2025/04/21 - 2025/04/22
181位(同エリア824件中)
ユキゴローさん
- ユキゴローさんTOP
- 旅行記190冊
- クチコミ30件
- Q&A回答51件
- 506,334アクセス
- フォロワー25人
2024年春から始まった大学時代の仲間4人との温泉旅行。
某大学経済学部の某ゼミ生、学生時代は8名いたのですが2024年1月現在3名が鬼籍に入り、一人は脳卒中による寝たきり老人で、元気なのは4人になってしまいました。
いつ誰にお迎えが来ても不思議ではない年齢になったので、元気で体が動くうちにお互いの健康を祝うため、半年に一回旅行をしようということになり、今回で3回目。
居住地が平塚、浜松、熊谷、上田とバラバラなので、場所選びは一苦労です。
今回はユキゴローが車を出して、伊豆の長岡温泉に行くことになりました。
修善寺駅に13:30集合、上田を朝7時に出発。
写真は2時間ほど走った野辺山高原付近から撮った八ヶ岳連峰。雲一つない晴天に恵まれ、残雪が青空に映えます。
途中、中央高速道路を走行中には雄大な富士山を見ることができました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
修善寺駅には13時過ぎに到着。
13時半に全員がそろい、最初に向かったのは修禅寺。
修善寺という場所も寺の名前もよく知られているし、「修禅寺物語」という名称も有名ですが、寺の由来や「修禅寺物語」がどんな物語なのか説明できる人は意外に少ないのではないでしょうか?
もちろん僕も御多分に漏れず名称以外は何も知りません!という訳で今回は修禅寺についてのお勉強をすることにしました。
面白いのは、街の名称は「修善寺」で寺の名前は「修禅寺」、ゼンの字が違うんです。
写真は修禅寺入り口
平日ですがお祭りをやっているようで屋台のお店が出ています。 -
山門です
修禅寺は807年に空海(弘法大師)が創建し、約470年間真言宗に属していました。鎌倉時代の1275年からは臨済宗に改宗されて運営されていたのですが、1407年に火災で伽藍が全焼してしまいました。 -
その後1489年にこの地を治めていた北条早雲が、叔父の隆渓禅師に曹洞宗の寺院として再興させて現在に至る、大変歴史ある古刹です。
現在の本堂は1883年(明治16年)に再建されたものです。 -
本堂の前でパチリ!
左から自分の歯はほとんど無いという熊谷のN君、昨年12月前立腺の手術をしたけれど未だにスッキリしないという平塚のO君、毎食後歯を磨いてきたおかげで歯医者に行ったことがないという浜松のK君、妻ロスが続いてなかなか元気が出ない上田のユキゴロー
この後、寺の宝物館を見学したのですが、内部は残念ながら撮影禁止。
作者の岡本綺堂が「修禅寺物語」を執筆するきっかけになったと言われている古面も展示されていました。 -
全く知らなかったのですが、前日から「弘法忌春季大祭」という祭礼が行われていました。
弘法大師の法要で、本堂にいる弘法大師の厨子を神輿にのせて奥の院まで運ぶ「みこしお上がり」という行事と万灯会が行われます。 -
2日目は大師が本堂に帰る「みこしお下がり」の行列と「湯汲み式」が行われます。
-
「湯汲み式」とは約1200年前に修善寺温泉発祥の「独鈷の湯」を発見した弘法大師と温泉に感謝する祭礼です。
市内から選ばれた30名の女性がそろいの着物姿で、「独鈷の湯」で僧侶に汲んでもらった湯を手桶に入れて稚児たちと温泉街を練り歩き、 -
本堂の弘法大師霊前に献湯するという行事です。
-
修禅寺の隣にある日枝神社
-
修禅寺の鬼門にあたる場所にあり、弘法大師の建立と伝わっています。
-
根元が二つに分かれて成長した、樹齢800年以上と伝わる夫婦杉。
子宝祈願の神社として有名だそうです。 -
拝殿
境内には異母兄の源頼朝によって幽閉された源範頼が暮らした信功院がありました。範頼は後にここで自刃したとも伝えられ、墓は修禅寺にあるそうです。 -
修善寺温泉のシンボル独鈷の湯
現在も湯が沸きだしているそうです。 -
独鈷の湯の傍から始まる川沿いの遊歩道を数分歩くと桂橋にぶつかり、この橋を渡ると竹林の小径があります。
-
京都嵯峨野の竹林とは違い、こちらは小ぢんまりとした竹林です。
土がちょこっと膨らんだ、採り頃のタケノコがたくさんありました! -
しばらく歩いて源頼家の墓にやって来ました。
鎌倉幕府2代将軍の源頼家は源頼朝の嫡男で母は北条政子。
父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。
合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。
ーWikipedia ーより -
隣にこんなものがありました。
修善寺は人もお湯も暖かい所で、恋愛成就の聖地とも言われているそうです。この蓮華の形をした石は以心伝心を占う「お伺い石」で、そっと持ち上げた時に軽く感じたら思いが伝わると言われているそうです。 -
その隣にある指月殿
暗殺された息子頼家を弔うために母北条政子が建立した建物で、伊豆最古の木造建築といわれており、ミシュラングリーンガイドにも掲載されているそうです。 -
長岡温泉の宴会!
爺さん4人は吞兵衛ばかりで、泊まるホテルはいつも飲み放題の宿! -
翌日は韮山の反射炉へ
僕達が中学生の頃の歴史の教科書には必ず紹介されていた記憶がありますが、学校の課外授業等で行った方なども多いのではないかと思います。
2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」として九州の軍艦島などど共にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
外側を覆っている格子状の鉄鋼は1957年の保存工事で付けられたもの。 -
1853年韮山の代官江川英龍が中心となって、最初は下田に建設が始まった反射炉ですが、ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため韮山に変更されました。2年後に英龍が死去し、息子の秀敏が跡を継いで1857年に完成しました。
作られたのは反射炉だけでなく、大砲を作るのに必要な諸設備全般で、文字通り巨大な大砲製造工場でしたが、現在残っているのは反射炉本体のみです。 -
1864年に閉鎖されるまでの7年間に実際に製造された大砲は大小合わせて十数門だったようで、ドイム臼砲と呼ばれる小型の大砲実物がガイダンスセンターに展示されています。
写真は反射炉傍に屋外展示されている、24ポンドカノン砲と呼ばれるレプリカ。 -
車で十数分走ったところにある江川邸(韮山代官所跡)
韮山代官所は江戸と韮山の2か所にあって、江戸では相模・武蔵・甲斐を、韮山では伊豆・駿河を支配しており、役所はいずれも江川家屋敷の中にありました。 -
江川邸母屋
1958年に国重要文化財に指定され、それまで茅葺だった屋根が現在の銅板葺きに変更されました。 -
江川家は清和源氏の流れを汲み、代々の当主は太郎左衛門を名のっています。
徳川家康に仕えた28代当主英長が幕府直轄地となった伊豆の代官に任ぜられ、以後明治維新まで代々世襲代官として勤めました。 -
50坪もある広い土間は天井が張られていない為、屋根裏の小屋組みがそのまま見られます。
-
台所
当時の生活ぶりが偲ばれます。 -
江川家36代当主の江川太郎左衛門英龍は蘭学・砲術を修め、とりわけ海防の必要性を幕府に建言して韮山反射炉の生みの親となりました。
-
邸内に作られたパン焼き窯跡
英龍は兵糧としてのパンに着目し、日本で初めてパンを焼いた人物としてパン業界から「パン祖」と呼ばれています。当時焼いたパンは日持ちのする乾パンのようなものだったそうです。 -
母屋の裏には肥料蔵や米蔵があり、全て国重要文化財に指定されています。
-
江川邸の見学を終え、30分ほど走って沼津港のグルメ街に行き、海鮮料理に舌鼓を打って沼津駅で解散!
次回また元気で会えるように、皆さん健康に留意して暮らしましょう!!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
修善寺温泉(静岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
31