2025/10/13 - 2025/10/13
148位(同エリア158件中)
gianiさん
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穂波郡/御笠郡の境界にあたる冷水峠を控えた内野宿は、長崎街道整備に伴って整備された人工の街です。街道に鉄道が開通して100年にも満たず、宿場町として昭和まで繁栄したこともあり、懐かしい光景が残ります。公共交通機関は、数時間に1本運行の筑豊本線のみです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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内野宿を目指して山道を進みます。
山口川が穂波川へ合流します。
R200に沿って、長崎街道の旧道が走ります。 -
味のある水場があります。
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ここまで来ると、穂波川も細くなります。
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線路沿いにはコスモスが。
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横山峠には、街道の標識が。
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筑豊本線も単線になります。
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上り坂なのが分かります。
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のんびりと登ります。
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筑前内野駅に到着。
筑前内野駅 駅
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駅から長崎街道へ戻ります。
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内野小学校沿いにあった案内板
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東構口跡
飯塚/小倉側の入口です。往時は門と門番が配置され、厳重に管理されていました。ここから600mが内野宿です。 -
松浦川を渡ります。
右手前には、旅籠の若松屋が営業していました。 -
川沿いに歩けます。
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橋を渡ると、郡屋跡の標示が。実際は街道沿いではなく、左の道を入った奥にありました。筑前福岡藩が各郡に置いた役所で、代官をトップに下代/村役人(大庄屋)が必要に応じて任務を遂行しました。内野宿の郡役所で重視されたのは、大名行列の際の人足手配です。
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斜め向かいには、古い住宅が。
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歴史を感じさせます。
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その先には、松屋跡の標示が。主屋は江戸後期のものです。
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松屋は造酒屋で、山内家が財を成し、多角化経営の一環として創設/分家します。昭和初期まで営業していました。「松浦川」という銘柄が著名です。
松屋の向かいには、麹を製造(培養)していた「麹屋」が営業していました。 -
麹屋の隣は、甘木屋が。
島原藩御用の物資運送に携わっていました。
その奥には、正円寺が。1550年に大友宗麟の弟八郎が家督争いで内野へ逃れるも、1556年に寺を焼かれた上に老臣も殺され、八郎は仏門に入り庵を結んだのが始まりです。 -
右には人馬継所跡、左には油屋(荒物屋)跡の標示があります。
右側には、小路が分岐します。 -
甘木屋と油屋の間(現在は空き地)には、脇本陣の薩摩屋が建ちました。なぜか標示が外されています。脇本陣は本陣に次ぐ格を持つ宿屋で、長崎街道筑前六宿には中茶屋/下茶屋の2軒ずつ、屋号は「薩摩屋」「長崎屋」に統一されていました(黒崎宿のみは関屋と八幡屋)。
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人馬継所跡
一般に問屋場とも呼ばれ、荷物を運ぶための人馬が常駐していました。名前にあるように、隣の宿場までリレー式で物流を担いました。民間委託され、内野宿では角屋が担いました。 -
T字路を挟んで、今までの部分が下町、この先が上町となります。小路を進むと御茶屋や庄屋屋敷等があります。
内野宿及びこの先の冷水峠は、母里太兵衛友信が開設工事を監督しました。内野宿 名所・史跡
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母里太兵衛友信
黒田二十四騎士の中でもトップクラスで、戦の際は片翼を担いました。槍の名手で、黒田節でお馴染みで、使いとして福島正則に謁見した際に大杯に注がれた酒を一気に飲み干しました。写真は、博多駅前の銅像。 -
えびす碑
角屋の小路側の部分にあります。長崎街道では、商売繁盛の恵比須信仰が盛んでした。小路とありますが、天満宮へ通じる太宰府天満宮米山越道というルート上でした。内野は鎌倉時代に太宰府天満宮の社領になって以来、深い関係にあります。 -
現在は、JR筑豊本線が横断するので、踏切を渡ります。
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庄屋屋敷跡
村のトップにして、地役人を兼ねます。 -
石碑から、山内家と分かります。山内家の本家で、酒屋も営みました。
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さらに山道を進むと、
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御茶屋(本陣)跡
御茶屋とは藩主別邸、本陣は宿場で最高格の宿で高貴な身分でないと宿泊できませんでした。福岡藩では、御茶屋を本陣としても使用しました。具体的には、長崎奉行等の幕府高官、西国大名が参勤交代時に宿泊しました。藩主は、ここに宿泊して鷹狩を楽しみました。 -
御茶屋の先で、宿場は途絶えます。その先は太宰府天満宮です。
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御茶屋跡の看板の先には、大イチョウの木が見えます。樹齢400年で、江戸時代から宿場のアイコンの一つでした。
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御茶屋の向かいには、代官所がありました。
長崎街道方面へ戻ります。 -
線路を渡らずに右折すると、
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盤石(ばんじゃく)橋
1736年の銘があります。付近を流れる小川に架かっていました。 -
宗賢寺の境内には、内野太郎左衛門の墓があります。
戒名の卜祐宗賢居士の刻が目印です。
母里友信に別の藩命が与えられたため、最終的に内野宿を建設した人物です。宗賢寺 寺・神社・教会
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内野太郎左衛門
土豪だった太郎左衛門は、長崎街道最難関の冷水峠を開削し、藩主黒田長政から内野姓を賜り、戒名には長政の(戒名の)一文字「祐」を賜ります。内野宿/冷水越え完成後に長政の死後は出家して当所に庵を結び、死後に宗賢寺が設立されます。 -
長崎街道に合流するT字路まで戻ります。
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肥前屋跡
参勤交代で通行する佐賀藩に因んだ名前の旅籠。内部は資料館になっていますが、長期休業中。内野宿展示館 美術館・博物館
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肥前屋の隣は小倉屋跡。1880年築。
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小倉屋
元禄より内野に居を構え、両替商/質屋等を営んだ地主宅。商売が軌道に乗ると、金融業を始め、利鞘の大きい醸造業に手を伸ばすのが、江戸/明治の商い一般則です。 -
壁を見ると、煉瓦の上に漆喰を塗った跡が。嗜好の変遷を感じさせます。
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向かいには、三辻屋跡が。
油屋でした。一言でも説明あると、当時の景色を想像できます。 -
隣は、旅籠の博多屋跡。
旅籠には、飯盛女(娼婦)のいる店が多かったようです。参勤交代や御用(幕府役人の通行時は無償で賦役)が重なって疲弊した宿場町に対する見返りで、遊郭以外での娼婦配置が黙認されました。 -
長崎屋跡
薩摩屋と並ぶ脇本陣の一つで、博多屋の隣に位置します。無料休憩所になっていますが、現在長期休業中。内野宿 長崎屋 美術館・博物館
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長崎屋の壁を越えると
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大庭家
1779年築の建物。この辺りから上町になります。 -
宿場に沿って、川が流れます。当時の階段が残ります。
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大黒屋
旅籠を営業していました。 -
伊藤家
1910年頃の建築です。 -
地味だけど、味のある街並みです。
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R200が穂波川沿いに建設され、時代から取り残されたことが功を奏しました。
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赤レンガの壁です。明治以降、贅沢のシンボルでした。
物流の主役が徒歩から鉄道に代わるまで、内野は栄えました。1929年の冷水トンネル貫通に伴う筑豊本線開通に伴い、内野宿は寂れていきます。 -
西構口跡
ここで宿場は終わりです。 -
宿場の先は関野地区。
宿場の繁栄に伴い、老松神社まで街並みが続きました。内野老松神社 寺・神社・教会
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老松神社は、太宰府天満宮の御神木だった老松が神格化されたものです。1248年に太宰府天満宮領となったことがきっかけで祀られました。
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西構門の先にも宿場町が拡大したので、西構口の先に大門を構えて門の開閉と門番による通行チェックが行われました。この先は最難関の冷水越えです↓
https://4travel.jp/travelogue/12011074
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