2025/09/30 - 2025/10/01
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あるさん
河内奈良と万博を巡った1泊2日の旅行記です!
1日目は天誅組の足跡を辿り、2日目は万博を満喫するという、ツアー企画としては即没案であろう旅の記録です笑
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万博訪問を兼ねて、夫婦で大阪奈良旅行に行ってきました。1日目は大阪奈良を巡る旅です。
6時11分新横浜発の新幹線に乗り、8時16分新大阪着。御堂筋線、南海線を乗り換えて、9時22分に河内長野駅に到着しました。河内長野駅でレンタカーを借りて、写真の観心寺に到着したのが10時頃です。
始発電車から4時間越えの強行軍で、往路はほぼ寝てました笑 故にいきなり観心寺前の写真からスタートです笑 -
観心寺前には楠木正成の銅像がありました。楠木正成は8~15歳の間、この観心寺で学んでおり、正成ゆかりのお寺として有名です。
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入山料300円を支払い境内を進むと、正面に国宝の金堂が見えてきます。受付でもらったパンフレットによると、こちらは後醍醐天皇の命を受けて正成が造営したものだそうです。
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写真右手が先ほどの金堂。一方左手に写っているのは建掛塔(たてかけのとう)と呼ばれる建物です。珍しい名前の建物ですが、こちらも正成が三重塔として建立を進めていたところ、1336年に湊川の戦いで戦死してしまったため、一階部分で造営がストップしてしまい、文字通りたてかけの塔となってしまった建物だそうです。
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境内には楠木正成の首塚もありました。湊川の戦いの後、正成の首は一度足利尊氏の元に渡りますが、その後尊氏から観心寺に送られ、こちらの地に埋葬されたそうです。
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境内の奥には、後村上天皇陵がありました。後醍醐天皇の子供で、南朝二代目の天皇ですね。
湊川の戦いの後、後醍醐天皇は勢いを増した尊氏に京都を追われ、逃れた先の吉野で南朝を樹立します。後醍醐天皇から南朝のバトンを受けた後村上天皇は、動乱の中で賀名生や住吉など行宮場所を転々としますが、一時期にこちらの観心寺を行宮場所としていました。また、火葬されたのもここ観心寺ということで、天皇陵がこの河内の山奥にある、ということだそうです。ちなみに後醍醐天皇は吉野、後村上天皇は河内に陵墓がありますが、以降の天皇陵は大正に至るまで全て京都府内にあるそうで、南北朝という時代の特殊性を感じられますね。 -
天皇陵までは写真の階段を上がっていく必要があり、なかなか足と精神にきます…。
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階段を登りきると、開けた場所に陵墓がありました。
後村上天皇は激動の時代にあって、行宮を転々と変えながらも、度々京都を奪還したり、時には幕府の担ぐ北朝の天皇の拉致に成功したりと、南朝存続に尽くし、激動の人生を歩まれました。次代の長慶天皇は京都に陵墓が治定されており、南朝でも後醍醐、後村上という二代だけが京都外に陵墓があります。 -
観心寺の入口に戻ってきました。さて、本題遅くなりましたが、今回何故観心寺に立ち寄ったかというと、幕末に名前を轟かせた天誅組の足跡を訪ねる旅をしてみたかったからです。
1863年、孝明天皇が攘夷祈願のため大和に行幸されることを知った尊攘派志士たちは、京都を発ち堺経由でここ観心寺に集まりました。行幸に先立ち、自称先鋒隊として大和に乗り込むことを決めた彼らは、ここ観心寺で正成首塚、後村上天皇陵に戦勝祈願をしたそうです。
尊皇攘夷のバイブル「日本外史」では、主君である天皇への忠誠を尽くした楠木正成が理想の人物であると称賛されています。幕府殴り込みの前に皆でそこにお参りするというのは、余りにもそのままというか、情熱的、若さとも言えるかもしれませんが、幕末特有の熱っぽさを感じますね。 -
観心寺を後にして、11時頃、金剛山の登山口に到着しました。こちら大阪府最高峰の山だそうで、登山用の服装をした方ばかりでした…笑
我々が目指すのは千早城で、登山道の途中までしか行かないということで、軽装にて登っていきます! -
こちらが千早城の案内図です。
今回我々は地図右上のバス停近くに駐車(600円)し、「千早シイタケセンター」と書かれた所(今はおしゃれモンベルになってました…)にある100名城スタンプを押した後、時計回りで林道~本丸~二の丸…という順路で歩きました。 -
林道はこんな感じです。分かっていましたが、しっかり登山道です笑
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15分ほど登ると分岐があり、左手が金剛山山頂、右手が千早城となります。登山の方は数名いましたが、右手に進む人は我々だけでした笑
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こちらは二の丸跡に建つ千早神社です。千早城が築城された1332年に創建され、その後一時廃れていたものの、1884年(明治7)に社殿が再建され、1935年(昭和10)に現在の社殿が整えられたそうです。
楠木正成という人物について、司馬遼太郎さんは「街道をゆく 河内のみち」で以下の通り述べています。長いですが核心ですので引用します。
「徳川初期に水戸光圀が主導した水戸史観によってかれは正義の座にすえられ、幕末、幕府を倒そうとする志士たちにとってたとえばマルクスのような存在になり、ときには日本における革命の神ともいうべき戦慄的な名前になった。維新後、国史教育は水戸史観を継承したから正成は日本史上の神聖英雄の座についたが、しかしその寿命は八十年で尽き、太平洋戦争の終了とともに、かれを賞揚した宋学的な観念論史観は戦犯的なものとして追いやられ、それと同時に正成の名は教科書から消えた。あるいは消えたも同然になった。賞揚も無視も、正成の死後、はるか後世におこなわれた現象で、この河内びとにとってあずかり知らぬところであった。」 -
こちらは四の丸跡の広場です。城跡ここが一番開けだ場所だったかと思います。
静かで穏やかな、そして無人の場所でした笑 -
こちらは表参道の階段です。城跡の裏手から進んできましたので、最後にこちらの階段を下ります。階段は約560段あるそうで、上りはなかなか大変そうです…。
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表参道階段下、千早城の概要案内がありました。もう概要としてはこちらの説明書が全てなのですが、難攻不落の千早城を体感できて幸せでした!
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12時に千早城を発し、13時頃奈良県五條市に到着しました。
幕末期、奈良県はその多くが天領(幕府直轄地)であり、北部は奈良奉行所が置かれ、南部は五條代官所が七万石相当の管理を行っていました。現代で言えば、奈良県庁と奈良県警の五條支所といった感覚でしょうか。一方で、五條に限らず天領の代官所は機構としては大きなものではなく、10名程度の吏員がいるのみだったようです。
またここ五條は天領でありがら、尊王の気風が強い十津川への玄関口でもあり、天誅組の旗上げに格好の標的と言えました。 -
こちらは五條市郷土資料館です。天誅組が襲撃した五條代官所の長屋門を移築し、天誅組に関する資料館として公開されていました。
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資料館入口には説明板がありました。
補足ですが、天誅組参加者によって書かれた「天誅組大和日記」という史料を見ると、志士たちは8月14日に京都を出発、17日昼前頃に観心寺に到着、14時頃観心寺を出発、千早経由で17時頃に代官所を襲撃したと書かれています。
観心寺から代官所までは、今のトンネルありの直線的な道を結んだとしても20キロ程度あります。移動に3時間とすると、時速で6~7キロ、早足あるいはジョギング程度のスピードでしょうか。そして小休憩の後引き続き対人の斬り合い…芭蕉のおくのほそみちもそうでしたが、昔の人は歩くのが早いですし、本当に体力がありますね…。 -
資料館内には天誅組が移動した順路をまとめたパネルがあります。写真が小さいですが、左上の大阪から入り、五條を経由して高取まで進むところが、今回の旅でのルートとなります。
天誅組は、五條代官所襲撃時には70~80人でしたが、十津川の民衆を引き入れ最大勢力は1000人程であったそうです。しかし代官所襲撃の翌日に京都で八一八の政変が起きたことで、彼らは朝廷の後ろ盾を得ることが不可能となってしまい、高取城奪取を企図するなど大和国で転戦するも虚しく壊滅します。 -
資料館には天誅組グッズが売っています。種類、量ともに充実していましたのでいくつかご紹介を笑
まずは子供向けの天誅組かるた。「せ」は「せいいっぱい 戦ったのは 天誅組」です。これは英才教育不可避ですね笑 -
そしてCDも売ってました。曲はずばり「あゞ虎太郎」です笑 Apple Musicでは流石になかったですね笑 某大手動画サイトでは聴けましたので、気になる方はぜひどうぞ笑
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昼ごはんは「柿の葉ずしヤマト五條本店」さんに入りました。味が美味しいのはもちろんなんですけど、写真のお造り御膳がなんと990円という虎太郎も感涙の値段設定に驚きました笑
妻は天ぷら御膳を注文しましたが、これも990円。五條お立ち寄りの際は、おすすめです笑 -
五條を後にし、北東に進むこと40分ほどで、高取城に到着しました。事前調べでは、本丸近くに広い駐車場はないため、山の中腹にある壷阪寺の駐車場に駐車をして徒歩での散策が推奨されていました。が、壷阪寺から本丸までは徒歩で1時間程度かかるようで、とりあえず本丸行ってみるだけ行ってみようということでチャレンジしてみました。
そしてこれが終着点の城跡前スペースの写真です。3~4台は停まれる広さがあり、今回は無事城跡目の前に停車することができました。ただ、今回は平日の15時頃ということで誰もいない状況なので運が良かったのかなという感じもします。ここまでくる道はすれ違いできない道幅の区間も長く、混雑時にここまで車で上がるのは勇気がいるなーという印象でした。 -
こちらが高取城の地図です。今回私達は、地図左下の現在地と書かれた場所に駐車をし、壷坂口門から城跡に入っていきました。
高取城は、1332年に、南朝に味方する越智家の手で築城されました。戦国期に一時破城された時期もありますが再築城され、豊臣秀長が大和を治るにいたり吉野熊野の抑えとして現在のような大規模な城郭に整備されました。江戸初期に譜代の植村氏が入り、高取藩として幕末を迎えることになりました。 -
壺坂口門へ向かう道は急で、かつ土砂崩れの影響か階段の木が崩れ、非常に歩きにくかったです。この壺坂口に限らず、石垣が崩れていたり倒木のある場所も散見されました。
江戸期にここ高取城は「城常普請」という許可を受けており、他の城のように城の修繕の際に毎回幕府への届出は不要で逐次普請して良いという状況でした。これは山城故に常に破損が多いだろうから、という配慮によるものだそうで、現代でも山城の管理は困難そうな印象でした。 -
高取城は、ここが標高500メートル越えの山の中だとは信じられないほど、立派な石垣が残されていました。これほどの石をどのように運んだのでしょうか…
城は幕末に天誅組の攻略対象となりますが、この山の中が戦場になることはなく、高取藩は大砲を用いることで、城下外にて撃退に成功しています。 -
本丸への道は、可愛いい熊の木彫りが教えてくれました笑 シュールです
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本丸に到着しました。本丸二の丸を合わせて、山の上にかなり広い大空間が存在しています。そしてこの石垣、見事です。
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本丸を一通り歩き終えた後、国見櫓跡に行きました。特段建物の遺構はなく、写真の通りベンチがあるだけなのですが、その名前のとおり、大和の国が一望できる素晴らしい景色がありました。
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国見櫓から本丸へ戻る道です。
司馬さんはこの高取城訪問時に、石垣の蒼古とした様子を「自然林と化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、おおげさに言えば最初にアンコール•ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた」と記しています。この写真のような道を歩きながら、思った一節かなとも思いました。 -
本丸を後にして、麓の観光案内所の夢創館にやって来ました。ここには100名城のスタンプがあるほか、お土産も種類豊富で充実していました。
こちらの裏手にはくすり資料館なるものがあります。ここ高取は薬でも有名で、その起源は飛鳥時代に豊富な薬草を求めてこの辺りで薬狩りが行なわれたことから始まります。江戸期には奈良の薬は全国的にも有名となり、これもまた高名な富山の薬と、販路を巡って度々衝突が起きるほどだったそうです。
飛鳥から高取町までは徒歩で1時間程度。都最寄の山々というところで、昔から薬草の供給地としての需要があったのかもしれません。 -
土佐街道と呼ばれる城下町です。城へと続く一本道沿いに細長い町がある少し珍しい城下町ですね。
名前の土佐は、飛鳥の都造営のために土佐から集められた人が移り住んだことに由来するそうで、奈良には他にも薩摩、吉備、飛騨など、同様の経緯から旧国名を由来とする地名がたくさんあります。
藤原京の推定人口が約5万人らしく、東京で近い市町村を調べると羽村市でした。確かに羽村市民のみで国家運営をするには、失礼ながら何をするにしても人手不足に陥りそうです笑 -
河内長野駅への帰途、途中富田林通過時に、有名なPLの塔が見えました。司馬さんが評して曰く「火星人がつくった蟻の塔」というのが、言い得て妙な見た目です笑
高取城で敗れた天誅組は、追討を命じられた諸藩と転戦しますが壊滅し、本隊のうち大阪まで脱出できたのは7名だけでした。生き延びた者は、こんな哀愁の夕暮れを見ながら、逃避行をしたのかもしれません。 -
18時に車を返し、夕ご飯は道頓堀の「たこ八」さんで、こてこての大阪グルメをいただきました!笑 たこ焼き、お好み焼き、串カツと、大阪を堪能したはずが完全に写真は撮り忘れました笑
明日は歴史巡りを離れ、万博へ行きます。大混雑という噂の中、どこまで見て回れるのか!そして1日で山城2つを攻略した我々の足は、明日は使い物になるのか!乞うご期待!笑
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