2026/03/13 - 2026/03/13
1701位(同エリア1862件中)
松本伸雄さん
勇将清水宗治が守るも水攻めで開城
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バス駐車場は高松城三の丸です。備中高松城は、足守川の自然堤防を曲輪とし、それを取り巻く沼地を堀として利用した平城である。
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秀吉本陣は石井山です
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上は1985年の大雨時の写真。今でも高松城周辺は水没します。下は水が引いたとき
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昭和57年に岡山市が歴史公園造成計画によって沼の復元をした。古来本丸と二の丸の間に蓮池の地名が残されており、沼の復元によって自然に生えた
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二の丸から本丸への橋
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夏には、宗治蓮が咲き乱れます
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ハス池。石垣を用いず土だけで築造されており、各曲輪とも周囲を堀で囲まれている。本丸からほかの曲輪、また城から外に通じる道は数少なく、途中の橋を落とせば、敵は攻め入れない。
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宗治の辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」
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首塚は、石井山にあったが、明治になって本丸に移された。歯が埋めてあるみたい
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清水宗治の切腹の後、家臣が舟で城へ返して主君の遺体を城内に埋めたので、胴塚という
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鬼ノ城方向
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築城したのは、備中松山城主三村元親の武将石川久孝。時期は永禄年間(1558~70)と伝わる。
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毛利方が信長の死を知ったのは、切腹の直後だった。吉川元春は、「信長が死んだ以上、講和を破棄して秀吉を攻めよう」と主張したが、弟の小早川隆景は、「誓書をとりかわした墨が乾かないうちに講和を破棄するわけにはいかない」と譲らず、結局、毛利勢は撤退していくことになった。
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本丸の高さ7.0m 築堤高8.4m
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木のあるところが、ごうやぶ。清水宗治の切腹の前に、月清入道の馬の口取の与十郎と、宗治の草履取りの七郎次郎が「私たちもお供する」と二人で刺し違えた場所。ベンガラの鳥居は、最上神社です
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清水宗治が切腹した場所は、高松城の東にある寺の一番奥。6月4日、秀吉の用意した小舟に、兄の月清入道などと乗り込み、「誓願寺」を舞った後に辞世の句を詠んで切腹した
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