駕籠などは問屋場が提供し、料金は公定価格に基づいて設定されました。写真では、隣の黒崎宿までの人足賃/馬賃が規定されています。
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水運
遠賀川流域の物流の主役は川船による水運でした。最も重要な積荷は米で、流域で収穫された年貢米は、全て河口の芦屋まで川ひらたと呼ばれる平底船で運ばれ、芦屋から大坂まで運ばれました。18世紀からは石炭輸送も重要でした。芦屋からは、様々な生活用品が木屋瀬まで運ばれました。 -
川船の営業は藩から許された者だけが行え、木屋瀬宿では24艘が営業しました。特権と引き換えに運上銀(事業税)を納め、大名行列の渡河も担いました。宿場の裏側の舟場で積卸を行いました。船庄屋/船組頭の下で、営業しました。
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豪商の誕生
伊藤家は遠賀川水運で財を蓄え、藩の財政に貢献します。 -
朱印船貿易にも加わり、海外との貿易でも財を成します。写真は、伊藤家住宅の鬼瓦。
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伊藤小左衛門
初代は安土桃山時代末期に木屋瀬から分家し、博多商人として木屋瀬の鎮西米を売買します。一方で朱印船貿易にも携わって、外国船に銀を高利で融資する等、商才を発揮します。二代目は福岡藩へ鉄の供給ルートを開拓しましたが、密貿易が発覚し、1667年に処刑/取り潰されます。写真は、長崎奉行所での犯科帳。 -
高崎家
18世紀以降、藩で奨励された商品作物の一つ櫨蝋を扱うことで成長し、7代目で分家します。 -
写真は高崎家の分家柏新屋(カネ玉)の屋根瓦です。ちなみに本家柏屋は、カネ〆です。商品作物は遠賀川水運を経て藩外で売り捌かれ、藩の現金収入となりました。
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都市部では活動が活発化し、夜間も蝋燭を灯す習慣が定着し、蝋燭の需要が急増しました。蝋型には、屋号が入っています。
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醸造業
19世紀以降になると宿場の住民は、米よりも付加価値の高い酒造業(日本酒)を営んで財力を蓄えます。味噌/醤油製造も派生します。木屋瀬でも、鎮西米を原料とした「蝋梅」「若鶴」といったブランドの日本酒が製造されます。 -
写真は、1598年製の酒甕です。
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移動のスタイル
江戸時代は、時間を昼間と夜間に二分して、それぞれを6等分しました。夏季の昼間は長く、冬季は短くなります。宿場の門は夜明け(明六ツ)と共に開き、日没(暮六ツ)と共に閉ざされたので、事実上昼間しか移動できませんでした。ガイドブックのようなものを持ち歩き、日照時間と次の宿場までの距離を考えながら、一日の移動予定を立てました。 -
幕末
長崎街道を通してオランダ風説書が幕府へ届けられたことで、幕閣は黒船来航も予め知っていました。福岡藩も長崎街道や長崎警備を通して西洋事情やテクノロジーに明るかったにも拘らず、幕府へのしがらみで全体としては勤王派を迫害しました。第一次長州征伐では、木屋瀬周辺に佐賀藩が駐屯しました。写真は、藩主が村庄屋に贈った伊万里焼。 -
五卿の大宰府落ちの際は、木屋瀬宿の森口屋で昼食を摂り、三条実美が自分の箸を下賜しました。
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明治維新後
明治4年に小倉に次いで郵便局が設置され、交通/通信の要所であることが分かります。鉄道は博多経由で開通しますが、石炭産業の発展により1891年に長崎街道沿いに鉄道が開通することで、活況を呈します。芝居小屋も開業し、花嫁道具一式が揃う地域商業の中心地となり、1898年には町制が施行されます。 -
1917年には中島橋が架かり、対岸の植木と結ばれます。1901年の官営八幡製鉄所開業は、町域や筑豊の石炭産業発展を促します。1955年には旧八幡市と合併、1962年には九州初の政令指定都市(北九州市八幡区)の一部となりますが、地元の炭坑が閉山し、歴史の波から取り残されます。
では、宿場を実際に歩いてみます。 -
東構口
小倉側から進むと、岡森用水を渡る小さな橋があります。橋の先は木戸と練塀で閉ざされ、昼間のみ開門されました。 -
橋を渡った右側には、案内板があります。方角に関係なく、街道の起点側が東口になります。ここから宿場が900m続きます。
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このような宿場ムード溢れる光景が随所に見られます。宿場に入ってすぐに左方向へ屈折します。現在は旧道で、新道はR200が担っています。
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その先には、左側に伊藤洋服店。江戸前期豪商の伊藤家を連想させます。
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道幅も広くなったり、狭くなったりします。ここはノコギリ刃のような家屋配置になっており、有事は意図的に作られた陰に兵が潜んで防衛に当たりました。
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円筒型郵便ポストを右折して、街道を逸れると
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永源寺小路と呼ばれる趣のある小路。突き当りには、山門があります。
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永源寺
1523年に現在地へ移転。裏門は、明治3年の御茶屋廃止に伴い、御茶屋から移築されました。山門にぶつかったら左折して暫くするとあります。
裏門の先の大イチョウの木の横に、遠賀川水運を利用した舟場がありました。周辺の村からの年貢米集積したので、米場とも呼ばれます。明治の遠賀川改修工事で移転するまで、扇天満宮がありました。 -
長崎街道へ戻ると、伝統をアレンジしたお宅も。
宿場には、料理/家財付きの旅籠と、食材や備品を自分で準備する木賃宿が営業していました。 -
2軒隣の駐車場の壁は赤レンガ。
ここには郡屋がありました。鞍手郡内の村役人と藩役人が打ち合わせをする集会所で、郡屋守が建物を管理しました。打ち合わせ内容は、年貢/大名行列/普請等でした。 -
後ろを振り返ると、こんな感じです。
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そのまま進むと、左へ折れ曲がっています。
手前には、地元酒蔵若鶴の看板が見えます。
曲がり角の左側は問屋場跡、右側は御茶屋と町茶屋跡です。 -
問屋場跡
人馬継/飛脚/荷物を取り扱う物流拠点。常備馬は25頭でした。野口家が業務に携わり、明治4年には小倉に次いで開かれた郵便取扱所となります。
宿場の道幅は5mですが、問屋場周辺は7.5mに拡幅され、荷物の積み下ろし等に便利な広さを確保していました。大名行列等に対応する際は、助郷として近隣2郡の村々が負担しました。 -
問屋場跡向かいの郷土資料館の建物の部分は、手前より御茶屋/長崎屋(町茶屋 中村家)/曲がり角には薩摩屋(町茶屋 石橋家)が並んでいました。ここは、宿場内でも一番標高が高く、水害に強い場所です。長崎屋/薩摩屋の主人が御茶屋守を務めました。
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街道を進むと、
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御茶屋跡には、大名井戸と呼ばれる井戸の構築物も遺っています。
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左奥には、長徳寺。平安時代の開基で荒廃しますが、博多の豪商2代目伊藤小左衛門が1669年に再興します。
第二次長州征討の際は、佐賀藩の本陣が置かれました。木屋瀬宿は、佐賀藩とのかかわりも深いです。 -
街道は、中島橋に通じる県道を横断します。この辺りは、江戸初期豪商の伊藤家が建っていました。
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県道を横断すると直ぐ右手に日経の看板が見えたら、左折します。
代官小路を1分ほど歩くと、 -
代官所跡
地域を治めるために藩主に代わって派遣された官僚で、世襲職で代官所内に屋敷を持つ下代を3名程従えていました。業務は第一に年貢の恙なき徴収で、次いで普請(土木工事)役の人材調達です。宿場では大名行列が恙なく通過できるよう見届ける任務が伴いました。
福岡藩は1757年に領内の代官職を廃しましたが、筑前六宿だけは明治維新まで残りました。現在は、足元に石垣がわずかに残っています。 -
代官小路を引き返し、例の看板が見えたら左折して長崎街道へ戻ります。
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右手に江戸末期築の伝統家屋が現れます。
船庄屋を務めた梅本家です。
木屋瀬宿には、職務に応じて宿庄屋/村庄屋/船庄屋が置かれ、庄屋職は交代制で務めました。 -
船庄屋は、遠賀川水運を独占した船頭たちを管理する職で、木屋瀬では24艘でした。江戸末期には、梅本家と中村家(町茶屋長崎屋主人/御茶屋守と兼任)が割り当てられました。
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声をかけると、中を見させてもらえます。狭い間口/奥へ続く典型的な町屋的間取りで、河岸まで敷地が続いています。二階には船底天井(後述)の部屋もあるそうです。
年貢米に関わる利権を活用して酒造業に進出し、明治には醤油製造といった醸造業へ進出し、油屋ヤマシタ(山下)という屋号を用いました。 -
梅本家の2軒隣には、護国院が建ちます。
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愛宕山護国院
現在は小さな祠のみですが、藩政時には立派なお堂が立ち並びました。当院に奉納された幕末の宿場の様子を描いた絵馬は、文化財に指定されています。 -
絵馬を見ると、護国院の境内が立派なのが分かります。
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斜め向かいには、長野家。1906年築です。
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斜め向かいは、江戸後期の豪商高崎家の住宅(1835年築)。
2階の窓から、お内裏様とお雛様が顔を出しています。内部は一般公開されています。 -
屋号のカネ玉のマークが瓦に入っています。
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川沿いなので、地面の湿気が建物に伝わらないよう土台石を敷いています。
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通り土間が裏庭まで続いています。土間に沿って表の間/中の間/奥の間と店舗スペースが展開されます。
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奥の間
3つある階段のうち最初に設置されたものは箱階段と呼ばれ、階段の下も箪笥として使用することで、スペースを有効に使っています。奥の間の左斜め奥は奥座敷で、中庭に面しています。 -
中庭に面して、蔵が5棟建っていました。写真は、二の蔵の跡で、土台の石組が残っています。茂みの先は遠賀川の土手でした。
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二階の天井は、船を逆さにしたような様式で、船底天井と呼ばれます。北欧系(バイキングの子孫)の木造民家にも共通してみられる様式なのが興味深いです。
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街道沿いには、手前から表の間(商店スペース)/次の間/座敷が配置されています。
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大戸口は吊り戸となっていて、荷車等が店内へ乗り入れられるよう配慮されているところが、商店らしいところです(引き戸だと人の出入りがやっとの間口です)。表の間の上半分も吊り戸になっています。
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表の間は下が摺り上げ戸(溝に沿って板を填める)、上が吊り戸になっています。こうして、表の間全体が街道から見えるように工夫しています。営業時間帯は、商品などを陳列してショーケースの役割を果たしました。
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奥まで見渡せる開放的な空間が実現されます。
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さらに進むと、松尾家(1844年築)が現れます。質屋が家業で屋号は灰屋マルマツ(〇松)、19世紀初頭には問屋を営んでいましたが、二代目が人馬支配役に栄転、問屋の身ヶ〆/後見役を経て、1853年以降は、村庄屋/船庄屋を兼務します。
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3代目は1858年に村庄屋、1861年に笹田村庄屋も兼任、1867年には船庄屋も兼任します。1870年の新制度に伴い、木屋瀬村の戸長(後の村長)を務め、奥座敷を村役場とし提供します。
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妙運寺(日蓮宗)
松尾家の反対側、岡森用水沿いに本堂があります。宿場の格を上げるべく、四宗入用のもと1662年に誘致されました。浄土/曹洞/浄土真宗の三宗は既に立地していました。 -
宿場の終点が見えました。
改装時に景観を配慮したリノベをしているお宅が多く、経年美化した未来も楽しみです。 -
西構口
宿場の終点です。オリジナルの石垣が遺っており、史跡としての価値が評価されています。この上に練塀が築かれていました。 -
石垣が延々と残っています。飯塚口には、木戸は無かったそうです。
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西構口を出て右折すると、植木/赤間/福岡へ通じる赤間道が分岐します。分岐点は追分と呼ばれ、道標が設置されました。
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木屋瀬資料館には、オリジナルが展示されています。右が赤間道、左が飯塚道(長崎街道)と彫られています。飯塚宿までは4里30丁(約19km)です。
※1里=36丁(町)/1丁=60間 -
元文三年建之と刻まれ、1738年の年代物です。
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飯塚方面には、福岡生コン八幡工場が両側に建ちます。
左側には、岡森用水が並行します。 -
赤間道を進みます。
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坂を上り切ると、右側に1715年創建の興玉神社が建ちます。1934年までは石祠でした。旅の安全を守る猿田彦神が祀られています。興(おき)は沖にも通じ、遠賀川水運の安全を祈ったとされます。
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興玉神社横から、遠賀川の渡し舟が出ていました。渡賃は、平時/増水時/洪水時の3段階に分かれていました。
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水深2m川幅91mの遠賀川を船で渡り、
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中の島(中洲)を歩いて、川幅12mの犬鳴川を渡りました。
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橋の下流側
直ぐ先で犬鳴川が遠賀川へ合流しているのが見えます。その先は、高速道路と新幹線の橋。今も交通の要です(但し素通り)。 -
往時の姿
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直方市に突入し赤間道を進むと、遠賀川左岸で重要な水路山田川用水を渡ります。
植木は、往時の面影が全く残っていませんでした。 -
駅に到着。築100年以上の駅舎です。
筑前植木駅 駅
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待合室がレトロ
筑豊本線は、若松と原田を結んでいます。遠賀川水運は明治維新後も盤石でしたが、石炭需要で1000艘以上が連なる深刻な渋滞と運賃高騰が問題となります。1891年に開業した筑豊興業鉄道(現JR福北ゆたか線)にシェアを奪われ、昭和には姿を消します。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11859723
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