2026/01/17 - 2026/01/17
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montsaintmichelさん
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寂光寺は、大阪市東淀川区南江口3丁目に佇む日蓮宗の寺院です。正式には寶林山 普賢院 寂光寺と称し、創建は1205(元久2)年、平資盛の娘であり西行法師との有名な歌問答にゆかりのある江口の君(妙前光相比丘尼=妙)によると寺伝は記します。本尊には十界大曼荼羅を祀り、江口の君ゆかりの寺らしく、現在でも日蓮宗には希少な尼寺です。と言うことで、今回のミッションは「妙」にスポットを当て、その出自の謎を解明することです。
往時、江口の地は京都との水運の要衝として栄え、多くの遊女が集まり、著名な公卿たちも訪れました。そのため、寺院は俗に「江口君堂」とも呼ばれ、篤い信仰を集めました。元々は天台宗でしたが、江戸時代の正徳年間に普門比丘尼により日蓮宗へと改宗されています。
現在の寂光寺の近隣では、昔から居住する人は3割程に減り、妙の逸話を知る人は少なくなったようです。しかし寺院では毎年、妙の命日の旧暦3月14日に近い4月第2日曜日に本堂で法要を行っています。
寂光寺は、その歴史と文化、西行法師と妙の歌問答を通じ、訪れる人々に深い感銘を授けてくれます。静謐な境内を散策しながら、平安時代から連綿と続く「江口伝説」に思いを馳せるのも一興です。
https://www.eguchinokimido.org
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
境内が見渡せる高所に「江口の里」の石柱が建てられています。これは1962(昭和37)年に市制施行70周年を記念して大阪市によって建てられた記念碑です。
11世紀末の大江匡房著『遊女記』に「天下第一之楽地也」と記された「江口の里」は紀州熊野や高野山、四天王寺、住吉社へ参詣する貴族たち相手の遊女の里として知られました。東三条院の住吉詣での際には藤原道長が江口の名妓 小観音を寵愛したとも記されています。しかし現在はその面影の片鱗もなく、閑静な住宅街の一角に寂光寺(江口君堂)は秘かに寡黙に佇んでいます。 -
江口は、現在の東淀川区東端に当たる地名です。古来淀川の河口に当たり、川舟と海船とを乗り換えた場所で、古代以来栄えた淀川水運の要衝となりました。平安時代から天皇や公家らの熊野や高野山、四天王寺、住吉社への参詣にも利用され、その宿泊客を目当てに多くの遊女が集まり、神崎(現 尼崎)と並んで「天下第一の楽地なり」と称されるほど賑わいました。
遊女の中には没落有力貴族の子女も含まれており、古典の教養や今様などの諸芸に通じて公家や貴人との交流も深く、後鳥羽上皇も神楽や今様を楽しんだと伝えます。また遊女たちの中には、勅撰集に収められるほどの和歌を詠み、風雅の道に優れた者もいたそうです。しかし江口の繁栄も武家社会となった鎌倉時代にはジリ貧となり、南北朝時代にはすっかり影を潜め、僅かに昔を偲ばせるものがこの江口君堂だったようです。 -
平安時代、江口、神崎( 尼崎市)、蟹島( 加島、大阪市淀川区)を訪れた学者 大江匡房はその繁盛ぶりを「天下第一の楽地」と紹介し、『遊女記』に「門を比べ戸を連ね、人家絶ゆるなし、倡女群をなし、扁舟に棹さし、旅舶に着き、以て枕席を薦む」と記して言います。
遊女は往時、「あそび」「うかれめ」などと呼ばれ、「遊女の好むもの、雑芸・鼓・小端舟・簦かざし・艫取女・男の愛祈る百大夫」(『梁塵秘抄』)と謡われました。遊女は、旅舶が泊まりに着くと、小端舟に乗って漕ぎ寄せ、川波の音に響かせて鼓を打ち、今様、朗詠を謡い、船客から衣服、絹、米などのご祝儀をもらいました。川岸には多くの遊女宿が並び、鼓や琴、琵琶、笛などが奏でられ、酒食が供され、毎夜宴が繰り広げられたそうです。 -
阿波野青畝句碑
当地で催される流燈会(お盆の灯籠流し)を詠んだ一句です。
「流燈の 帯の崩れて 海に乗る」 1962(昭和37)年11月3日建立。
波多野青畝(明治32年~平成4年)は奈良県出身の俳人です。高浜虚子に師事し、昭和時代初期に山口誓子や高野素十、水原秋桜子と共に「ホトトギス」の4Sと称されました。関西弁特有の滑らかな調子で、万葉の古語や雅語を生かした独特の美と飄逸味のある句を詠んでいます。句の特徴は、眼前のものをそのまま書き写すのではなく、相応しい言葉を宛がって写実風景を句に表現する手法を用い、「客観写生」に濃やかな主観を調和させたおおらかな句風です。 -
手水舎
近年の研究によると、中世の遊女は芸能や宿泊業が中心で、近世後期以降のように必ずしも売春を伴ったわけではないようです。鎌倉時代初期の説話集『古事談』には、左大臣 藤原道長が遊女 小観童を寵愛し、訪ねてくると赤面して祝儀を与えて帰らせたという逸話が載っています。『栄華物語』にもその子である関白 藤原頼通が江口で遊んだ様子が描かれています。更に後鳥羽上皇は再三、水無瀬離宮(大阪府島本町)に江口や神崎の遊女を呼び寄せて宴を開いています。
また、遊女が天皇や院、公家らに寵愛されて子を産んでいます。その子たちは昇進を果たしており、近世以降のような遊女への蔑視はほとんど見られません。今様を愛した後白河上皇は江口の遊女 一﨟丹波局(いちろうたんばのつぼね)との間に皇子をもうけています。母親が遊女だった公家には一条信能や徳大寺実基、武士では源為朝らがいます。 -
寺伝によると、西行との歌問答の相手である妙は平清盛の嫡男 平重盛の次男 資盛(すけもり)の息女で、平家没落の後、江口に住む乳母を頼ってこの地を訪れ、やがて遊女に身を落としたとしています。
1167(仁安2)年の秋の夕暮れ、四天王寺への参詣の途中、この江口の里を通りかかった西行が、生憎の時雨に遭い、一軒の粗末な里家に雨宿りを頼んだところ、女家主の妙(遊女 江口の君)に断られます。そこで仕方なく立ち去りかけた西行が「世の中を 厭ふまでこそ 難からめ 仮の宿を 惜しむ君かな」と詠むと、妙は「世をいとふ 人とし聞けば 仮の宿に 心を止むなと 思ふばかりぞ」と当意即妙な歌を返しました。そしてこの歌の奥ゆかしさに心を通わせ、長雨の一夜を語り明かしたと伝えます。 -
それから間もなく、この歌が縁となり妙は25歳の若さで仏門に入り、尼僧 妙前光相比丘尼(みょうぜんこうそうびくに)と改名しました。その心境については、遊女としての華やかな暮らしの裏に、涙や悲しみ、多くの嘘や偽りがあり、それらに対する贖罪だったと思われます。そして余生を人びとの相談ごとに当て、終の棲家とするための草庵を結んだのがこの寂光寺の始まりと伝えます。その後、80歳という高齢で亡くなっています。妙が亡くなった3年後、里の遊女たちが冥福を祈って建てたのが江口君堂だと伝えます。このように寂光寺は往時の遊女たちの教養と哀歌を今に伝承する場所となっています。
因みに、この妙と西行の出会いをモチーフにしたのが能『江口』です。現代にも連綿と語り継がれている逸話ですが、元々は歴史の表舞台に出ることのない些細な物語に過ぎませんでした。その一端に触れることができただけでも訪問した甲斐がありました。 -
歌塚
手水舎の手前に西行と遊女 妙(江口の君)が詠った歌問答の歌碑(歌塚)が建てられています。
江戸時代の元久2年(1205年)に好事家が淀川堤に建てたものですが、1906(明治39)年の淀川大改修でその場所が川底になることから、境内のこの地に移転されました。
正面には日蓮宗独特の髭題目(本尊として用いる「南無妙法蓮華経」のお題目)が刻まれています。「法」以外の六文字の筆端を、勢いよく髭のように四方に跳ね延ばした奇抜な書体です。これは、「法」の光に照らされ、万物が真理を体得し活動する様を表わしたものだそうです。 -
歌塚
向かって右面に西行法師の歌、左面に遊女 妙の返歌が刻まれています。
これらの歌問答は『新古今和歌集』に記されている有名なエピソードです。旅の途中で江口の里を訪れた西行が宿を借りようとした際、遊女に断られたことに対し、次の歌を詠みました。
「世の中を厭ふまでこそ難からめ かりのやどりを惜しむ君かな(悩み多い世の中を嫌って出家するところまでは難しいだろうが、仮の宿を貸す事さえも惜しむのですか)」と妙になじったところ、「世を厭ふ人とし聞けば かりの宿に心とむなと思ふばかりぞ(あなたは悩み多いこの世を嫌って出家なさっている人とお見受けしますので、仮の宿に執着なさるなと思うだけなのです)」と当意即妙に応じ返したものです。
この歌問答の後、妙は一念発起して仏門に帰依したと伝わります。 -
本堂
妙が亡くなった後、江口の遊女たちが冥福を祈って建てた江口君堂は鎌倉時代最末期の戦乱期の元弘・延元の乱で焼失しました。現在の本堂は、正徳年間(1711~16年)に普門比丘尼により再建されたものであり、同時に天台宗から日蓮宗へと改宗され、その特徴を感じさせる重層方形造(庇状構造の裳階付)の建物です。形式的には日光東照宮の輪蔵(経蔵)とよく似た造りです。 -
本堂
西行と遊女 妙の出会いや歌の相聞は『撰集抄』に遺されています。白洲正子著『西行』には次のように記されています。
この説話の主旨は、「狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因」という思想にあり、これは和漢朗詠集の白楽天の詩に出ている。原文は長いので略すが、美辞麗句をもって人を惑わす言葉も、仏法を賛美する起因となるの意で、遊女が客を魅惑することも、西行が歌を詠むことも、すべて狂言綺語の戯れであり、そういう罪を仏法に転換することによって、自他ともに救われる。明恵上人の伝記の中で、西行が、「我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しここに至らずして、妄りに此の道を学ばば邪路に入るべし」といったのもそういう意味で、ここにいう「法」は、必ずしも仏法ではなく、いかに生くべきかという自己発見の道であったと思う。江口の遊女は、長年たずさわっていた売色の経験により、人間の真実に目覚めたので、それは正しく泥中に咲いた花の一輪にたとえられよう。そういう曰く言いがたい人生の機微を、みごとに表現したのは室町時代の猿楽である。舞台芸術は、文字どおり「狂言」であり、「綺語」であって、美しい舞と歌によって見物を魅了して行く間に、おのずから法悦の境に導かれる。能の思想は、幽玄と花にあると一般には思われてえり、私もそう書いたことがあるが、それらは外に現れるテクニックの問題で、底流にあるのは「狂言綺語は讃仏乗の因」という信念に他ならない。実際にも、謡曲の中では、お題目のようにくり返し謳われる詞なのである。 -
本堂
正面には「寶珠山」の扁額、手前の柱には「普賢院」と「江口君堂」の札が掛かっています。 -
本堂 扁額「寶珠山」
鎌倉時代の1201(建仁元)年、後鳥羽上皇の指示で藤原定家らによる勅撰和歌集の編纂が始まり、全20巻約 1980首の『新古今和歌集』に収録されました。その後、西行(1118~90年)と妙の出会いは、謡曲や長唄に形を変えながら後世まで語り継がれ、妙は「江口の君」と呼ばれるようになりました。
歌問答は、西行存命中に編まれた『山家集』にも採録されましたが、そこには「妙」の名はなく、単に「遊女」とあります。「妙」の名は西行の没後13年、藤原定家の日記『明月記』の建仁3年(1203年)5月13日条に登場します。水
無瀬宮の和歌を作る座でのこととし、「遊女着座、神崎の遊女妙すべりて顚倒す」とあります。江口の遊女は後鳥羽上皇が水無瀬宮で催した遊興に頻繁に招かれていたようです。
『新古今和歌集』に「妙」の名を入れたのは定家とも上皇とも伝わり、『大阪府史第3巻中世編1』は、『明月記』の女性こそ世に名高い「江口の君」で、彼女の和歌は『新古今和歌集』に作者「遊女 妙」として収録されたと記しています。 -
本堂
『山家集』や『新古今和歌集』では、歌問答の場面は西行と妙の諧謔的な歌のやり取りに過ぎませんでした。しかし西行の文学像形成に大きく寄与した『撰集抄』になると、その前後の描写がより具体的になってきます。『撰集抄』は、鎌倉時代中期に成立した著者を西行と仮託した仏教説話集です。ここでは妙は出家して尼僧となり、仏教の影響を色濃くしています。更に室町時代の逸話は能役者で能作者の世阿弥により脚光を浴びるようになりました。世阿弥は『撰集抄』の別の個所に記された「普賢菩薩は遊女の化身」という説話と組み合わせ、「身は普賢菩薩の貌を現わし、六牙の白像に乗りて去り給いぬ」」と遊女の美しさと知性、叙情性を映し出した物語性豊かな謡曲『江口』に仕上げました。 -
本堂
世阿弥の書には「江口遊女 亡父(観阿弥)作」と記してあり、原作者は観阿弥のようです。因みに世阿弥の女婿で能楽の金春中興の祖とされる金晴禅竹の作との説もあります。これは、禅竹が一休の弟子で、一休著『狂雲集』に「江口美人勾欄曲に題す」との詩があり、禅竹に書き与えたと伝わるからです。しかし、観阿弥の原作を脚色したのは禅竹とされています。その理由は、仏教要素が盛られており、それができるのは一休に師事していた禅竹しかいないからです。禅竹は、謡や舞の技術を錬成する一方、一休を禅師と仰いで修行を積み、能楽の中に「寂び」の心を希求し、仏教的・哲学的な独自の芸風を築き上げました。故に一休禅師の影響も多分にあるかと思われます。 -
本堂
寺伝では、妙は平清盛の嫡男 重盛の次男 資盛の息女で、江口に住む乳母を頼って辿り着いたと記します。しかし妙の父親が資盛ならば、妙と西行にはかなりの年齢差があることになります。何故なら、1118年生まれの西行は資盛の祖父 平清盛と同い年だからです。従って曽孫と歌を詠み交わしたことになり、時代設定に無理があります。
また年代で考証すると、資盛の生まれは1158年あるいは1161年であり、その娘と西行が1167年(資盛が9歳もしくは12歳)に出会うのはあり得ない事です。ましてや娘が齢20あまりとなれば殊更です。
一方、妙は平安時代の摂津国江口の長者 藤原為盛の娘とも伝えられます。この為盛は加賀守や越前守を務めた平安時代中期の藤原為盛と同姓同名の別人のようですが、詳細不明です。為盛の娘とする説は、史実というよりも、特定の寺社と結び付いた寺承・伝説かと思われます。
更には、藤原伊賀守為成の息女 瑠璃子との説もあります。
いずれにせよ、妙の持つ知性などから察して公卿の子女であることは疑いようがありません。
以上が「江口伝説」の矛盾点ですが、「時間設定には無理があるが、『江口の君』は 『資盛の娘 妙』としておこう」との暗黙の了解が古来からあったのでしょう。 -
本堂
日蓮聖人の祖師像をはじめ、開山の光相比丘尼が自ら刻んだ自彫像や普賢菩薩像、観世音菩薩像などが祀られています。普賢菩薩像は焼失を免れたものであり、赤松丹波守が重体の折、焼け残った普賢菩薩像に手を合わせると奇跡的に治癒したということで信者が多くなったと伝えます。 -
本堂
正面の御宝前にはお前立のような江口の君 妙女の木像が置かれています。
こちらは比較的新しい像と窺えます。 -
本堂 江口の君 妙女の木像
もうひとつの疑問は何故妙の父親を平資盛にしたかです。資盛は、丹波と播磨の国境にある三草山の戦いで源義経にボコボコにされ、その後、壇ノ浦合戦では敗北を悟って弟の有盛と従兄弟の行盛と共に入水自殺した人物ですから…。寺院の縁起に箔を付ける目的であれば明らかにミスキャストです。敢えてそうした理由は、江口の里に住む貴族系の名士が少なく、和歌に優れていた資盛に関わる女性を妙の乳母に見立てたのかもしれません。因みに資盛は『新勅撰和歌集』や『風雅和歌集』に名を残しており、和歌には堪能です。 -
本堂
都の貴族の子女と思しき妙が、都を離れ江口にやって来た理由は定かではありませんが、この里が乳母の故郷だったからとも、叔母の濡之禅尼(ぬれのぜんに)を頼って来たからとも伝えます。落剥した身を歎いていたのもつかの間、生きるために旅人相手の芸能(歌や踊り)に長けた「遊女長者」となりました。しかし西行との邂逅を契機に仏門に入る決意をし、名を妙前光相比丘尼と改めて草庵を結びました。
妙は、その余生を江口の遊女や白拍子たちの悩みを聞いたり、相談に乗ったりして過ごしたと伝えます。その没後、江口の里に住む遊女たちは、妙を慕い、その冥福を祈って庵の跡地に菩提寺を建てました。それが「江口君堂」だと寂光寺縁起は伝えます。
寂光寺では狩野元信筆『妙の前の像』や木造「妙の坐像」が寺宝として守り継がれています。毎年4月14日の妙の命日にはこの絵が特別公開されます。 -
本堂 木造「妙の坐像」
左端に祀られているのが、妙が自彫りしたと伝わる「妙の坐像」です。
内陣には入ることができないため、格子窓から撮影するには場所的に難があります。
尚、寂光寺HPには画像が掲載されていますのでご参照願います。
https://www.eguchinokimido.org -
本堂
俳聖 松尾芭蕉も西行と妙との歌問答に関する句を詠んでいます。
旅の歌人 西行を尊敬し師と仰いだ芭蕉は、『奥の細道』の旅の終盤、ある宿で襖越しに洩れ聞こえる声から、相客が新潟の遊女だと悟ります。この刹那、芭蕉の頭をよぎったのが西行と妙の出会いのシーンでした。芭蕉は、世捨人に等しい身上の自分を月に、儚く花と咲く身の遊女を萩の花に喩えて詠みました。
「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」
芭蕉は、妙に宿を借りるために声をかけた西行と今の自分とを重ね合わせ、頭の中で隣の部屋の遊女に声をかける妄想に耽っていたのかもしれません。 -
本堂
軒丸瓦にある寺紋は「揚羽蝶」です。これは桓武平氏の流れをくむ公家の西洞院が用いる紋であり、妙と平家の関係を示唆したものと窺えます。その由来は、平清盛の父貞盛が、天慶の乱を討伐した功で朝廷より頂戴した鎧に「向い蝶」の文様があったことから平氏の代表紋となったと伝えます。また鎌倉時代初期の装束や牛車、馬具について記録された『餝抄(かざりしょう)』には、平安時代末期に平維盛や平通盛の車に蝶文が描かれていたことが記されています。更に「揚羽蝶紋」は、「おんな紋」としても知られ、女性専用の家紋でもあります。 -
本堂
主棟鬼飾りには鯱を配しています。 -
君塚・西行塚
本堂前には、江口の君と西行法師の足跡を残す五輪塔のような「君塚」と「西行塚」が仲良く並んで祀られています。
本堂側から見て向かって左(手前)が「君塚」、右(奥)が「西行塚」です。
これらの供養塔は1917(大正6)年7月に建立されました。
仲睦ましく寄り添う供養塔が頬を緩めます。一晩の語らいに、恋人とはまた異なる心の交流や触れ合い、ふたりの繋がりを感じるのは、当方だけではないと思われます。 -
謡曲『江口』
観阿弥原作の謡曲『江口』は「浮世は仮の宿」とする大乗的な暗示を主題とした香り高い曲です。西行と妙による歌問答の逸話に、普賢菩薩に会いたいと願う性空上人(書写山圓教寺の開基)が遊女に導かれて普賢菩薩に会うという説話を組合わせた宗教的エンターテインメントです。
西国行脚の旅僧が摂津国江口の里に着くと里の女と出会いますが、昔西行が宿を借りた時の歌問答を聞かせて自分は遊女江口の君の化身であると告げて消え去ります。旅僧が跡を弔っていると江口の君の霊が現われ、世の無常と執着の罪を説き、静かに舞った後、遊女は白象に乗った普賢菩薩に変じて西の空へ消えていく形で描かれており、深遠な仏教の哲理を説く夢幻境の世界を魅せます。 -
鐘楼
能『江口』は、「西行と妙の歌問答」を縦の糸に、「性空上人の説話」を横の糸に織り成して構成されています。白洲正子著『西行』に『撰集抄』の該当箇所がありますので、以下に引用します。
性空上人は「書写山の上人」とも呼ばれた有徳の僧で、生身の普賢菩薩を拝みたいと念じていた。17日の精進の末、室の遊女の長者を拝めという霊夢をうけ、直ちに室の津を訪ねた。長者というのは、遊女の頭の意味である。彼女は快く招じ入れ、上人に酒をすすめて、舞を舞った。
「周防(すはう)みたらしの沢部に風音信(おとづ)れて」と長者が歌うと、並みいる遊女たちが囃す。
「ささら浪立つ、やれことつとう」
これこそ生身の菩薩よと念じて、上人は目をふさぎ、心を静めて観ずると、世にも美しい菩薩が白象に乗って現れ、法性無漏(ほつしやうむろ)の大海には、普賢恒順の月光ほがらかなりと、玉のような声で歌っている。再び目を開いてみると、以前と同じ遊女が「ささら浪立つ」と囃しており、目を閉じるとまた菩薩が現われる。何度もそういうことをくり返して、法悦にひたった上人が、いとまを述べて帰ろうとすると、一町ばかり行ったところで、長者は頓死してしまった。室の長者は、普賢菩薩の化身であった。 -
鐘楼
鐘楼の下には石仏等が集められています。 -
鐘楼
平安時代、淀川を行き交う川船に諸行無常を説いて余韻を響かせ、船人たちも思わず襟を正したと伝えます。かつての梵鐘は戦時中に金属供出され、現在の梵鐘は1954(昭和29)年9月に再鋳されたものです。この梵鐘は俗に「江口の鐘」と呼ばれ、江口の君にまつわる伝承が鋳込まれています。 -
鐘楼
古くから多くの歌人が当山を訪ね、歌を詠んだそうです。近年当地で詠まれた
「くまもなき 月の江口の シテぞこれ 高浜虚子(『武蔵野探勝』より)」
をはじめ、高名な7人の俳人の句が刻まれ、俗に「俳句鐘」とも呼もばれます。
この句は寂光寺の流燈会(お盆の灯籠流し)を訪れた際に詠まれたそうです。美しい月の光に包まれた江口の里の景色と、かつての物語の主役(江口の君)を折り重ね、その幽玄な情景を称賛した一句です。 -
鐘楼
右から順に
菜の花も 減りし江口の 君祭 後藤夜半
梅雨茸も 小さくて黄に 君の墓 田村木国
早乙女の 笠預け行く 君の堂 阿波野青畝
鳥威し きらりきらりと 君堂に 高野素十
十三夜 ともす君堂 田を照らし 中村若沙
冬鵙や 君の堂へと 水に沿ひ 高浜年尾(高浜虚子の長男で命名は正岡子規)
各句の出典は不詳です。 -
常磐津塚
境内には、7世文字太夫の功績を顕彰する「常磐津塚」もあります。
1957(昭和32)年建立。
常磐津は歌舞伎と共に発展してきた「浄瑠璃」の流れをくむ「語り物」です。ストーリーのある曲を、節を付けて演奏しますが、常磐津では「歌う」や「謡う」ではなく、「語る」と表現します。
常磐津流が創始されたのは江戸時代中期の1747(延享4)年頃とされます。豊後節の宮古路豊後掾の門弟であった初代 常磐津文字太夫によって創設されました。本業である歌舞伎舞台での演奏は人気を博し、一般町人の間でも常磐津を学ぶことがブームとなったほどでした。明治時代以降も多くの名人が輩出され、常磐津の芸と歌は今も語り継がれています。 -
春日燈籠
火袋には鹿や雲の浮彫があります。
妙が、長の患いに苦しみ、大和の長谷観音に病気平癒の願をかけたところ、「河内の福聚山に参って病苦を免れるよう祈るがよい」と教えられました。さっそく妙は慈眼寺に参り、七昼夜籠もって十一面観音に祈ると忽ち難病が治りました。喜んだ妙は感謝を表すために戦火などにより荒廃した堂于を再建しました。そのため「江口の君」は野崎観音慈眼寺の「中興の祖」とも称されています。 -
何とも枝ぶりの良い松です。
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寂光寺は決して華やかな寺院ではありませんが、江口の君の歴史を辿りながら赴くと、しみじみと興味深いスポットです。
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阪急電車 神戸線
奇遇にも復路の電車もラッピング列車『カービィ号』でした。 -
阪急電車 神戸線
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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