2017/02/28 - 2017/03/02
6740位(同エリア7782件中)
リュックさん
2017年2月28日から3月2日まで
2泊三日の駆け足沖縄旅行を行った。
今回は沖縄本島の自然、古くからの沖縄文化に
触れる旅であった。
ホテルの予約(予約が取りに難い部屋)を
昨年に行っていたので、出発当日まで
天気予報がぐるぐる変わるたびに気がもめた。
沖縄観光は沖縄北部で現地観光ツアーに参加、
那覇では首里城、国際通りを現地ガイドの案内で見学した。
出発日の第1日目は気温1度の寒い早朝に出発したが、
到着した那覇はうす曇りで気温15度と暖かい。
2日目はバスによるツアーであったが終日雨。
でも寒くはない。
ツアーが終了した夕刻7時頃は晴れた。
最終日の3日目は風が強く、小雨がぱらついたが、
日中は晴れて暖かく快適であった。
沖縄の伝統文化、自然に触れ、沖縄料理、
沖縄名物ビーフステーキ、目利きの銀次で海鮮料理を堪能し、
短時間の駆け足旅行であったが、
カミさんから合格点を得た内容であった。
旅程
2月28日(火)
06:30 Lv. 成田ガレージ
09:00 Lv. 成田空港
12: 00 Av. 那覇空港
12 :20 Lv. 空港駅(ゆいレール)ローッカーに荷物預け
12: 40 Av. 首里駅
13 :10 Av. 石畳道入り口(首里駅からタクシー)
13 : 50 Av 首里杜館(すいむい)昼食
16 :00 現地ガイドと首里城見学
18 :00 Lv. 首里駅
18 :20 Av. 旭橋駅 駅直結ホテルにチェックイン
18 :40 Av. 琉球料理と舞踊堪能(ホテルからタクシー)
21 :00 Av. ホテル
盛り沢山のスケジュールで早朝出発の睡眠不足に
石畳の坂道、首里城内を見て回り1万歩以上歩きで
いささか疲れた。
-
外に出る。寒い。
車のエンジンをかけ、暖気運転。
排気ガスが白い噴煙のように吹きでる。
日中なら混み合うが閑散とした道を走り、
東関道、四街道ICから成田に向かう。
15分ほど走り、成田ICを出て、成田ガレージに到着。
ここに車を預け、成田ガレージに車で成田空港第二ターミナルまで
送ってもらう。
成田から航空機で出かける時は毎回成田ガレージを利用している。
自宅から近いし、送迎があり、安く利用できる。
第二ターミナルからシャトルバスで
第三ターミナルに5分ほどで到着。
今日は8時30発Jetstar KG303便で那覇に行く。
搭乗券はすでにパソコンでプリントしてあるので、
後は出発ゲートに行くだけ。
朝食を摂る。
レストランは以前に比べすごく混み合っている。
席を確保し、長崎ちゃんぽんを食べる。
時間はたっぷりある。
出発ゲートで持ち物検査を受け、搭乗ゲートに向かう。
以前に比べ、上がったり、下がったり、右へ、左へと
結構歩かされる。
搭乗前にトイレに行く。あ!新聞を買うのを忘れた!
新聞はレストラン街の売店以外にはない。
今更戻って買いに行くのは面倒。諦める。
Jetstarの機内には何もない。
那覇まで3時間30分ほどのフライト。
仕方がない、居眠りをするか。
座席のリクライニングが浅く、
背が大きく倒せないので辛い。
席は毎回、追加料金を払い、前方に3~4番目の席を確保している。
今回も。前席とのスペースが少し広い。楽だ。
出発の8時30分になってもドアーを閉めない。
老夫婦が遅れで来た。
9時過ぎにようやくドアーを閉め動き出した。
那覇到着後、14時に現地ガイドと首里城を散策する
予定にしていたが、ここ数日のフライトをチェックすると、
最大50分程度の遅れがあった。
そこで、安全のため、首里城のガイド時間を
14時から16時に変更しておいた。
これで一時間程度の遅れでも心配がない。
でも、長時間この座席に縛りつけられるのは耐え難い。
30分遅れで飛び立った。上空から富士が良く見える。
気流は安定して滑るようなフライト。快適。
機内で飲み物を注文。すべて有料。
新聞もテレビも何もないのでただ、居眠りをするだけ。
11時過ぎたころ、高度を下げてきた。
スピードアップしたのだろう定刻の11時50分頃に
到着しそうだ。
上空から那覇市内を見る。天候はうす曇り。まずまずだ。
空港ターミナルまで連絡バス。
到着ゲートから出て、ゆいレール那覇空港駅に向かう。
12時20分に那覇を出発。首里駅に13時頃到着。
ここで、防寒コート、荷物などコインロッカーに預ける。
当初の計画では駅前から近い首里そばで昼食を取り、
13時54分に那覇バスで駅前から金城町石畳入り口に
行く予定であったが、首里そばに行ったら行列。
しばらく待ったが、時間がかかりそう。
諦めて、駅前からタクシーで金城町石畳入り口に行く。
ドライバーは550円でいいよとのことで乗った。着いた。
あれ!金城町石畳入り口には違いないが
石畳の坂上!これでは坂を下って、
また上りなおして首里城に行かねばならない。
乗ってきたタクシーで坂下まで行く。追
加料金500円を取られた。
タクシーに乗るとき、
坂上か坂下かをはっきり告げる必要があった。 -
沖縄に来て初めて見る石敢當。
沖縄滞在中、随所で見られる。道祖神にようだ。
調べて見ると、石敢當は
中国伝来の風習で、福建省が発祥らしい。 -
日本では、沖縄本島を中心に、
周辺諸島に数多く点在しているようで、
薩南諸島・奄美群島を含め、鹿児島県にもかなり存在するらしい。
沖縄県では「いしがんどう」、
「いしがんとう」と呼ばれ、
鹿児島県では「せっかんとう」と呼ばれることが多いとのこと。
徘徊するマジムンは直進する性質があり、
丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると
向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。
そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、
魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。
魔物は石敢當に当たると砕け散るとされるとのこと。 -
多孔質の琉球石灰岩を敷き詰めた石畳を歩き始める。
成田を出るときは気温1度!もこもこに厚着をしてきた。
首里駅ロッカーに厚手のコートなどを預けてきたが、
セーターなどを着こんでいるので、すぐに汗が出てきた。
気温は20度近くあるだろうか、
それに歩きにくい急坂の石畳。息が切れない様にゆっくり歩く。
民家の庭先から濃いピンク色の琉球桜が咲いていた。
もう盛りを過ぎてしまったようだ。花の香が漂う静かな石畳 -
石畳道は300m近く続くとあるが、
ここは中間地点。無料の休憩場。
古民家が休憩場になっている。
ここには南国でよく見られるガジュマルが。
夏の炎天下を歩いてくると良い日陰になるかも。 -
汗をかかない様にゆっくり歩く。でも汗ばむ。
石畳道の両側には風情のある古民家が。
でも、ここで生活するとなると、
毎日この坂道を往復しなければならない。
この道には車が入れない。大変だ。
この道は尚真王時代(1477~1526)に
首里城から南部に行く道としてつくられた。
戦争で破壊され、今はその一部(300m)が残されている。
沖縄県指定文化財。
やっと石畳坂下の入り口についた。13時51分。 -
日本の道100選 石畳に選ばれている。
石畳道はここで終わり。
周囲の景色を眺めながらゆっくり上ってきたからか、
300mの上り坂も短く感じた。
坂を登りきり、タクシーが客待ちで並ぶ広い道路に出て
首里城に向かう。
赤瓦の首里杜館(すいむい)に行く。
ここでガイドさんと待ち合わせ。
まだ時間があるので、遅い昼食をとる。 -
2月28日
那覇空港からゆいレールで首里駅。
ここで荷物を駅のローッカーに預け、
駅前の首里ソバを食べバスで首里城に行く予定であったが、
首里ソバが混んでいて時間がかかりそうなので、
予定変更。首里駅からタクシーで石畳道入り口に。
急坂をゆっくり歩き、坂を上がり切ったところが首里城。
首里杜館(すいむい)でソーキそばを食べる。
そばといっても蕎麦ではなくうどん。
そばの上に載っている具は骨付き豚肉。美味い。
でも注意して具を食べないと骨があるので歯を傷める。
首里杜館(すいむい)の地下にある赤いポスト前で
ガイドさんと16時に待ち合わせ。時間がある。
守礼門など城内を少し歩いてみる。
16時。ガイドさんの案内で散策開始。
参加者は我々2人のみ。貸切だ。
散策は守礼門、園比屋武御嶽石門、歓会門、
瑞泉門、漏刻門?広福門、奉神門と
六つの城門をくぐり正殿へと向かう。 -
守礼門(しゅれいもん)
首里城観光はここから始まる。
「琉球は礼節を重んずる国である」
門に掲げられている扁額(へんがく)に
「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。という意味。
1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)に
建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが
沖縄戦で破壊された。
現在の門は1958年(昭和33)に復元され、
2000年の記念紙幣2,000円札の絵柄にり、
買い物でおつりをもらうと2000円札が出るそうだ。 -
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
琉球石灰岩で造られた建造物で、
国王が外出時に安全祈願をした礼拝所。
形は門になっているが人が通る門ではなく、
神への「礼拝の門」。
門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から
1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられ、
八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造。
琉球の石造建造物の代表的なもので、
1933年(昭和8)国宝に指定され、
沖縄戦で一部破壊されが、1957年(昭和32)復元。
現在、国指定重要文化財となり、
2000年(平成12)には世界遺産へ登録された。 -
歓会門(かんかいもん)
首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門。
首里城に中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれ、
歓迎するという意味でこの名が付けられた。
首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)
により二重に囲まれている。 -
太平洋戦争で破壊された城壁。
残された旧城壁に新たに城壁を復元した。
首里城の城壁は見事なほど垂直にそそり立っているが、
城壁そのものから敵からの襲撃に備えた防備らしいものが
見当たらない。
また、城内の建物も木造そのもので
防災、防御といった構造ではない。 -
ここは外郭の最初の門で、
別名「あまえ御門(あまえうじょう)」で
「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」の意味。
創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失し、
1974年(昭和49)に復元。
門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。
門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像を
魔除けの意味で置かれている。 -
歓会門を入ると門番が。当時の衣装。でも武装はしていない。
-
瑞泉門(ずいせんもん)
「立派な、めでたい泉」という意味「瑞泉(ずいせん)」の門。
ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」。
創建は1470年頃。沖縄戦で焼失。
1992年(平成4)に復元。
門の両脇には一対の石獅子(いしじし)が並んでいる。
これも魔除けの意味で置かれている。
瑞泉門は先に見たアーチ状の石門の歓会門とは異なり
、双璧の門の上に直接櫓(やぐら)がのっている。
このタイプの櫓門(やぐらもん)は日本本土の城門でも
見ることができるが、
櫓の中央の「瑞泉」という扁額(へんがく)が琉球独特。 -
門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」龍の口から
湧水が湧き出していることから「龍樋」と名付けられた。
この水は王宮の飲料水として使われ、
中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、
那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、
毎日ここから水を運んだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、
約500年前のもの。
沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワまたはカー)と表現し、
「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉で、
フィージャーガーとも発音。 -
漏刻門(ろうこくもん)
中国語で「水時計」という意味「漏刻(ろうこく)」。
ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」。
当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが
高官でも国王に敬意を表し、
この場所で駕籠から下りたということから
そのように呼ばれる。創建は15世紀頃。
門の上の櫓(やぐら)に水槽を置き、
水が漏れる量で時間を計った。
時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、
それを聞いた別の役人が東(あがり)の
アザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で
同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、
城内および城外に時刻を知らせた。 -
「漏刻門(ろうこくもん)」の正面に置かれているのが
「日影台(にちえいだい)」という日時計である。
往時もこの場所におかれ、水時計の補助的な道具として使われた。
1739年、従来の漏刻は不完全であるとして、
はじめて日影器(にちえいき)を製作し設置したと伝えられる。
以後、この時間制度は
1879年(明治12)廃藩置県(はいはんちけん)まで続いた。 -
広福門(こうふくもん)
「広福(こうふく)」とは、
「福を行き渡らせる」という意味。
「広福門(こうふくもん)」は別名
「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。
建物そのものが門の機能をもっており、
この形式も首里城の城門の特徴。
創建年は不明。明治末期頃に撤去され、
1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する
「寺社座(じしゃざ)」と、
士族の財産をめぐる争いを調停する
「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。 -
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)
この鐘は歴史資料では1458年に首里城正殿に
掛けられていたと記録されているが、
具体的な設置場所が不明であるため、
当面ここに設置しているとのこと。
沖縄県立博物館に収蔵されている
「万国津梁の鐘」のレプリカである。
鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、
朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、
貿易によって栄える国である。」
という主旨の銘文が刻まれており往時の海洋王国としての
誇らしい心意気が示されている。 -
首里森御嶽
奉神門の手前にある礼拝所を
「首里森御嶽(すいむいうたき)」。
石塀の囲まれ、内部はガシュマルの木が植えてある。
それ以外は何もない。
神が造られた聖地であるとされ、
城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる
10ヶ所の礼拝所があったとのこと。
1997年(平成9)12月に復元。 -
奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門。
1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという
記録があることから創建はそれ以前とのこと。
その後1754年に中国の制に倣い改修。
建物は明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に外観が復元。
別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。
向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で
薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、
右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で
城内の儀式のとき等に使われた。
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等
限られた身分の高い人だけが通る門。
それ以外の役人は両側の門から入城した。
いよいよ、正殿(本丸?)に入る。 -
首里城
奉神門をくぐり、正殿前の御庭に入る。
正殿を正面に、右側には番所、南殿、左側には
北殿と御庭を囲むように建てられている。
右側の番所(ばんどころ)は首里城へ登城してきた人々の取次を行い、
左側の南殿(なんでん)は薩摩藩のために用意した和風建築で、
いずれも塗装を施していない。
番所の展示室内はなぜか撮影禁止。
城内で撮影禁止区域があり、
この区域の画像は首里城HPから拝借した。
番所から館内に入る。 -
近習詰所
近習頭や近習役、筆者、側近など、
約20名あまりの役人が詰めていた場所。
その役人たちは、国王の朝夕の雑用や居住空間である御内原からの
出入りに付き添っていた。 -
奥書院
国王が執務の合間に休憩した場所。
書院は国王が日常の執務を行った、
御書院(ごしょいん)と言われる広間がある建物。
取次役や近習などの側近の者がその周囲に控えていた。
また、中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、
ここで接待を行うこともあった。
また、奥には内炉之間(うちろのま)と言われる茶室があり、
御書院(ごしょいん)の裏座にあたり、
お茶を点てて客人に振る舞っていた。 -
庭園
庭園は、城内で唯一の本格的な庭園。
黄金御殿
黄金御殿は、国王や王妃・王母のプライベートゾーンで、
2階には居間や寝室があった。 -
正殿
木造の三階建。
一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、
主に国王自ら政治や儀式を執り行う場。
二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、
国王と親族・女官らが儀式を行う場所。
三階は通気を目的とした屋根裏部屋。
創建年は14世紀末頃。現在の建物は18世紀初めに再建され、
沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿を
モデルに1992年(平成4)に復元。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にした
琉球独特の意匠。正面の石階段の両脇に龍の彫刻。
「大龍柱(だいりゅうちゅう)」で、
手すりの奥にはもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」がある。
柱や梁(はり)等にも龍の彫刻が多数施されている。
龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。
城内にある龍の爪はすべて4本。中国皇帝の竜の爪は5本。 -
儀式
儀式は正殿前の御庭で行う。
地方役人を最後列に正殿に近くに行くほど位が高くなる。
儀式参列者はみな同じ被り物をつけているが
位によって被り物の色が異なる。
首里城を訪れたときに城内の各所にスタッフが働いていたが、
色々な色の被り物をしていた。
当時の儀式を再現したこの模型から見ると、
参列者、城の官吏人など以外武装した兵士が見当たらない。 -
御差床(うさすか) 国王が座る玉座。
御差床背後の障子戸を開くと、
奥に国王専用の階段(おちょくい)がある。
国王はその階段を使って2階から御差床に出御した。
御差床左右の柱には龍が描かれ、
そのまわりには雲が配色されている。
国王の椅子は、1477年~1526年まで在位した
尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現。
2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは
極めてめずらしいと言われている。
特に2階の御差床は絢爛豪華。 -
正殿 1階正殿1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、
主に国王自ら政治や儀式を執り行う場。
中央の華麗な部分が「御差床(うさすか)」と呼ばれ、
政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座。
左右には国王の子や孫が着座した
「平御差床(ひらうさすか)」がある。
裏側には二階に通じる階段があり、
国王はこの階段を降りて御差床についた。
御差床の両脇の朱柱(しゅばしら)には
金の龍と五色の雲が描かれ、
天井は丸く上部に折上げて格式をもたせている。
また記録によると、
両脇の床には、麒麟(きりん)、鳳凰(ほうおう)の絵が
掛けられていた。 -
正殿 2階
正殿2階は、日常的には王妃や身分の高い女官たちが
使用した「大庫理(うふぐい)」。
2階の「御差床」は国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われた。
部屋の上部にはかつて中国皇帝から贈られた
御書(ぎょしょ)の扁額(へんがく)が幾つも掲げられていた。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額(へんがく)は
古い記録をもとに再現。
壇の形式は寺院の須弥壇(しゅみだん)に似ており、
側面の羽目板には葡萄(ぶどう)と
栗鼠(りす)の文様が彫刻されている。
高欄には正面に一対の金龍柱(きんりゅうちゅう)が立ち、
他の部材には黒漆(くろうるし)に
沈金(ちんきん)が施されている。 -
北殿
1712年頃再建。
三司官や多くの役人が務めたところ。
中国冊封使やペリー提督の歓迎式に使われた。
また、2000年九州・沖縄サミットの晩餐会もここで行われた。
実際に見学したが室内の装飾は質素であった。 -
右掖門
「右掖門(うえきもん)」は
国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)に入る通用門だった。
そして、汗して上ってきた石畳道へと続いている。
1992年(平成4)に櫓から下の城壁部を、
2000年(平成12)に櫓(やぐら)が復元された。 -
久慶門
歓会門(かんかいもん)が正門で、ここは通用門。
主に女性が利用。城外へと続く出口。1983年(昭和58)に復元。
1時間30分のガイドツアーであったが、
ものすごく短時間に感じた。
なんのガイドもなくただ城壁のみ散策したのでは
なんの印象、感激もなく終わる。
首里城はまだ城内の西側にある
御内原周辺の調査、復元が出来ていないので、
何年かのちに再度訪れたいと思う。
首里城を見学して、感ずることは、
この城は敵に備える設備が見当たらない。
外敵に対して無抵抗だ。
当時、武器は中国が武器の輸出を禁じていたので、
薩摩藩がら和式の武具を輸入したとのこと。
また、過去に薩摩藩の襲撃に遭い、
いとも簡単に落城してしまったとのこと。
当時、琉球の人々は自然神を祀り、
温和で平和な生活をしていたのだろう。
琉球王国の国王の子孫尚氏は現在も存命とのこと。
久慶門でガイドさんと別れ、
石畳道の下り口から坂道を下り、
首里駅でコインロッカーに預けた荷物を出し、
ゆいレールで旭橋駅に向かい、
今宵の宿、リーガロヤルグランにチェックイン。
荷物を部屋に置き、頼んでおいたタクシーでうらしまに向かう。
ここで、食事をしながら琉球舞踊を鑑賞する。 -
首里城正殿など9施設が消失してしまった。
-
2019年10月31日
首里城正殿など消失
首里城の火災は過去に5回もあった。
現在復興作業をし、
2026年秋には正殿の再建が出来ると報じられている。
早期再建を願うばかり。
今夜は夕食を摂りながら琉球舞踊を鑑賞する。
続く
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