1989/12/26 - 1990/01/04
12位(同エリア34件中)
たっくん&ゆうすけさん
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クウェート,サウジアラビア,ヨルダン,シリア,トルコ,イランと国境を接する国,イラクへの旅行記。
旅したのは1989年。昭和天皇が崩御,消費税が導入され,六四天安門事件が起こり,ベルリンの壁が崩壊した年。もちろんスマホはなく,インターネットも一般にはまだ普及せず,多くの人がポケットベルを使用し,海外に出たら国際電話をかける以外には通信手段のなかった時代。当時のバグダードの高級ホテルと言えば,ナイトクラブやカジノなども備えたシェラトン・バグダードやパレスチナ・メリディアンであったと記憶する。
バグダードへは,バンコク経由のイラク航空機で出かけた。機内では,バグダート乗継ぎでアジアに旅行する,同年代の欧州の若者と多く出会った。彼らにイラクには立ち寄らないのかと尋ねたが,イラクに関する知識がそもそも欠落しているようにみえた。旅行記は実際の訪問順ではなく,歴史的年代順に整理し直している。
*
従来の「東洋史+西洋史」の世界史では,歴史は十全に叙述されてはいない。イラクを含むシルクロードの歴史も然りである。歴史をできる限り誠実に記述してみようと思う。
シルクロードの歴史に決定的な影響を与えた人物を3人挙げるとしたら,迷わず次の3人を選ぶだろう。
ひとりは紀元前4世紀の西からの征服者・アレクサンドロス大王であり,いまひとりは13世紀の東からの征服者・チンギス・ハンである。アレクサンドロスはヘレニズムを東方に押し広げ,パキスタン北西部にガンダーラ美術を胎動させ,チンギス・ハンはトルコ系民族の西漸を促したのみならず,ティムール帝国からムガール帝国へと続く系譜の素地を築いた。
この二人の征服者の間に,7世紀にはアラビア半島にムハンマド(彼は言うなれば内からの征服者であった)が現れて,イスラム教を創始した。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)とササン朝ペルシアが争っている間に,ムハンマドの勢力はあっという間に拡大した(正統カリフ時代→ウマイヤ朝→アッバース朝)。アッバース朝の都・バグダードと唐の長安は,コンスタンティノープルを凌ぐ世界の二大都市となった。11世紀にはアッバース朝は弱体化し,一時,小アジア(アナトリア半島)にまで進出したトルコ系のセルジューク朝(1038-1194)の実質的な支配下に入った。
特定の人物の事績に帰することは困難であるが,この間にペルシア系民族の果たした役割も無視することはできない。アレクサンドロスの東方遠征を挟んで,遠征前にはアケメネス朝が,後にはパルティア王国(アルサケス朝),ササン朝ペルシアが興ったが,7世紀半ばにササン朝がイスラム勢力に滅されてから,再びペルシア民族国家・サファーヴィー朝が興るまでには,約8世紀半という長い年月を要した(サファーヴィー朝をペルシア民族国家と捉えることについては,有力な異論がある)。
1453年にビザンティン帝国が滅亡して西方の勢力が退くと,この地で対峙したのは,オスマントルコ(オスマン帝国)とティムール帝国,その後,オスマントルコとサファーヴィー朝ペルシアだった。サファーヴィー朝は,オスマントルコへの対抗上,シーア派を国教とした。このことは今日にまで影響を及ぼし続けている。
[現在のイラクはサファーヴィー朝の支配を受け,とりわけイラク南部地域の住民の多くがシーア派となった。]
イラクの近世までの歴史を大雑把ではあるがまとめておこう。人類最古の文明を生んだメソポタミアは,バビロニア,アッシリアなど古代オリエントの主要な舞台であっただけではなく,パルティア王国,ササン朝ペルシアなどペルシア系民族の興隆の場でもあった。イスラム化してからは,アッバース朝の都・バグダードが,唐の長安と並ぶ世界二大都市となったが,バグダードは1258年,モンゴル軍によって破壊される。その後,イラクはティムール帝国,サファーヴィー朝ペルシア、そして第一次世界大戦が終わるまでオスマントルコの支配下に入った。
*
さあ,35年前のイラク旅行に,いま一度出かけよう。
表記については,'BAGHDAD' は「バグダッド」ではなく「バグダード」で統一した。'Reign: ' を付した年号は「在位期間」を示し,付さない年号は「生没年」もしくは「王朝等の成立・滅亡の年」を表している。
表紙写真は,サーマッラーの螺旋状ミナレット。
「歴史の捏造をやめよ」と声高に主張しながら「六四天安門事件」はなかったことにする,コントの如く珍妙な独裁国家に強烈な敬意を表しつつ,2025年9月13日,之を記す。独裁者とは何か。自分を支持する人間を自分で作り出さなければならない(=自分を支持しない人間を自分で抹殺しなければならない)者のことである。
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■■■ Kassite Dynasty ■■■
■■■ カッシート朝 ■■■
(1595 BC - 1155 BC)
【 DUR-KURIGALZU (Aqar-Quf) 】
【 ドゥル・クリガルズ(アカル・クフ)】
カッシート朝(バビロン第三王朝,Third Babylonian Dynasty)は,歴史上,イラク南部のバビロニアを最も長く支配した王朝である。カッシートは,紀元前16世紀頃からバビロニアで勢力を広げ,紀元前15世紀頃から約350年間にわたってこの地に君臨した。
この間,オリエントには,小アジアのヒッタイト,イラク北部のミタンニおよび(古・中)アッシリア帝国,エジプト新王国などの強国が存在し,戦闘・外交を繰り広げた。
写真は,クリガルズ1世 (Kurigalzu I, Reign: ? - 1375 BC) の時代に築かれた新首都ドゥル・クリガルズの遺跡である。現在の地名はアカルクフ,バグダード中心部から北西へ約30kmの所に位置する。ジッグラト(*1)や神殿,宮殿が立ち並ぶ。
(*1) ジッグラト (Ziggurat) とは,古代メソポタミアにおいて日干煉瓦で築かれた階段ピラミッド状の神殿をいう。 -
■■■ Neo-Assyrian Empire ■■■
■■■ 新アッシリア帝国 ■■■
(911 BC - 609 BC)
【 ASSUR: first capital of the empire 】
【 最初の首都・アッシュル遺跡 】
アッシュルは,イラク北部の中心都市・モースルの南11kmに位置する古代都市で,後14世紀半ばに放棄されるまで、およそ4千年間存続した。古アッシリアおよび中アッシリアの首都として栄え、新アッシリア帝国においても最初の首都が置かれた。 -
ジッグラトや神殿,宮殿の遺跡がある。
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アッシュル遺跡の少年たち
男性の正装であるトーブ (Thobe) を着ている。足首までの長さがあり,長袖で(多くの場合,白い)ゆったりとした衣装。伝統的には綿100%で,高級な生地の殆どは日本製である。 -
【 NIMURD: second capital of the empire 】
【 二番目の首都・ニムルド遺跡 】
ニムルドは,イラク北部の中心都市・モースルの南西37kmのチグリス川東岸に位置する。写真は,ジッグラトの上から撮影したニムルド遺跡の全景。 -
ニムルドには,新アッシリア帝国の二番目の首都が置かれた。
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ニムルド遺跡の北西宮殿
アッシュル・ナツィルパル2世 (Ashurnasirpal II, Reign: 883 BC - 859 BC) によって築かれた宮殿。宮殿の門を守る人面有翼ライオン像と牡牛像。 -
大英博物館に収蔵されているニムルド遺跡の人面有翼ライオン像(2013年2月25日撮影)。
5本の足は、正面からは立ち止っているように、側面からは歩いているかの如く見えるよう意図されたものである。大英博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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王に永遠の命を授ける有翼保護神のレリーフ
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ニムルド遺跡から出土した鷲頭人身レリーフ像(モースル博物館にて)
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新アッシリア関連の資料等(1)
バグダードのイラク博物館(左上)、ベルリンのペルガモン博物館(右上・右下),大英博物館(左下)にて購入。
[左上]新アッシリア帝国の3番目の首都であるドゥル・シャルーキン (Dur-Sharrukin) から出土した人面有翼牡牛像。ドゥル・シャルーキンの現在の地名はホルサバー ド (Khorsabad)。
[右上]ニムルドからの出土品(鷲頭人身レリーフ像)。
[右下]アッシュルやニムルドからの出土品。
[左下]新アッシリア帝国の4番目の首都であるニネヴェ (Nineveh) から出土したレリーフ。ニネヴェは,イラク北部最大の都市モースルのうちチグリス川東岸部分に位置する。 -
新アッシリア関連の資料等(2)
ニネヴェ遺跡に関するもので,現地で収集したもの。 -
■■■ Neo-Babylonian Empire ■■■
■■■ 新バビロニア帝国 ■■■
(626 BC - 539 BC)
【 BABYLON 】
【 バビロン遺跡 】
バビロンはバグダードの南,約90kmに位置し,ユーフラテス川が古代都市を南北に貫いている。写真は,バビロン遺跡のイシュタル門 (Ishtar Gate) の複製。オリジナルのイシュタル門の大部分は,ベルリンのペルガモン博物館に収蔵されている。
バビロニア人がメソポタミアを支配したのは紀元前1800年頃からであり,バビロン第一王朝のハンムラビ王の治世 (Hammurabi, Reign: 1792 BC - 1750 BC) が有名である。バビロンは1千年以上にわたって,メソビタミアの政治・文化の中心として繁栄した。 -
ネブカドネザル2世の宮殿(1)
今日のバビロン遺跡は,紀元前609年に新アッシリア帝国が滅亡してから,ネブカドネザル2世 (Nebuchadnezzar II, Reign: 605 BC - 562 BC) によって再興された新バビロニア帝国のものである。 -
ネブカドネザル2世の宮殿(2)
新バビロニア時代に建設されたとされるジッグラトが,旧約聖書に登場する「バベルの塔」であるとする説がある。
新バビロニアは,歴史家によってカルデア (Chaldean Dynasty) とも呼ばれ,前539年にアケメネス朝ペルシア(*2) (Achaemenid Empire, 550 BC - 330 BC) のキュロス2世 (Cyrus the Great, Reign: 559 BC - 530 BC) によって滅ぼされた。
紀元前330年にアケメネス朝ペルシアを征服したアレクサンドロス大王 (Alexander the Great, Reign: 336 BC - 323 BC) は,ここバビロンの地で客死している。
(*2) アケメネス朝の首都は,現在のイラン南西部でイラク国境にも近いスーサ (Susa) -
現地に残るイシュタル門のオリジナルのレリーフ(1)
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現地に残るイシュタル門のオリジナルのレリーフ(2)
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ベルリンのペルガモン博物館に収蔵されているイシュタル門(部分)
ペルガモン博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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バビロン遺跡関連の資料等(1)
バグダードのイラク博物館,ベルリンのペルガモン博物館,バビロン遺跡現地にて購入・収集したもの。 -
バビロン遺跡関連の資料等(2)
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■■■ Parthian Empire ■■■
■■■ パルティア王国 ■■■
(247 BC - 224 AD)
【 HATRA 】
【 ハトラ遺跡 】
ハトラは,イラク北部の中心都市・モースルの南西約100kmに位置する。ハトラは紀元前1世紀ごろから紀元後3世紀にかけて,パルティア王国(*3) 内で,政治的にはかなり独立した交易都市として賑わった。
(*3) パルティアの最終的な首都はクテシフォン。サーサーン朝の首都として後述。ハトラ 史跡・遺跡
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古代ローマの影響については濃淡があるものの,同時代に繁栄したヨルダンのベトラ (Petra) 遺跡,シリアのパルミラ (Palmyra) 遺跡との密接な関連性がみられる。
ハトラ 史跡・遺跡
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ギリシア風の神殿と古代オリエント様式のジッグラト
ギリシア風の神殿は,この地にヘレニズムの影響が色濃く及んだことを示しているが,ローマのトラヤヌス帝 (Trajan, Reign: 98-117) やセウェルス帝 (Septimius Severus, Reign: 193-211) ,カラカラ帝 (Caracalla, Reign: 209-217) の遠征には屈しなかった。ハトラ 史跡・遺跡
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パルテノン神殿を彷彿とさせるギリシア神殿。優雅なイオニア式,繊細なコリント式の柱頭が見られる。
ハトラ 史跡・遺跡
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ハトラからの出土品(モースル博物館にて)
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ハトラ遺跡関連の資料等(1)
ハトラ遺跡現地にて収集したもの。 -
ハトラ遺跡関連の資料等(2)
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■■■ Sasanian Empire ■■■
■■■ サーサーン朝ペルシア ■■■
(224-651)
【 CTESIPHON (Iwan of Khosrow) 】
【 クテシフォン (ホスローのイーワーン) 】
ササン朝は,イスラム化以前の国際色豊かな古代(イラクではなく!)イラン文化の最盛期と考えられており,その最大版図は現代のイランとイラクの全てを包摂していた。首都クテシフォンは,現代の(イランではなく!)イラク領内にあり,バグダードの南約30kmのチグリス川東岸に位置する。クテシフォンの繁栄により,メソポタミアの中心都市であったバビロンは衰退していった。
写真はクテシフォンの大アーチ。ホスロー1世 (Khosrow I, Reign: 531-579) の宮殿と推定される遺跡で,ホスローのイーワーン(*4) とも呼ばれる。イーワーンは現存する古代遺跡中,最大のものである(高さ37m,幅25.5m,奥行48m)。
(*4) イーワーンとは,イスラム建築にみられる,天井がアーチ状のホールまたは空間をいう。 -
★★★ Rashidun (rightly-guided) Caliphate ★★★
★★★ 正統カリフ時代 ★★★
(632-661)
【 NAJAF (Imam Ali Shrine) 】
【 ナジャフ(イマーム・アリー廟)】
ナジャフは、バグダードの南約160km,ユーフラテス川の西岸に位置する。
正統カリフ時代(*5) の首都は,第4代アリーによって,現在のサウジアラビアのメディナ (Medina, Madinah) からイラクのクーファ (Kufa) に遷された。クーファはナジャフに隣接する都市である。
(*5) 正統カリフ時代とは,ムハンマドの死後,ウマイヤ朝が成立するまでの30年間をいう。正統カリフとは,
①アブー・バクル
②ウマル
③ウスマーン
④アリー (←ムハンマドと血縁あり)
の4代のカリフを指す。カリフとは,ムハンマドの代理人という意味であり,血縁関係に拠らず,信徒の互選により選出された。ただし,第4代正統カリフのアリーだけは,ムハンマドの従弟で娘婿でもあり,ムハンマドと血縁があった。 -
ナジャフには,第4代正統カリフ (Reign:656-661) で,シーア派 (Shia Islam) の初代イマーム (Imam)(*6) とされるアリー (Ali ibn Abi Talib, 601-661) の墓廟があり,シーア派の極めて重要な聖地となっている。
(*6) シーア派においては,ムハンマドと血縁関係にあった第4代正統カリフのアリーとその子孫のみが,ムハンマドの代理人となる資格があるとされ,アリーの子孫ではないウマイヤ朝以降のカリフの権威は否定された。
シーア派では,イスラム共同体の宗教的最高指導者をイマームと呼び,イマームはアリーの血を引いているが故に無謬(むびゅう)である (infallibility) と考えられた。 -
'MUSLIMS ONLY' の表示があり,異教徒の旅行者が廟に入場することは適わなかった。
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■■■ Umayyad Empire ■■■
■■■ ウマイヤ朝 ■■■
(661-750)
【 KARBALA (Imam Husayn Shrine) 】
【 カルバラー(イマーム・フサイン廟)】
661年に,アリーの血統ではないムアーウィヤ (Mu'awiya I, Reign: 661-680) がウマイヤ朝(*7) を開き,以降,カリフの地位は世襲されていく。
カルバラー(ケルベラーとも表記される)は、バグダードから南西へ102km,ユーフラテス川の西岸に位置する。カルバラーには,シーア派の第3代イマームであるフサイン (Husayn ibn Ali, 626-680) の墓廟があり,ナジャフと同様,シーア派の極めて重要な聖地とされている。
(*7) ウマイヤ朝の首都は,現在のシリアのダマスカス (Damascus) に置かれた。 -
■■■ Abbasid Empire ■■■
■■■ アッバース朝 ■■■
(750-1258)
【 SAMARRA (Al-Askari Shrine) 】
【 サーマッラー(アスカリー廟)】
サーマッラーは,バグダードの北約130km,チグリス川東岸に位置する。アスカリー廟は,第10代イマームであるアリー・ハーディー (Ali al-Hadi, 828-868) と,その息子で第11代イマームのハサン・アスカリ― (Hasan al-Askari, 846-874) の墓廟。シーア派の重要な聖地のひとつである。 -
【 SAMARRA (The Great Mosque and its Spiral Minaret) 】
【サーマッラー(大モスクとスパイラル・ミナレット)】
アスカリ―廟と同じくサーマッラーにある螺旋状ミナレット(*8) と大モスク跡。外側に手すりのない螺旋階段を昇るのは少々怖い。
アッバース朝の第8代カリフ・ムウタスィム (al-Mu'tasim, Reign: 833-842) が,836年にバグダードからサーマッラーに遷都,892年まで都が置かれた。
(*8) ミナレットとは,モスクなどのイスラム教施設に付随する塔をいう。塔の上からは,ムスリムに礼拝を呼びかけるアザーン (adhan) が流される。モスクに必須の要素は,マッカ(メッカ)の方向を示す聖龕(せいがん)・ミフラーブ (mihrab) であり,ミナレットは必ずなければならないというものではない。 -
「スパイラル」を意味するマルウィーヤ・ミナレット (Malwiya Minaret) とも呼ばれ,高さは 52mある。大モスクは852年に建設され,当時はイスラム世界最大のモスク(240m×160m)であったが,現在はその外壁を遺すのみである。
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スバイラル・ミナレットの頂上からの眺め
1989年当時、幹線道路は毎年,完璧に舗装し直されているということであった。 -
【 Mosul (Nuri Mosque) 】
【 モースル(ヌーリー・モスク)】
モースルは,バグダードの北西,約400km に位置する。イラク北部の中心都市であり,チグリス川の両岸に広がる。
写真は,ヌーリー・モスクのミナレット。装飾レンガのパターンにより7層を成している美しいミナレットは1172年に建設されたが,北西の山岳地帯から吹く強風のためか,かなり傾斜している。
[2017年6月21日、モスクとミナレットは,イラク政府軍とISとの戦闘の中で破壊されたとのことである。]
モースルは13世紀にはモンゴル帝国の侵攻により破壊されるが,オスマントルコの支配下で再建された。16世紀にサファーヴィー朝ペルシア(*9) の支配を受けた一時期を除き,オスマントルコによる支配は,1918年にオスマントルコが第一次大戦で敗戦するまで続いた。
1327年にモースルを訪れたイブン・バットゥータ (Ibn Battuta, 1304 - 1368) は,チグリス川の川面を埋める舟の数の多さに驚いたという。
(*9) サファーヴィー朝の首都は「世界の半分」「イランの真珠」と呼ばれたイスファハン (Isfahan) -
モースルのスーク(*10) にて(1)
(*10) スーク (suq)」はアラビア語で「市場」の意。「バザール (bazaar)」も市場を意味するが,ペルシア語由来の言葉である。ペルシア語圏や非アラブのトルコ,インド亜大陸などでは一般に「バザール」と呼ばれる。 -
モースルのスークにて(2)
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モースルのスークにて(3)
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モースルのスークにて(4)
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【 BAGHDAD (Mustansiriyah Madrasah) 】
【 バグダード(ムスタンスィリーヤ学院)】
ムスタンスィリーヤ学院は,アッバース朝の第36代カリフ,ムスタンスィル (al-Mustansir I, Reign: 1226-1242) によって設立されたイスラムの高等教育機関。医学,数学,文学,哲学などさまざまな科目が講義されたが,中心は言うまでもなく「イスラム法学」であった。
ムスタンスィルの治世は平穏な時代ではあったが,モンゴル帝国の侵攻が迫っている時期でもあった。ムスタンスィルのマドラサは,アッバース朝のバグダードを今日に伝える数少ない遺構の一つである。 -
バグダードのスークにて(1)
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バグダードのスークにて(2)
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バグダードのスークにて(3)
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バグダードのスークにて(4)
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バグダードのスークにて(5)
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イラクの入国査証
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