2025/10/04 - 2025/10/04
142位(同エリア158件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 800,267アクセス
- フォロワー16人
この旅行記のスケジュール
2025/10/04
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
筑豊のセンター飯塚市、
筑豊三都(直方/飯塚/田川)の中で圧倒的人口を擁します。
長崎街道の宿場町/筑前六宿として、近世に繁栄しました。
筑豊炭田閉山後は、道路整備に伴い筑豊の十字路としての機能を回復し、福岡市のベッドタウン/学園都市として君臨します。
平成/昭和の大合併以前のコアな飯塚を見て回ります。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
旅のはじまりは、JR新飯塚駅。
飯塚駅もありますが、中心はこちらです。新飯塚駅 駅
-
駅周辺は、高層住宅が林立。
福北ゆたか線の整備で、乗り換えなしで博多まで行けるようになり地位が向上しました。R201バイパス(片側2車線)の整備で、福岡市内までアクセスが良くなりました。 -
駅の裏側には、地域経済を牽引する麻生グループオーナーの広大な本宅があります。麻生セメントが筆頭でしょうか。
麻生大浦荘 名所・史跡
-
羽田/福岡空港内でお馴染みの広告。現会長麻生泰氏は麻生太郎元首相の実弟で、太郎氏も1979年に政界入りするまでは社長を務めていました。
-
隣には飯塚市歴史資料館があり、飯塚市の歴史を学べます。
写真撮影は禁止でしたが、現在はSNS等にアップしない個人使用に限ってOKとなっています。
立岩遺跡と伊藤伝衛門(大正鉱業創業者)の内容が充実しています。(麻生家と違い)伊藤家が政財界との関係が無くなり、ニュートラルな関係だからかと思います。飯塚市歴史資料館 美術館・博物館
-
新飯塚駅前へ戻ります。
駅と遠賀川の間には飯塚市役所が建ち、市の中心だと分かるアイコンです。 -
駅前の反対側には、スーパーマーケットASO。麻生芳雄商事(芳雄は地名)として始まった麻生グループの一員です。ちなみに、このお店の住所は飯塚市芳雄です。
-
その先には、半端ないスケールの飯塚病院。
1918年に麻生炭坑病院として始まった、麻生グループの一員です。 -
地域医療の要です。
院内のローソンは、もちろん麻生芳雄商事がオーナーです。 -
敷地内には、看護大学校も。
麻生Gは、各種専門学校も揃っています。 -
その先は、芳雄橋。橋の向こうはアイタウン。
-
橋の手前、看護大学校沿いの歩道には、旧橋の親柱が保存展示されています。
-
遠賀川(手前左)と穂波川(右)を横断します。
-
芳雄橋は、筑豊富士(ボタ山)が最も美しい角度で眺められるスポットとして知られます。
-
芳雄橋の隣、R201上の新飯塚橋からは、穂波川が遠賀川に合流する地点を眺められます。
上流から順に、穂波川が遠賀川に合流する飯塚宿、彦山川が遠賀川に合流する直方宿、犬鳴川が遠賀川に合流する木屋瀬宿、以上が遠賀川の三大支流です。 -
先ほどの麻生本邸(大浦荘)敷地の角には、立岩交差点があります。
写真には、新飯塚橋からR201が田川/行橋へ向かって続く様子です。 -
R201から福北ゆたか線(JR筑豊本線)に沿って折尾方面へ向かうと、立岩丘陵地が現れます。
神武天皇東征の際、この地で嵐に遭い停滞したので神々に祈ります。すると天より岩塊が稲妻と共に落ち、嵐が止んで戦にも勝利したそうです。これが立岩丘陵の起源とされます。 -
丘の上には熊野神社が。
-
境内には、旧笠松村役場跡の石碑が。1909年に飯塚町と合併するまでの出来事です。
-
斉明天皇の治世中(朝倉宮が造営された661年)に異人(時期的に百済人と思われる)が持ち込んだ疫病が流行し、お告げに従って大宰府長官に許可を得て熊野神を祀ったところ止んだという縁起があるそうです。
-
丘の上の境内からは、市役所が見えます。
-
熊野神社を後に、立岩小学校を目指すと立岩遺跡があります。
-
立岩遺跡
丘陵地に分布する遺跡群の総称で、弥生時代のものです。前漢の銅鏡/甕棺が多く出土し、多くの出土品が国の重文に指定されています(市博にて展示)。当時の文部大臣は外部さんでした。
立岩遺跡群のなかでも、立岩堀田遺跡のことを単に立岩遺跡と呼びます。グーグルマップでも、立岩遺跡でヒットします。 -
飯塚の最初のピークは、弥生時代に訪れます。現在の宮若市との境界線上に位置する笠置山で産出する輝緑疑灰岩は、稲の穂を摘む上で不可欠な石包丁の原料になりました。
-
立岩製の石包丁は九州北部で出土し、製造を独占した立岩のムラには中国(前漢)渡来の物品が出土し、富を蓄えていたことが分かります。
魏志倭人伝に登場する「不弥(ふみ)国」は、飯塚の立岩だと言われています。 -
立岩遺跡を学術的に発見したのは、九州帝国大医学部教授の中山平次郎です。彼は元寇防塁を命名したり、平和台球場跡の鴻臚館の位置を特定したり、考古学に多大な貢献をしている医学者です。
-
再び新飯塚橋を渡り、片島1丁目交差点を左折して旧長崎街道へ突入。
-
白藤醤油醸造元
江戸時代創業のお店です。 -
家屋に歴史を感じます。
飯塚第二のピークは、九州の幹線道路が秋月街道から長崎街道へ付け替えられたことです。峠の開削を含む長崎街道設営は交通革命となり、参勤交代が義務付けられると交通量はピークに達します。 -
オランダ屋敷跡
長崎のオランダ商館長一行が、江戸の将軍を表敬訪問する際に宿泊しました。出島を離れることは原則禁止ゆえの措置です。外出の自由はありませんでしたが、訪問する側は自由でした。 -
祇園社/八幡宮/天満宮と3つの参道が並列します。手前の祇園社の鳥居と階段は、明治期に増設されました。
実は、飯塚の地名由来の地です。 -
曩祖(のうそ)八幡宮
神功皇后が三韓征伐の帰途、ここに祭壇を設けて神霊に戦勝報告し、九州の兵士と別れました。「またいつか会おう」と再会を誓ったことから、「いつか」が「飯塚」になったとされます。
ヤマト政権の穂波/鎌屯倉(みやけ:天皇家の直轄地)から上がる年貢米を保管する納所(のうそ)がここに置かれたことから、曩祖と名付けられました。曩祖八幡宮 寺・神社・教会
-
納所の杜/結びの石
神功皇后が祭壇を築いた場所とされ、結びの石の左側を男性/右側を女性が歩いて向かい合い、思いを伝えると縁が結ばれるとされます。結びの石の起毛は、黒田家当主によるものです。 -
宝月楼跡
曩祖八幡宮を下りて、街道を進むと左側に寶月樓跡の石碑が。豪商の別荘で、文化の発信地でした。 -
東構口
ここから飯塚宿です。方角に関係なく、街道基点側の境界線を東とします。構とあるように、石垣の上に築地塀を巡らし、塀の上は瓦葺きでした。防衛を重視した構造です。門と門番が配置され、夜間は閉門しました。長崎街道 飯塚宿 名所・史跡
-
R201を横断するとアーケード付きの本町商店街となります。
右方向は博多往還、左方向は日田へ向かう日田街道です。飯塚本町商店街 市場・商店街
-
直線でない通路が長崎街道に並行しています。実は、飯塚川の暗渠です。遠賀川/飯塚川を通して宿場から直接、川船へ荷下ろし荷積みをできました。
-
川船を繋ぎ止めた舫(もやい)石が暗渠上に展示されています。
実はイミテーションで、実物は市博に展示されています。 -
アーケードをしばらく進むと創業150年超の総菜屋があり、その向かいに問屋場跡があります。
-
問屋場跡
宿場機能の要で、流通拠点です。牛馬/人足が常駐し、両隣の宿場まで荷物や人を運びました。大名行列などはキャパをオーバーするので、近隣の村々から人馬を徴発しました(助郷)。裏側は飯塚川で、川ひらたが問屋場に乗り付け、係留するための舫石が並んでいました。 -
通行人の目を楽しませる店
-
頭上には、からくり時計が。10-18の正時に作動します。
脇本陣「長崎屋」の跡地です。宿泊施設はレベル順に本陣/脇本陣/旅籠/木賃に分かれ、脇本陣は中上級武士が利用しました。
ちなみに、もう一つの脇本陣は「薩摩屋」です。飯塚本町商店街からくり時計 名所・史跡
-
福岡銀行飯塚本町支店
十七銀行飯塚支店として1924年に築造。 -
実際に営業している店舗としては、九州最古の建築です。石炭産業で栄えた時期に開設されています。
-
黒ポスト
明治4(1871)年に近代郵便制度が始まった際に、設置された郵便ポスト。東京~大阪間でサービスを開始し、年内に小倉~長崎間でも始まります。当時は、東海道/西国街道/長崎街道の宿場町にポストが設置されました。 -
1901年に森鴎外が小倉師団軍医部長として演習参加時に飯塚宿に宿泊したことを記念する石碑。呉服店島田屋の裏座敷に宿泊、その後地場系百貨店の井筒屋飯塚店が建ち、現在は駐車場になっています。
-
右折して街道を離れると、小さな丘があります。片島交流センターを目指します。
-
飯塚/飯の山
丘の上の交流センター/駐車場の向かいには、丘のサミットがあります。かつて明正寺が建ち、大量に余った飯を集めたら塚のようになった(飯塚)という逸話があります。 -
神功皇后の「いつか」と併せて、飯塚の由来とされます。
-
御茶屋跡
第一義は(黒田家福岡)藩主別邸で、外出の際に休息/宿泊する場所です。領内各地に点在します。次いで、宿場の本陣となります。長崎奉行/西国大名が参勤交代で宿泊する際に、大名と家老格が宿泊しました。飯塚宿には1640年に開設されます。先述の明正寺を立ち退かせて開設しました。 -
勢屯り跡(せいだまり)
参勤交代時、先鋒隊/槍持ち等が出発に先立ち隊列を整えた場所です。いわゆる広場です。有事は、藩士が集結して戦闘に備え立て籠もる場所になります。 -
勢屯りは、御茶屋開設で麓へ移転させられた明正寺の境内に設置されました。周囲は寺町になっており、宿場町/城下町の寺町地区は広場にできるスペースが多いので有事の軍事拠点となるように都市計画されました。
-
寺町の情緒ある光景
-
石炭マネーで潤っていた頃のレンガ建築
そのまま長崎街道を横断して、県道へ向かいます。 -
飯塚郵便局内には、住吉宮跡の石碑が。
夢のお告げで川底から引き揚げた石神を祀りました。
住吉の名の通り郵便局裏に飯塚川が流れ、船頭町と呼ばれる船頭の居住区で、住吉神に航行の安全を願いました。
1963年まで市役所が建ち、移転後は郵便局になっています。 -
後ろを振り返ると、井筒屋跡の広大な駐車場と福岡B/長崎街道のアーケードが見えます。
-
もう少しR211を進むと、郡屋跡が。藩の郡役所で、代官/下代/庄屋と組頭(地役人)が穂波郡内の事務等を行いました。参勤交代時には、近隣の嘉麻郡にも人馬調達の調整を行いました。
-
道路を渡って、東町商店街へ移ります。
-
現在はR211ですが、元々は飯塚川が宿場を横断していました。白水橋が架かっていたことを示す欄干の一部が残っています。
飯塚川は冷水峠に端を発し、水量豊かな川でしたが1975年に埋立てられました。 -
長崎街道が赤色の実線で示され、右側を飯塚川が弧を描くように延びています。
-
東町に突入。
-
長崎街道は、突き当りを右折します。
-
突き当りには、往時の宿場の姿が描かれています。
-
右折するとアーケードが消えます。
右側に大神宮跡の石碑が建ちます。 -
振り返るとこんな感じです。
1706年に元神石と刻まれた光る石が発見され、祀りました。
1909年に移転すると井戸が掘られ、その水で神酒を造りました。 -
麻生酒造が「神の栄」という銘柄等を生産していましたが、数年前に取り壊されて駐車場になっていました。現在は祠と井戸跡が残ります。
-
大神宮/麻生酒造跡の先を左折します。
-
西構口
暫く進むと、観音堂の向かいに西構口の石碑が。長崎寄りの入口で、やはり石垣/築地塀/瓦屋根が続く門がありました。入口には、入口屋という屋号の店もありました。 -
長崎方面へ進むと、穂波川を渡ります。
-
当時は船で渡りましたが、1913年に向町橋が架設されます。1972年に木橋は取り壊され、徳前大橋が役割を担います。現在は親柱が保存展示されています。
-
来た道を戻ります。
アーケードの突き当りを左折して長崎街道を外れ、直進すると劇場等の繁華街が現れます。 -
「筑豊案内所」横の路地は、スナック街。
-
さらに進むと、レトロな繁華街。料理屋が多くなります。
-
嘉穂劇場(1931)
歌舞伎舞台の伝統を受け継ぐ木造劇場で、現役で公演が行われています。
飯塚第三のピークは石炭需要です。筑豊御三家と呼ばれる貝島/安川/麻生と次点の伊藤家を中心に炭鉱開発され、中心地の飯塚は繁栄します。安川電機は特殊機械で市場を席巻し、麻生鉱業はセメント(石灰石採掘)へシフトして時代に対応します。嘉穂劇場(飯塚市) 名所・史跡
-
飯塚市街には、麻生太郎氏の選挙区事務所があります。
1932年に市制が施行され、昭和/平成の大合併を経て現在の市域が形成されます。 -
東構口近くのR201沿いには西鉄飯塚バスターミナルがあり、筑豊旅行の基点となります。新飯塚駅とは800mほど離れています。
-
新飯塚駅前には、千鳥饅頭でお馴染み創業400年の老舗菓子屋があります。
千鳥屋本家 飯塚本店 グルメ・レストラン
-
おまけ
新飯塚駅と大浦荘の間にあるうどん屋さん。豚骨王国、資さんうどん王国にあって、伏兵的存在。津田屋式豊前裏打会の一員です。麺や 長政 グルメ・レストラン
-
黄色い腰の弱い麺は最高、天ぷらも注文があってから揚げてくれます。ぜひ一度お試しを。
次は、内野宿を目指します↓
https://4travel.jp/travelogue/12010142
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
飯塚・中間・直方(福岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
79