2025/12/17 - 2025/12/19
13562位(同エリア47067件中)
魚屋No1さん
- 魚屋No1さんTOP
- 旅行記70冊
- クチコミ45件
- Q&A回答219件
- 125,072アクセス
- フォロワー20人
上七軒の軒先にチョコナンと乗っていた鍾馗様です。可愛いし、この日に目にした3体目でもあるので、帰宅後に由来を調べてみました。
すると、軒先に鍾馗様を飾るのは、京都を中心に、奈良、滋賀、三重、愛知などで行われている魔除けの風習だと判りました。東戎の私は初めて知りましたが、様々な形の鍾馗さんがあるそうなので、次回の京都旅は、鍾馗さん探しをテーマの一つに加えることにします。
今回の旅行は、暮れに亡くなった母の供養にと、弟が企画してくれました。ただ、彼とは好みが全く違います。いつもの私の旅行とは別の経験を得られることを期待して、完全におんぶに抱っこしました。その中で一つだけ希望を出したのは、北野天満宮へお参りすることです。というのも、孫が高校受験なので、合格祈願をしたいためです。
なお、京都は外人だらけだと言いますが、今回と2023年の経験で判断すると、混んでいるのは清水、祇園、嵐山等の超有名観光地だけです。もっとも、これらの場所は尋常じゃない込み具合でしたが、それ以外は日本人ですらさほど多くないので、場所を選べば快適な京都を楽しめるはずです。京都がどこもかしこも混んでいるというのは、マスコミの煽りすぎだと思いますよ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
乗車したのは、東京10時ちょうど発、のぞみ231号、新大阪行きです。
富士山がよく見えるようになったのは、富士駅(10時50分頃)を通過してからでした。 -
12時15分、京都駅着。
京都で最初の昼食は、三十三間堂前の「わらじや」です。今回の旅行で行った唯一の有名店でした。しかも、食べたのは、この店で最も安い「うそふすいランチセット」4500円(税込み)です。 -
「わらじや」は、七条通りに面しています。
交差点の先は三十三間堂と京都国立博物館なのに、人気が少なくて驚きました。 -
抹茶と和三盆で作った干菓子です
店のホームページには「太閤秀吉の馬印である「千成瓢箪」をモチーフにした和三盆を、老舗京菓子店・亀屋良長さんに古くからお造りいただき、お抹茶とともにお召し上がりいただいてまいりました」とあります。 -
突き出しと店の口上です。口上は読めませんでしたが。
-
こんな雰囲気の庭を見ながら料理が出てくるのを待ちます。
-
これも庭。
店のホームページには、太閤秀吉が、方広寺の大仏殿建立の様子を見に来るごとに、この家で草鞋をお脱ぎになられるので「わらじや」と呼ばれるようになったと伝えられていますとあります。しかし、創業年については言及していません。
そこで調べたところ、いくつかのブログが、創業年を1624年(元和10年か寛永元年)と書いていました。しかし、方広寺の造営も秀吉の死亡も、1598年です。そのため、秀吉が立ち寄った時代は別の商売だったのでしょうね。料理とは無縁のお話ですが、ちょっと気になりました。 -
こっちはトイレ方面。
雪隠と言った方が雰囲気に合いますね -
4人前のうぞうすいと、突き出し、漬物です。
旨かったです。 -
これは、最後に出てきた水物とお茶。
-
腹を満たしたら、三十三間堂の拝観です。拝観料は大人600円。
三十三間堂は通称です。建物の正式名は「蓮華王院本堂」という仏堂で、現在は、近傍にある天台宗の南叡山・妙法院が所有しています。
しかし、創建時は、後白河上皇が院政を行うために建設した「法住寺殿」という寺院様式の宮殿に付属する仏堂として、平清盛が建てて長寛2年(1164)に寄進した建物でした。千躯以上の仏様を擁する三十三間堂の建設には多大な費用が掛かったはずなので、その所有者を変えるには相当な理由があったはずです。
面白そうなのでチョイと追いかけてみたら、後白河法皇を始めとした天皇家と公卿の権勢欲、平安末期の有名な騒乱の保元の乱や平治元の乱、平氏の栄枯盛衰、源氏の台頭、秀吉嫌いの家康のあてつけ等、平安末期から江戸初期までの間の政争が極めて濃厚に係る長文のメモが出来上がってしまいました。旅行記にはふさわしくないほどの長さなのですが、放り出すにはもったいないので、旅行記に載せられるようにと三十三間堂に係る部分だけに短くしてみました。それでも、写真1枚には収まらない長さなので、次の写真から数分割して記します。 -
観光バスが1台も停まっていません。日本人相手のツアーはコロナ以前の2倍に値上がりしている、習近平が日本への渡航を自粛せよと指示しているなどで、団体旅行が成り立たなくなっているためなのでしょうかね。
○蓮華王院・三十三間堂の研究―1 建設まで
・永暦2年(1161年)頃、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)を経て院政を確立した後白河上皇は、五重塔なども擁した寺院様式の御殿の「法住寺殿」を建設する。理由は、居住していた三条殿が平治の乱で焼けたためで、建設地は、長元5年(1032年)に焼失した法住寺と平治の乱で殺された藤原通憲(信西)の屋敷の跡。その敷地は、現在の七条通りの南側に建つ三十三間堂、ハイアットリージェンシー京都、法住寺、養源院、通りの北側に建つ京都国立博物館、豊国神社、方広寺、ホテルのシックスセンシズ京都が全て含まれるほど広大だった。
・長寛2年(1164)、平清盛は、蓮華王院御堂(三十三間堂)を造営した上、収入源となる荘園を付けて寄進した。 -
国宝の本堂です。
○蓮華王院・三十三間堂の研究―2 院政⇒平氏⇒源氏の鎌倉幕府へ
・嘉応元年(1169)、後白河上皇は出家して法皇になる。その際、比叡山にあった妙法院を綾小路小坂(現八坂神社の南西)へ移転し、寺領を持つ法住寺(出家したから宮殿ではなくなった?)と新日吉社を末寺にして運営財源を確保させる。
・治承5年(1181)、平清盛が死亡。
・文治元年(1185)、壇ノ浦で平家滅亡。朝廷は「文治の勅許」で、源頼朝に全国の守護・地頭職の設置・任免権を与える。*新しい鎌倉時代
・建久3年(1192)、源頼朝は征夷大将軍に任じられる。
*「いいくにつくろう鎌倉幕府」で覚えた従来の鎌倉時代の始まり
・建久3年(1192)、後白河法王が崩御。法住寺の法華堂(現在は宮内庁管理の後白河天皇 法住寺陵)に葬られる。 -
この石段の先に、ご本尊がおわします。
○蓮華王院・三十三間堂の研究―3 鎌倉時代の焼失、再建、秀吉
・建長元年(1249)、法住寺は、建長の大火で三十三間堂を含めて焼失したが、千躯の千手観音立像のうち124躯だけは救出できた。
・文永3年(1266)、後嵯峨上皇が三十三間堂だけを再建。そのため、現在の本尊の千手観音坐像は湛慶(運慶の長男)の作。8百余の千手観音立像と28部衆も同時代の慶派(奈良)、円派(京都)、院派(京都)などの主要仏師達の作。
・永享5年(1433)、第6代将軍足利義教は、5年かけて建物や仏像の修復を行う。
・文禄4年(1595)、豊臣秀吉が方広寺を造営。妙法院、法住寺、三十三間堂を方広寺の末寺にして、これらの寺領を方広寺の運営財源にする。
・慶長3年(1598)、秀吉が死亡。秀吉の遺言で、阿弥陀ヶ峰西麓(現東山区今熊野北日吉町)へ墓所の豊国廟と豊国神社を建設する。東大路通りの東側にあるフォーシーズンズホテル京都、妙法院門跡、京都女子大、智積院などは、当時の境内の跡地に建っている(Googleマップだと判り易い)。 -
ウイキで見つけた、江戸時代の三十三間堂です。 左隣が方広寺。
*花洛一覧図:京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
絵には、方広寺と三十三間堂の正面に道路と鴨川にかかる橋がそれぞれに見えます。しかし、七条通りは存在しません。理由は、七条通りが、明治末~大正初にかけて実施された京都市三大事業(第二琵琶湖疏水、上水道、道路拡築と市電敷設)の一環で新設された道路のためです。その際、事業に影響しない方広寺前の道路と橋は正面通りとして残したのでしょうが、三十三間堂の方は邪魔になったのだと考えられます。
○蓮華王院・三十三間堂の研究―4 家康
・元和元年(1615)、大坂の陣の後、徳川家は豊国神社を廃して、祇園の南にあった妙法院を参道(女坂)の北側の現在地へ移転した上、方広寺、法住寺、三十三間堂、新日吉社を妙法院の末寺にする。なお、参道の南側は智積院に与えた。
*豊国廟と豊国神社は、北政所(ねね、高台院)の願いで破却されな
かったが、修理を禁じられたため廃墟に。
*豊国廟からは、明治に補修した際に秀吉の遺骸が発見されている。
*豊国神社の方は、明治天皇の勅命で旧方広寺の跡地に再建した。
・江戸時代、三十三間堂は、天明の大火、方広寺が落雷で焼失など、何回も大火に会うが、焼失を免れて現在に至る。 -
三十三間堂のホームページから借りてきた写真です。
安置されている、木造千手観音坐像(附:木造天蓋)、木造風神・雷神像 木造二十八部衆立像 木造千手観音立像(1,001躯)は全て国宝です。
堂内は、ご本尊の千手観音坐像の左右に各500躯の千手観音立像を10段に配置し、拝観者と同じ高さの最前列に風神・雷神像と二十八部衆立像を置いています。そして、千手観音立像の1躯は、本尊の背後にあります。
壮観でしたが、多すぎます。そのため、印象に残っているのは、最前列の木造風神・雷神像と二十八部衆立像くらいでした。 -
次に向かったのは智積院です。
この寺で最も有名なのは、長谷川等伯・久蔵父子が描いた国宝の障壁画です。そのためか、拝観券は等伯らの図柄です。
現在の智積院は、三十三間堂の処でも書いたように慶長20年(1615)に家康が廃絶した豊国神社の参道の南側に建っています。そこには、3歳で死去した鶴松(棄丸)の菩提を弔う為に秀吉が造営した「祥雲寺」があり、長谷川等伯一派の絵は、その客殿に描かれていました。
その客殿は、天和2年(1682)に全焼しますが、障壁画の大部分は助け出され、表装を改めて現在に伝わっています。でも残念なことに、この絵は私の好みではなく、長居はしませんでした。 -
智積院でもう一つ有名なのは、国の名勝に指定されている庭園です。
山は「廬山」に、池は「長江」に見立てた意匠だそうです。
石橋より奥は、秀吉が建てた祥雲寺の時代に造られたもので、滝の落ちる正面は江戸時代に修築されたものだそうです。
写真は石橋より奥を映したつもりですが自信はありません。 -
この石橋が、秀吉と江戸の境だと思います。
智積院の起源は、紀伊国根来にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭で、その歴史は以下のとおりです。
・天正13年(1585)、秀吉の根来攻めの前、当時の住職だった玄宥と所属の僧侶は高野山へ逃れる。
・慶長6年(1601)、関ケ原の戦いの翌年、家康は、高野山に寄寓していた玄宥に豊国神社の付属寺院を与えて智積院を再興させる。
・元和元年(1615)、大坂の陣の後、徳川家は豊国神社を廃し、秀吉が建てた祥雲寺を智積院に与える。等伯らの絵は、祥雲寺の客殿の障壁画。
・天和2年(1682)、火災で客殿も全焼するが、障壁画の大部分は焼失を免れる。
・江戸時代以降、何度も火災にあったため、主要な建物は戦後のもの。 -
1泊目の宿は、ホテルギンモンド京都です(写真は翌朝)。
地下鉄烏丸御池駅から徒歩2分で、御池通りに面しています。約20㎡のツイン、朝食付き、12月:1万6千円ほどのビジネスホテルです。
近くには、応仁の乱の前年の寛正6年(1465)に創業した本家尾張屋という、私のお気に入りの蕎麦屋がありました。しかし、2026年に廃業してしまいました。老舗中の老舗が廃業するのは、実に残念なことです。 -
夜は、裏寺町通りの居酒屋で一杯です。
-
弟が自慢するディープな居酒屋です。
関東の居酒屋には無いメニューもあり、楽しめました。 -
2日目の朝です
ホテルギンモンド京都の朝食会場は、1階のダニエルズアルバ(洋食)です。 -
その朝食。ワンプレートでした。普通に美味しかったですよ。
コーヒーが京都風のミルクと砂糖入りだったら、私の評価は最高になったはずですがね。 -
ホテルギンモンド京都の隣は、御所八幡宮という神社でした。ホテルの隣にあるのは何かの縁と思って、この旅の安全を願ってお参りしました。
御所八幡宮という名前は、弘安元年(1278)に二条内裏が焼失した際、後宇多天皇がこの地にあった中院通成邸を仮の御所にしたことに由来するそうです。
旧社格は村社。祭神は三韓征伐がらみの応神天皇と神功皇后に比売神(ひめがみ)。比売神は、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すのだそうです。 -
本日は朝一で「北野天満宮」へ行きます。
乗車場所は、御所八幡宮の少し先にある堺町御池バス停で、京都市営バス・51号・立命館大学行きへ乗ります。
バスは、直ぐに右折して、御所の西側にある烏丸通りを上がり、今出川通りで左折します。下車は今出川通りにある北野天満宮前です。 -
北野天満宮前のバス停です。
-
バス停の向かいに見えるのは、北野天満宮の一の鳥居です。
表紙にも書いたように、本日最初の参拝場所を此処に選んだのは、来年の春に高校受験を迎える孫の合格祈願のためです。
◎2026年3月:天神様の御利益で希望の高校に無事合格しました。 -
北野天満宮前の直ぐ近くの「とようけ茶屋」という豆腐料理屋さんの軒先に、瓦製の小さな人形がチョコンと載っているのを見つけました。
これが、表紙の写真に使った軒先の鍾馗様を意識した最初です。
なお、このお店は、豆腐屋さんの「とようけ屋山本 本店」の飲食店部門です。湯葉御膳、奴御膳が2千円以下、丼ものは1500円以下とリーズナブルなので、お礼参りの時はこの店に寄ることにします。 -
写真は、参道上にある最初の建物の「楼門」です。
参詣者は、昨日の三十三間堂付近と同じように多くありません。
さて、北野天満宮ですが、此処は太宰府天満宮と共に、全国に約1万2千社ある主祭神が菅原道真の天満宮、天神社、菅原社等の総本社です。
それぞれの創建年や社格は以下のとおりです。
・大宰府天満宮:延喜19年(919)、旧官幣中社、別表神社、
・北野天満宮:天暦元年(947)、二十二社(下八社)、旧官幣中社、別表神社 -
楼門を通過した後、何となく真っ直ぐ歩いていたら本殿の脇に出てしまいました。
現在の本殿は、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行に任じて再建させたもので、建物関係の文化財は以下のとおりです。
・国宝:本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟
・重文:廻廊、三光門(勅額「天満宮」は後西天皇の宸筆)、透塀、後門、東門 -
案内図は、天満宮のホームページからもらったものですが、本来の参道は、楼門を通過後に左へ行く道でした。
北野天満宮は、天暦元年(947)の創建ですが、元年(1444)に起きた「文安の麹騒動」で室町幕府に社殿を焼き払われています。
文安の麹騒動は、北野社(現北野天満宮)を拠点にしていた味噌、酒などの醸造に必須の「麹」の独占販売権を持つ「座」が、その権利を制限しようとした室町幕府に対して起こした暴動です。
焼失してから、秀吉が1607年に再建するまでの記録は全く見つかりません。しかし、天正15年(1587)に秀吉が境内で「北野大茶湯」を催しています。そのため、現在ほどの豪華さではないでしょうが、それなりの社殿が存在したと考えられます。また、秀吉が再建したきっかけも明らかではありませんが、「北野大茶湯」の開催場所のお礼だとすれば、大外れではないと思います。 -
御本殿の前に植わっている木は「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」という道真の和歌で有名な天神様を代表する「飛梅」です。
北野天満宮のホームページには、「飛梅は、菅原道真公が自邸の紅梅殿で丹精込めて育てた「紅梅」で、境内に数ある梅の中で御神前に植えられることを許された唯一の梅」とあります。
しかし、飛梅伝説は、京都の屋敷に植わっていた梅が、道真を慕って太宰府まで飛んで行った話です。もっと具体的に説明すると、京都の屋敷の桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを悲しんで枯れた。同じ庭木でも梅と松は、道真の後を追って飛んだが、松は途中で墜落、梅は大宰府まで飛んで降り立ったという話です。しかも、大宰府の梅は、白い八重咲の「色玉垣」という品種の白梅です。
なので、本来の飛梅は大宰府に現存する白梅で、北野の紅梅は、道真を追いかけて行かなかった不忠義な木ということになります。この辺りのことについて北野は書いていませんが、梅干しにできる大きな実が成るのは白梅、紅梅の実は小さくて苦い上に堅く、食用に適さないというのは、この忠義度に由来しているのでしょうかね。 -
国宝の御本殿です。
○天満宮の由来
大宰府天満宮は、左大臣藤原時平の讒言を受けて昌泰4年(901)に大宰府へ左遷され、延喜3年(903)に現地で憤死した菅原道真の怨霊を鎮めるために創建されました。
理由は、道真の死後、都に疫病や異常気象が頻発する、讒言した左大臣藤原時平が、延喜9年(909)に39歳の若さで死ぬなどの異変が起き、これら全てが道真の祟りだとする噂が広まったためです。道真の左遷には、朝廷も後ろめたさを感じていたのでしょう。左遷を命じた醍醐天皇は、道真の墓の上に社殿を造営するよう、左大臣・藤原仲平に慌てて勅命しました。竣工は、延喜19年(919)です。
ただし、太宰府天満宮の現在の社殿は安土桃山以降のものです。 -
本殿の後ろにある摂社の建物です。前には梅が多数植わっています。
○天満宮に関する続きのお話
大宰府に天満宮を造営しても、皇太子の保明親王が延喜23年(923)に21歳で死去するなどの不幸が天皇家を襲います。
これも道真の祟だと慌てた朝廷は、同年に道真の左遷を撤回して右大臣に官位を復した上、更に正二位を贈ったものの、
・保明親王の3歳の遺児の慶頼王を皇太子に立てたが2年後に死亡、
・延長8年(930)6月、醍醐天皇と貴族が居並ぶ清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貫と右中弁兼内蔵頭の平希世が死ぬ。衝撃を受けた醍醐天皇も床に伏せ、9月には朱雀天皇に譲位するも直後に崩御。
・承平元年(931)には、道真を登用したのに左遷を防げなかった宇多法皇も崩御するなど、災厄が立て続けに朝廷を襲います。
これらの出来事も全て道真の怨霊だとされたため、太政大臣を追贈するなどの措置に加え、天暦元年(947)には、複数の者から神託があったという北野の地に天満宮を創建しました。これでやっと、道真の怨霊の跳梁は止んだそうです。以上が、天満宮の由緒です。 -
写真は、約350本のモミジの並木があるという「史跡・御土居もみじ苑」の入口です。秋の名所なので期待していたのですが、公開は終わっていました。残念。
御土居は、天下統一を遂げた豊臣秀吉が、戦乱で荒れ果てた京都を復興するための再開発事業として、外敵の来襲に備える防塁と鴨川の氾濫から市街を守る堤防を兼ねて天正19年(1591)に建設しました。 -
それでも、御土居の入口には、きれいなモミジが残っていました。
御土居は、東が鴨川,西が北野天満宮の西を流れる天神川、北が鷹ヶ峯付近、南が九条付近を結んだ線上に築かれた総延長約22.5kmに及ぶ長大な土塁と堀です。
御土居の内側を洛中,外側を洛外と呼び、七口という洛中外との出入口を設置しました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。
御土居は、人口が増加して市街地が広がった江戸時代に次々と取り壊されたものの、天神川の土手にもなっている北野天満宮付近の部分は残り、現在に伝わっているとのことです。 -
絵馬堂です。
-
絵馬堂の前から三光門の方を見たら、着物を着た芸妓さんらしい後ろ姿が見えました。
-
紅梅殿の前です。髷が地毛のようなので、舞妓さんかもしれませんね。
正月用の写真でも撮っていたのか、近くに撮影機材がありました。ともあれ、眼福でありました。 -
孫の学業成就は十二分にお願いしたし、お守りも入手しました。
用事は済ませたので、東門から「上七軒」を経由して、「千本釈迦堂」とも呼ばれている「大報恩寺」へ向かいます。この寺には、洛中最古だという安貞1年(1227)建設の国宝の本堂、やはり国宝の六観音菩薩像と重文の仏様を多数所蔵しています。それに加えて、おかめの物語や、12月の風物詩になっている大根焚きでも有名です。 -
上七軒の入口で「やきもち」の大きな看板と暖簾がかかっている和菓子屋を見かけました。昭和27年(1952)創業の「天神堂」です。
10時半のおやつタイムということで弟が買いに行ったのですが、1個だけしか持っていません。そのやきもち1つを4人で分け合ったのは、健康に敏感な弟が相方の血糖値が高いことを気にして甘いものを厳しく制限しているためです。でも、私はHeA1cが7前後、血糖値が125から150なのでも全く気にしていないし、私の連れ合いは全く問題ないので、まるで物足りませんでした。 -
上七軒は有名な花街なのに、写真でも判るように人通りが殆どありません。行き違うのは少数のジモティと僅かな日本人の観光客だけで、外国人は皆無でした。
○「やきもち」について
これは、薄皮の大福を押しつぶして焼いたもので、大宰府の天満宮の名物の「梅が枝餅」によく似ています。京都では、上賀茂神社の「神馬堂」と「葵家やきもち総本舗」、下賀茂神社の「ゑびす屋加兵衛」も有名です。名物だという講釈が付いていたので古くからあるものかと思っていましたが、これら4軒の創業は大正と昭和です。なので、京菓子の中では新参者でした。尤も、一つ食べればお腹が膨らむ大衆向けの餅菓子です。茶席には出せそうもないタイプの菓子なので、由来を詮索するのは野暮なのかもしれませんね。 -
上七軒の歌舞練場前です。
京都には上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町、嶋原の6つの有名な花街があります。その中でも、西陣の旦那衆に支えられた上七軒は、芸で座を取り持つ芸妓が中心の花街で、娼妓(売春婦)と混在していた他の花街よりも格が高かったと聞いています。しかし、着物から洋服への転換で、西陣は衰退してしまったため、上七軒もかつての元気は無くなっているそうです。
今は千葉県民だし、お茶屋遊びとは縁のない私なのに、花街について書くのは、生まれ育ったのが、待合、料亭、置屋の密集した東京・日本橋・浜町で、夕方になると人力車に乗ったきれいなお姉さんが家の前を行き交い、夜になると新内流しがやってくるような環境だったためです。当然、仕立てのパッツンパッツンの足袋をはいている人が売れっ妓だということも知っている、おませなガキンチョでもありました。それゆえ、京都の花街にも興味があるためです。
なお、東京の待合も、京都のお茶屋も、座敷を貸すことが本来の商売です。そのため、待合やお茶屋で遊ぶ際は、仕出し屋から料理を取り、取り持ちの芸妓を置き屋から呼ぶのが原則です。 -
今日3人目の舞妓さんです。三味線のケースを持っていたので、お稽古にでも向かったのでしょうね。
上七軒の由来については、北野天満宮と上七軒の資料の両方に、文安元年(1444) にあった文安の麹騒動で焼失した北野天満宮を室町時代に再建した際、残った資材を使って7軒の茶店を建てたとあります。
そのため、北野天満宮は、現在の社殿ほど立派ではなかったでしょうか再建されたことは明らかです。しかし、それが何時なのかは判りません。
そこで追いかけてみると、上七軒歌舞会のホームページに、十代将軍の足利義稙が所司代の細川勝元に命じて社殿の造営をさせた際、社殿修築の残材を使って東門前の松原に七軒の茶店を建てて参詣諸人の休憩所とした。世間では、これを七軒茶屋と称したとあります。
でも、足利義稙(1466~1523)が将軍だったのは1490~1493年と1508~1522年で、細川勝元(1430~1473)が所司代だったのは1445~1449年、1452~1464年、1468~1473年なので年代が合いません。そのため、秀吉が再建する前の状態は明らかにできません。 -
表紙の鍾馗様は、こんな感じで軒先に載っています。
上七軒が発展したきっかけは、「上七軒歌舞会」のホームページに、太閣秀吉が天正15年(1587年)に「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」として有名な北野の大茶会を催した際、秀吉が休憩所にした七軒茶屋が、名物の御手洗団子(みたらしだんご)を献じたところ、大いに喜んで七軒茶屋に御手洗団子を商うこと、山城一円の寺社が催す行事を独占的に引き受ける権利の法会茶屋株(ほうえちゃやかぶ)を公許したことだとあります。また、上七軒花街が五つ団子の紋章を用いるのは、この時に献じた御手洗団子に由来するものだともあるので、秀吉がらみの経緯は信じてよさそうです。
実際、京都のみたらし団子に刺さっている餅は5個です。しかし、東京の串団子は4個です。この差は何故に由来しているのでしょうかね。不明です。
加えての疑問は、この時に献上した御手洗団子はどんなものだったのかです。砂糖も醤油も超貴重な時代だったはずなので、今のような甘い醤油餡を絡めたスタイルだと極めて高価になってしまうはずだからです。 -
ちなみに、こっちは「とようけ茶屋」の鍾馗様です。
ユーモラスなのは同じですが、姿形が全く違います。 -
これも上七軒の写真ですが、左側の家の板塀を見てください。
幅の狭い板を縦に並べて張っています。関東の家の板壁は、幅広の板を横にして、少し重なり合うように打ち付ける「鎧張り」というタイプです。しかし、関西の民家は、こんな風に板を張っているので、のっぺりに見えます。大学が大阪だった私は、この種の壁を見ると懐かしくて、関西へ来たなという実感が持てます。
ついでに関西の特徴をもう一つ挙げると、住宅地に緑が少ないことです。これは、敷地内に家の屋根を超える高さの樹木を植えると家の運気が木に押されて傾くという言い伝えがあるためです。なので、高い木があるのは寺社と公園だけです。 -
上七軒の東の端に到着しました。
石の道しるべを見ると、上七軒は北野天満宮の東の参道でもあったのですね。 -
大報恩寺(千本釈迦堂)の門前の通りです。
弟が此処を選んだのは、仏様が好きな私に合わせて、北野天満宮の近くにある国宝の仏様を見せようとしてくれたためです。 -
「釿始め」という儀式が1月2日にあるそうです。
釿(ちょうな)は、鍬(すき)に似た形の斧の一種で、木材の荒削りに使う大工道具です。何故に大工道具が出て来るかと言えば、この寺の「おかめ伝説」にあります。でも、この行事は、昭和56年(1981)~令和2年(2020)までは広隆寺で行っていました。大法恩寺で開催されるようになったのは2022年からです。なので由来を調べてみたのですが、伝聞ばかりで確かな資料は見つかりませんでした。
一方、箱崎の大工の頭領だった祖父が「釿を使えなければ一人前ではない」と言っていたことを覚えています。そのため、大工さんの仕事始めの行事に釿を使うのは納得できます。 -
大法恩寺の山門です。奥に国宝の本堂が見えます。通称の千本釈迦堂は、京都を南北に貫く千本通りの傍にあることに由来します。
また、この寺で有名なもう一つの行事の「大根炊き」は、毎年12月7日と8日に行われます。 この行事は、お釈迦様のさとりの日を祝う「成道会」に伴うもので、お釈迦様の梵字を描いた大根を、ご本尊で秘仏の釈迦如来坐像(重要文化財)を開帳してお供えし、そのおさがりを油揚げと一緒に大鍋で炊きあげ、参拝者に振る舞うものです。 -
おかめさんの像です。昭和54年に有志が建立しました。
大法恩寺のおかめ伝説は、貞応2年(1223)、本堂の造営を請け負っていた大工の棟梁の長井飛騨守高次が、柱を間違った寸法で切ってしまったことから始まります。
夫の苦境を見た妻の「おかめ」は、仮堂に安置されていたご本尊に昼夜祈り続けると、厨子に納められている秘仏なのに、光り輝く枓栱(ますがた)を膝に抱いているお姿が見えました。我に返ったおかめは、「全部の柱を短く切り揃え、その柱の上に枓栱を付けて長さを補えば修正できる」というご本尊に授かったアイデアを夫に打ち明けました。高次はこの方法で施工すると、当初計画より立派な本堂が完成し、安貞元年(1227)12月26日、無事に上棟式を迎えました。
しかし「おかめ」は、女の提案で大任を果たしたことが知れては夫の恥と考え、翌日の上棟式を待たずに自害してしまいました。
高次は妻の冥福を祈るため、翌日の上棟式で御幣の先へ「おかめの面」を飾って彼女の冥福を祈りました。現在も上棟式の御幣におかめの面をつけるのは、この故事に由来するのだそうです。これを伝え聞いた施主の義空は、おかめの徳を称えて境内に塚を建てて供養しました。 -
写真の国宝の本堂(指が入ってしまっています)は、洛中最古だと自称する、京都市内で数少ない中世建築物です。仏様も、国宝が六観音像(肥後別当定慶(康運)作)と木造地蔵菩薩立像 の計 7躯(肥後別当定慶(康運)作)、重文が本尊の釈迦如来坐像、十大弟子立像 (快慶一門作)、千手観音菩薩像の計13躯と、京都には珍しい多さです。
これらの仏様は、本尊の釈迦如来坐像(重文)は秘仏で、本堂の厨子に安置されていますが、他は、隣接の霊宝館に納められています。
なお、霊宝館の仏様は全て立派でしたが、鎌倉時代の仏様は人間的過ぎます。ちょっと生々しくて、やや引けてしまいました。 -
大法恩寺を出たのは12時過ぎです。
お昼ご飯を食べに行くのですが、その前に、弟がかねてから気になっていたという「大正製パン所」へ寄りました。大正8年の創業だというところが店名の由来なのでしょうが、調理パンが充実している極く普通の街のパン屋さんでした。
店名がちょっとあざといので期待していなかったのですが、記念に購入した一人当たり3個は、夜食で食べ尽してしまいました。美味しかったです。 住所:京都市上京区今出川通千本東入る般舟院前町136 -
昼は、定食屋です。関西に今でも残っている、おかずを客で取ってくる例のスタイルです。
場所は、東大路通と丸太町通の交差点の南西角です。この交差点には熊野神社があります。 住所:京都市左京区聖護院山王町43-1 -
メニューです
-
私は830円のオカズ2品の「かす汁定食」にしました。
写真は、御飯、かす汁、カボチャの煮つけなので、もう1品取りました。 -
私の残りの1品は、このハンバーグです。
かす汁は美味しかったのですが、ハンバーグは、既製品に多い練り物みたいな食感で、私の連れ合いが作ったものより劣りました。 -
荷物を取りにホテルに寄ってからタクシーで向かったのは、この長楽館です。此処でお茶をしました。場所は円山公園の南です。
住所:京都市東山区八坂鳥居前東入円山町604 -
長楽館は、煙草王と呼ばれた明治の実業家 村井吉兵衛が、国内外の賓客を接遇するために作った迎賓館です。アメリカ人のJ.Mガーディナーの設計で、1909(明治42)年に竣工しました。外観はルネサンス風、内部はロココ、ネオ・クラシック、アールヌーボー等が混在する造りだそうです。命名者も初代内閣総理大臣の伊藤博文です。ということなので、明治の成金趣味がどんなものかが想像できます。
*村井は財閥を形成するも、昭和金融恐慌で破綻 -
玄関です。お茶をしている処は写しそびれました。
明治の成金趣味だといっても、100年以上経てば、お洒落に変身します。居心地が良くて、千円ちょっとのコーヒーか紅茶で1時間以上も長居してしまいました。
なお、現在の長楽館は、本館でデザートカフェ長楽館、フレンチレストラン「ル シェーヌ」、ギフトショップの長楽館ブティックを、新館で6室のブティックホテルを営業しているそうです。 -
今夜の宿がある高台寺方面に歩き始めました。
途中には、有名な料理屋の菊乃井 本店がありました。私ら庶民には無縁ですが。 -
奇妙な建物が見えてきました。龍池山大雲院の祇園閣です。
大雲院は、織田信長とその子信忠の菩提を弔うため、正親町(おおぎまち)天皇の勅命で天正15年(1587)に創建されました。長らく四条寺町南にありましたが、昭和48年(1973)に敷地を高島屋京都店へ売却し、その代金で旧大倉財閥創始者の大倉喜八郎が建てた別邸「真葛荘」の一部を購入して現在に至っています。 非公開ですが、春夏秋冬に公開があります。他の話題性は石川五右衛門の墓。
売却時、四条寺町時代の大雲院の本堂は、智積院の明王殿(不動堂)として移築されました。
なお、旧大倉財閥が起源の企業は、大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラ、日清オイリオ、サッポロビールとアサヒビールなどです。 -
高さ36m、3階建ての祇園閣(国登録有形文化財)は、真葛荘にあった建物の一つで、昭和3年(1928)に、京都市街を一望できるようにと祇園祭の鉾を模して建てました。入口にある額の「祇園閣」は西園寺公望の筆。天井には十二支動物薄型彫刻、階段には照明を抱いた鬼などのケバイ装飾があるそうです
また、別名の「銅閣」は、喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として屋根を銅板葺にしたことに由来します。足利将軍が立てた建物に因もうなんて思う傲慢と誇大妄想は、一代で財閥を作りあげた越後の小商人のセガレの精一杯の見栄なんでしょうかね。 -
今夜のお宿は、高台寺の近くです。
私達の部屋はこの二間続き、他には8畳と6畳がⅠ間の計3室なので、1日3組限定の片泊まりの宿ということになります。
ここは、弟の馴染の宿なので、女将さんとはお馴染みです。そのため、部屋に挨拶に来た時、私が千葉の銚子で勤務していたことを伝えました。私には完全な京言葉に聞こえるのですが、女将さんの出身は銚子だということで、昔話で大いに盛り上がりました。
なお、女将さんが京都へ来たのは、御主人が京都出身で遠洋漁船に乗っていたためだそうです。でも、クーラーいらずで冬も暖かい銚子育ちのため、暑くて寒い京都に馴染めず、長らく泣き暮らしたと言っていました。 -
今日入った居酒屋は、昨日入った居酒屋がある裏寺町通の一本西側で、より細い路地の「柳小路」にある「居酒屋 静」です。
ここへ来るまでに、祇園甲部歌舞練場の裏で、崇徳天皇御廟が面する御陵前通りを通りを抜けてきました。その際、祇園サンボアという、しゃれたショットバーの場所を教えて貰いました。居心地が良く、一見の観光客もウエルカムということなので、次回の京都旅の時は必ず寄ることに決めました。 -
自分の名刺を店の障子に張り付けるなんて、思いっきり昭和です。
チェックしたところ、大正初期の創業(100年以上前)で京都の居酒屋の源流だと判り、さもありなんと納得しました。 -
写真は、シシャモの南蛮漬け520円
メニューは、出汁巻520円、おでん760円、ビール700円、徳利大600円などととリーズナブルです。
-
しっかり飲んだら、祇園をブラついて宿へ帰ります。
写真は、夜の八坂神社。2023年の京都旅行は、部屋の窓からこの景色が見える祇園のアパホテルへ泊ったので、とても懐かしく思いました。 -
部屋に戻ると布団が敷いてありました。
帰る途中のコンビニで買ってきた酒・つまみと、昼間買った大正製パン所の調理パンで夜中まで喋り倒しました。 -
写真は、朝7時の高台寺下の「ねねの道」です
弟は、空いている朝一で清水寺へ行くのだといっています。
ともあれ、見通しの良い「ねねの道」へ出ました。 -
振り返れば、誇大妄想の極みが見えます。
-
八坂の塔(法観寺)です。此処のたばこ屋の看板がかかっている家の板壁も、板を縦に並べて打ち付けた関西風です。
この写真は、ねねの道が高台寺南門通りに当たったら右折、その下川原通りにある前田珈琲高台寺店を左折して行き止まりまで行き、そこで左を見た時に写したものです。この後は、五重塔を右に回り込んで真っ直ぐ進んで二年坂と合流し、産寧坂(三年坂)を登って清水坂に出ました。 -
7時半の清水坂です。
産寧坂では人をほとんど見なかったのですが、観光客が多少見えるようになりました。道が空いているせいか、此処までタクシーで上がってくるインバウンドが何組もいました。 -
清水寺の正門に当たる仁王門(重文)。右奥に見えるのは西門(重文)です。
清水寺は、10回以上も火災で焼失しています。そのため、本堂を含めて現在の建物の大部分は寛永6年(1629)の火災の後、寛永10年(1633)に徳川家光の寄進で再建されたものです。ただ、仁王門の再建は明応9年(1500年)前後だそうです(詳細不明)。 -
清水の舞台から見た京都市街。
-
清水の舞台は、やっぱり高いです。
-
本堂には、それなりの人がいました。
奥の赤い建物は「音羽の瀧」の真上に建つ「奥の院」です。
-
帰り際にもう一枚。
やはり、最高の景色です。 -
7時40分頃、帰途につきました。写真は、清水坂から産寧坂への分岐点に構える「七味家本舗」の前で撮ったものです。
七味唐辛子で有名なのは、浅草の「やげん堀]、長野善光寺前の「八幡屋礒五郎」と、この清水坂の「七味家」の3軒です。
でも、我が家の御用達は、数年前まで両国橋の西詰の薬研堀(現:東日本橋)で営業していた大木唐辛子店でした。閉店後は似た品を探していますが、まだ見つかりません。 -
産寧坂へ入ったところの写真です。有名過ぎて写真を載せる価値はないでしょうが、私の記憶のためなのでご容赦ください。
○薬研堀の七味唐辛子についての余分なお話
私が小学生だった頃(70年近く前ですが)、薬研堀にあった薬研堀不動院の前では、年末に羽子板市が開かれていました。羽子板屋さんだけでも30軒ほど、しめ縄や正月飾りの店も同数、それに鼈甲飴やイカ焼きの露店が数十軒以上という盛大なものでした。この羽子板市は、浅草、薬研堀、芝大神宮といった大きな寺社を順に回ったと聞いています、薬研堀のお不動様はチッポケなのに大きな市が立ったのは、民間薬の販売が起源のテキ屋(露天商)が信仰する神農様を祭っているためだと記憶しています。その民間薬の代表は、七味唐辛子です。これらのことは、近所の大人から聞いた七味唐辛子、薬研堀、羽子板市の関係なのですが、いくら調べても関連資料は見つかりません。ご存じの方がいらっしゃったら、ご連絡ください。 -
産寧坂の中頃から映した清水寺方面です。これも私の記憶用。
-
産寧坂にも、先にも書いた幅狭の板を縦に並べて打ち付けた関西風の板壁の家があります。
-
二年坂に入ります。
-
弟が私達に見せたかったのはこれ。二年坂のスタバです。
-
7時50分です。8時開店なのにインバウンドが何人も並んでいました。
こんな雰囲気のお店なら、人気が高いのも判ります。 -
起点の高台寺南門通りへ戻ってきました。
-
有名な朝ごはんです。旨かったです。他に言い様がありません。
今日の予定は、丸太町通りにある美味しい出汁巻弁当を買って帰るだけということなので、私が大好きな白川と古川町商店街を見てみたいと申し出ました。古川町はマンションとドミばかりになっていて行く意味は無いと渋られましたが、私のお気に入りの場所なので粘って交渉すると、近くにある地下鉄の東山からバスが出ていることが判って了承してくれました。 -
先ずは、昨日お茶をした長楽館の前から丸山公園へ入り、そこを突っ切ります。
-
知恩院の南門を抜けます。
-
知恩院の三門です。此処を左折します。
-
左折したら、知恩院道を西に向かいます。
-
東大路通に突き当たったら右折して直進すると、懐かしの白川に出ます。写真は、白川筋という道から「親水テラス」方面を写したものです。
テラスでは、外人がSNSを発信していました。
奥の石橋は「一本橋」。そこを左に入ると古川町商店街です。 -
これが「一本橋」です。上の写真とは逆方向です。
この橋は、京都が舞台の刑事ドラマによく出てきます。 -
古川町商店街です。確かに、マンションとドミ的なホテルばかりで、商店街としては実質的に絶滅していました。
-
だし巻弁当を買いに来た「芝半」です。
二条城の北側の丸太町通りに面しています。
*上京区日暮通丸太町上る西入西院町746-49 -
だし巻は1本450円です。
-
弁当の販売は11時からです。だし巻だけならあるというので、仕方なく、それだけを買いました。
-
おいしいだし巻で、これには全く文句がありません。
しかし、だし巻は450円なのに、日替わり弁当は600円です。それも、大盛同額のご飯に、だし巻が丸々一本とトンカツ、ハンバーグ、よだれどり、エビフライなどのおかずが1品付いてですよ。これだけでも十分以上に不合理なのに、他のサイトの投稿画像を見ると、だし巻はフルサイズ、おかずもたっぷりです。どう考えても納得できないため、次に京都へ行ったら必ず此処の弁当を食べて、京都人の脳みその狂い具合を公表してやることにします。 -
だし巻を買ったら、千本通りを下って三条通りの商店街へ向かいました。
写真は、その千本通り側の入口です。 -
商店街の正式名称は「京都三条会商店街」です。
買い物には少し早い11時40分頃のためか、人通りは少ないのですが、シャッターを下ろしている店は殆どありませんでした。長さは、千本通から堀川通までの間の約800mです。総菜を売っている店が何軒かあったので、弟は、目の色変えて物色していました。 -
私が商店街で購入したのは、京都らしい総菜のエビ豆と琵琶湖特産のホンモロコの南蛮漬けです。
エビ豆は、ダイズと川エビを甘く煮た京都の定番のおばんざいの一つなのですが、この店の品は、エビが殆ど入っていません。実態は、あまりおいしくない大豆の煮豆だったため、半分はゴミ箱行きでした。
ホンモロコの南蛮漬けの方は、琵琶湖特産の高価な本物のホンモロコを使っています。淡水魚関連の水産試験場に勤務していたので、タモロコとの区別はできます。また、水試では、ホンモロコの養殖試験もしていたので、素焼きのホンモロコを一味醤油にジューと浸けたものの美味しさを知っています。当然、金網の目に頭を指す仕上げ焼きも知っていますよ。また、南蛮漬けと言えば、唐揚げを甘酢に漬けるのが普通なのに、これは、焼いた魚を使っています。とても珍しいので、即座に購入しました。だがしかし、酢が悪いのか、これもガッカリな品でした。 -
これも、商店街で購入した奈良漬けとスグキです。安かったのですが、品質はデパートや錦市場に比べると味は一段落ちで、こっちも残念な結果でした。
昼飯は、予定のだし巻弁当が手に入らなかったため、商店街の中にあった中華屋へ入りました。中華なのに京町家風の建物の店です。あざとさは感じたものの、観光客ではありますが、そこそこ混んでいたので外れはないだろうと思いました。しかし、注文した担々麺は、半分近く残してしまいました。理由は、近年増殖している中国人経営の店に共通する、旨味が無いスープ、腰が無い麺だったからです。
この商店街は全てガッカリでした。京都のように選択肢が多い街では、純粋に地元客相手の店より、繁華街の店へ行った方が観光客にとってベターな選択なのでしょうね。 -
京都駅ビルの屋上です。
-
ガラスが汚くて、屋上からの景色はガッカリの極み。
人が少ないはずです。 -
旅行から帰った日は、現地で調達した寿司や弁当を晩飯にするのが我が家の流儀です。
そこで、出発前にリサーチしたら、河原町通四条上ル塩屋町の「ひさご寿司」のホームページに、アナゴとエビを乗せたミニサイズのちらし寿しと、ハモ、タイ、エビと卵焼きの押し寿司が4個入った写真の、「祇園」2,381円を見つけました。
京都駅ビルの伊勢丹へ出店しているということなので買いに行ったのですが、このセットは本店だけにしか置いていないとのことでした。でも、名代ちらし寿し 1人前(2,376円)と箱寿し(1,996円)を組み合わせれば、写真と同じ内容の2人前になります。そのため、我が家と弟夫婦の晩飯用に2個ずつ購入しました。酢が効いたご飯が美味しくて、次回もこれにすれば間違いないと思いました。 -
帰りは、14時21分発の、のぞみ26号です。
東京着は16時33分なので、何時になく早い時間に帰宅できました。 -
お菓子の土産は2種類だけと、何時になく貧弱でした。
一つ目は、宿の女将さんに貰ったこの飴。生姜風味で美味しかったです。家で調べたら、月の21日の弘法さんの日だけでしか買えない、相当なレアものでした。さすがに女将さんです。 -
もう一つは、京都西陣の京菓子司 千本玉壽軒の「大内山笑顔」という、大徳寺納豆が仕込んである、この打ち菓子です。このお菓子も当たりでした。また、12個入り810円は、ジジババがバラ撒く飴ちゃん代わりに最適でした。
なお、京都駅ビル内の伊勢丹で阿闍梨餅を買おうとしたのですが、大行列で大変なことになっていました。新大阪駅の551と同じ状態なのでしょう。なので、これを手に入れたいのなら、川原町辺りのデパートで買うことお勧めします。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
京都 の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
110