2025/11/14 - 2025/11/14
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wethurlさん
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これまで何度も訪れた那覇ですが、今回は初めてのスポットを中心に、巡礼してみました。①では、空港からモノレールで浦添前田に出て、浦添ようどれやグスク周辺を巡ります。②では、末吉宮と末吉公園、首里城正殿復元記念で周囲再訪、沖宮と周囲、をめぐろました
運よく台風が過ぎましたが、風が強く、11月中旬なのに暑さを感じます。人が少ない公園内をゆっくりあるくと、ガマや林の奥に眠る深い記憶に思いが至ります。風で木が揺れ、物音がするたびに何かを感じ、ここから祈りを捧げました。そのまま首里に出て、ソーキそばをいただき、城壁外南から継世門を経て、アガタ御ジヤノ御嶽と美福門、よのうち御嶽やガマをお参りし、久慶門から出ました。そのあと円覚寺仏殿跡、弁財天、そして玉陵・奉園館へと歩きます。琉球王国の歴史に、どっぷりとつかるのでした。帰りは、始めてウーバータクシーを使い、崇元寺跡を訪れてから美栄橋のお宿に入りました。
写真100枚超えてしまいました。写真は前田高地の石垣からです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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お昼に那覇空港、モノレールで浦添前田におりました。公園入り口にハイビスカスが咲いています。東京は寒波だったのに。
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県営浦添大公園南エントランスまで、シャツ一枚でも暑いくらいです。
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こんな素晴らしい場所ですが、観光客はほとんどおりません。石畳の道から、すでに雰囲気に惹かれます。
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山沿いの小道を北へゆくと、浦添城前の碑が。1597年に尚寧王が首里から浦添グスクにいたる道を整備した際の竣工記念碑です。
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正午近くで、まさに逆光、残念。石碑の表は琉球かな文字、裏に漢文で尚寧王の命により石畳と石橋を整備したことが刻まれています。碑首には琉球国王を表す16世紀頃の象徴文様、中央に太陽、左右に鳳凰と瑞雲が描かれた「日輪双鳳雲文」が彫られています。
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城壁(石垣)が一部露出。平成26年度に発掘されたらしい。
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左に曲がると、早くも厳かな森に続く場所。ガマなので、まずは深く礼してお参りする。
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シーマヌウタキへの入り口、立ち入ることを控え、木々と空間に向けて礼することがふさわしく感じたのです。
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写真をとらせていただきました。
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駐車場に出ると、こうした公園の全体像がしめされます。地元のおかあさんがお子さんを連れて散歩していましたが、ほとんど人に会いません。
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まずは左に折れて、「浦添ようどれ」に向かいます
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浦添城西側の崖下にある「浦添ようどれ」という王稜。英祖王と尚寧王が葬られているお墓。
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木々のアーチに囲まれた石段を下り、吸い込まれるような静かな雰囲気。
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第二次大戦で壊滅的な状態となったが、平成17年に復元されたとのこと。小道や木々、ミステリアスな感じです。
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一気に開けます。見事です。ここが壊されたなんて、本当に痛ましいことです。
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もともとはアーチのような自然石をくぐる構造だったようです。
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現在、天井部分はなく、昔の面影を残すのみです。石垣は見事に修復されています。右は絶壁で、左下は、芝生の広場状になっています
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石垣が城構造、さらに門へとつながります
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そこをくぐると、お墓がございます。
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二つの王陵が並んで岸壁に掘られていますが、琉球王国ならではの構造でしょうか。海を見渡す感じですね。
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深く礼します。脇に設置された二基の石獅子のうち、一基は当時のままだそうです
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こうした東海岸方向が望めます。台風が去った、空と雲ですね。
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東の芝生公園状の低地から、ようどれを臨みます。複雑な独特の石垣構造が美しい。
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伊波普猷は古琉球の歌謡集『おもろさうし』研究を始め、民俗学や言語学、沖縄学の父と呼ばれた研究者です。浦添グスクが首里以前の古都であったと述べています。
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墓の前には顕彰碑が建てられ、「彼ほど沖縄を愛した人はいない。彼ほど沖縄を識った人はいない。彼ほど沖縄を憂え人はいない。」と刻まれています。
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道を進むと、浦添城の城壁、左側が前田高地へのがけになります
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ススキがなびく、東海岸が望めます
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手前に壕があり、礼します
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こちら左側は想定して復元した城壁
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右側の石垣は戦争で破壊された当時の城壁のライン
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浦添家の屋敷跡とのこと
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こうした敷石がありました
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これは南東方向だが、日本軍の司令部のあった逆側の首里を見渡すことができるため、両群が激しく争った
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アメリカ軍が浦添城北側断崖をカーゴネット(縄梯子)でよじ登り、山頂で日本軍と激闘を繰り広げたと。深い気持ちで、礼しました。
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こうした拝所のような場所があちこちありました
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浦添グスク頂部の鍾乳洞が発達し陥没したドリーネが御嶽となったも、『琉球国由来記』の「渡嘉敷嶽(神名:渡嘉敷オヒヤ御イベ)」がここに当たると考えられています。
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ウマチー (祭祀) などの年中行事の際に村拝みが行われる御嶽で、戦前はデイゴの木が生えており、それが名前の由来と。
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やはり奥までは入らず、外から礼しました。
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浦添城の殿(とぅん・祭場)
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木がアーチの様になっています
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南奥に遺跡があるようですが、、、
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これは西方向に帰る途中、右下にあるのが、先に示した碑にあたります。
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ここから左折して南へ、途中にはこうしたガマ
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最近整備された遊歩道ですが、山道です
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ワカリジーですね
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浦添城跡の東南端にある岩で、頂上の標高は148mと史跡内で最も高い場所。『琉球由来記』(1713年作成の琉球王国の地誌)には浦添グスク内の御嶽について記述があり、その中の「小御嶽」はワカリジーにあたると考えられています。
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「為朝岩」とも呼ばれることもあり(明治時代になって付けられた)。英祖王と女神職のウシキベーとの間に生まれたイソノシー(伊祖の子)を祀った場所とされ、主に前田集落から信仰されます。
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帰りは北方向に戻りつつ、山川ガ-の方向から、ショートカットで公園外に出られました。
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小道を抜けて、浦添前田駅のエスカレーターのところに出てきました
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首里城近くのお店で、お昼です.七星食堂ソーキそば
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スイドゥンチアト
尚真王代(1477~1526年)琉球王国の神女組織が護備され、最高女神宮「聞得大君加那志」 の下、真壁(マカン)・首里(シュイ)・儀保(ジーブ)の「大阿母志良礼」と呼ばれる3名の高級女神官が置かれ、琉球全域のノロを3区域に分けて管轄させました。「首里殿内」は、高級女神官の一人首里大阿母志良礼が居住した殿内です。 -
首里大阿母志良礼は首里三平等における南風之平等を管轄し、南風原、大里、佐敷、知念、玉城、具志頭、金武、恩納、大宜味、国頭、伊平屋、伊江の各間切の祝女を配下に従えていました。三年に一度(旧暦の九月)、国王は聞得大君を従え首里殿内のヒヌカンの前で豊作祈願を行いました。現在、首里殿内跡には赤田クラブ(公民館)が建っています。
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閑静な住宅街を抜けて、こちらから外側を巡るルートもあるようですが、継世門に向かいます
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南側の入り口につきました。
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見事な曲線と空
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外郭の門であり、日常の通用門でもあり、世継ぎが通った門
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内郭の門、美福門
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つつましやかな感じですね
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その手前右に、アガタ御ジヤノ御嶽、発掘当時の写真がありました
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アガタ御ジヤノ御嶽は「赤田御門の御嶽」とも呼ばれ、首里城の正殿東側に位置し、城内で最も神聖な場所の一つ
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しばし城壁内にそって東を回りますと、北西方向を臨む高台に差し掛かります
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北方向におりますと、「よせうちのうたき」へ。復元され、少しひろいエリアになっている。
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女官たちが休憩していたともいわれる洞窟、御嶽ですね
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ガマがいくつか連なっており、先の浦添ようどれを思い起こさせる
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かなり奥深くまで掘られていたのでしょう
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正殿東側の一帯は「御内原(おうちばら)」とよばれる国王やその親族の私的空間である。
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王妃を頂点とする女官組織のもとに多くの女性が仕えており、「淑順門」は「奥」の世界へ通じる門。
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「右掖門」は歓会門、久慶門から淑順門へじている門で、直線で約160メートルの石畳道が続いている。
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ここより中が御内原(おうちばら)
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ここを西へ向かうと、歓会門へ
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そして久慶門にでてくる
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手前にはガー、井戸があり水が出てくる
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北上して円鑑池を臨む
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右手には工事中の円覚寺跡
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1492年、尚真王が父尚円王の追福のため建立、京都の臨済宗僧芥隠禅師が開山。禅宗七堂伽藍を備え、戦前には総門、三門、仏殿など9件が旧国宝に指定されていたが、沖縄戦ですべて失われたとのこと、悲しい
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現在再建しているようですので、悦ばしい限りです
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振り返ると、再建なった正殿が見えてきます
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堀の天女橋(観蓮橋)を渡ると、、、
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ご神木があり、弁財天堂です
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高麗版大蔵経がまつられているらしい
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ここお堀にはカモが泳いでいましたし、木陰に猫も休んでました
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天女の碑があります
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由来はよくわかりませんでした、、
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その先には第32軍司令部壕の第一坑口、首里城地下に直線距離にして約375m、壕の総延長は約 1,000mと推定され、岡山中部第52部隊や沖縄師範学校鉄血勤皇隊の学徒200名、また女性たちも構築に動員されたと。心を込めて、お祈りさせていただきました。
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こちらも歴史ある、石門と御嶽です
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そのひやんうたきいしもんと御嶽は、国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所で、聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した国家の聖地
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しばし歩きて、玉陵に参ります
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第二尚氏の歴代国王の墓。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。
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展示館である玉陵奉円館前に、歴史ある案内板
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しばし歩くと、こうした聖なる木々
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沖縄戦前は墓守が番をし、琉球王国時代には墓参りの国王が休憩したという御番所がある。こちらは西、奥には東の番所あり。
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前門、後門
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東室、中室、西室の3つの墓室がのぞめる
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王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
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そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したという
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尚家20代当主尚典の夫人である祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいないそうです
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玉陵碑
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最後に、崇元寺公園を訪れました
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やはりここでも立派な樹木があり、その根元には拝み所でしょうか
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それにしても神々しいですね
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琉球王国の国廟とされ、歴代琉球国王の神霊位を祀り、さきの円覚寺とともに琉球双璧の名刹だったが、沖縄戦により焼失したのです
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石門(第一門)のみ修復、すばらしい静けさ
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若者が2人、この木陰でやすんでいました
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さて、無事に美栄橋近くのホテルに戻ります。
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夜は仲間と近くの居酒屋さんに向かいました。おさしみやお肉、食べたことのない炒め物などいただきました。
続きは②でお会いしましょう。
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