2025/04/21 - 2025/04/21
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gianiさん
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公共交通で訪れるには不便な通集落は、長州藩の鯨組が組織された歴史ある漁港です。18世紀の民家/防波堤が残る等、ひなびた中にも歴史がちりばめられた光景が見られます。
長門市のくじら資料館は、北浦の捕鯨を学べるだけでなく貴重な捕鯨用具が見られます。
金子みすゞゆかりのゆかりのスポットを含めて、いろいろと楽しめる街です。前編はこちら↓
https://4travel.jp/travelogue/11973127
- 旅行の満足度
- 5.0
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バスで青海大橋を渡り、大泊で下車。
青海島 自然・景勝地
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大泊には旧青海島小学校などが建ちます。
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波の橋立という幅20m全長1300mの砂州で海と隔てられた青海湖。一応淡水で、幅400m全長1000m。
青海湖 自然・景勝地
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大泊の漁港
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王子山公園から仙崎を眺めます。
王子山公園 名所・史跡
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バスで青海島を縦断します。
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通漁港前で下車します。
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くじら資料館へ行きます。
くじら資料館 美術館・博物館
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まずは、主な獲物についての学習。上から、
コククジラ(12-15m/20-50t)
ザトウクジラ(11-15m/50?60t)
セミクジラ(15-18m/50-60t)
ナガスクジラ(18-25m/55-75t) -
クジラは、ひげクジラ類(上)/歯クジラ類(下)に分けられます。上の4種は、ひげクジラ類です。概して、身体が大きいのがヒゲクジラ、小さいのが歯クジラです。
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歯クジラは、口に歯が並び獲物を噛み砕きます。代表的なのは、マッコウクジラです。
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ヒゲクジラは歯の代わりに櫛のようなヒゲ(写真)が上あごに数百枚付いており、餌生物を海水から濾し取る役割を持ちます。
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歯クジラは海水を丸呑みして、ヒゲで餌を濾し取ります。主な餌はオキアミです。
※塩辛やキムチの原料になる「オキアミ」は、生物的にはアキアミになります。 -
2019年に定置網に掛かったザトウクジラ。
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弥生時代から続くクジラとのかかわり
群れからはぐれて座礁して浜へ漂着した死体(寄せ鯨)は、天からの贈り物とみなされて鯨肉等が共同体の各人へ分配されました。弥生時代の遺跡からは、鯨骨製の銛などが発掘されています。
時代が進むと、浦へ迷い込んだ個体を捕らえるようになります。写真は、紫津浦に迷い込んだ鯨。 -
座礁する原因としては、下記の説があります。
①病気によって聴覚器官が損傷する
②海底に走る地磁気の識別を誤ったり、地磁気が乱れた時
③天敵(シャチ/サメ)に追いかけられて逃げ場を失う/餌獲物を深追いしすぎる
④群れリーダーの誤導/個体が増えすぎた際の間引き減少 -
通集落一帯は、出産や子育てのために南の海へ向かうクジラの群れ(下り鯨:旧暦10~3月)の回遊路となっていたために船を漕ぎ出して銛(もり)で突く「突取式捕鯨」が生まれます。1672年に瀬戸崎(現在の仙崎)1673年に通の鯨組が藩に取り立てられ、萩藩の庇護の下で大いに発展します。
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漁期
日本海全般に言えることですが、晩秋から冬にかけて長門の海は時化ることが多く、磯でワカメを採る程度でした。一年の大きな空白の時期に回遊する下り鯨は、漁師のスケージュール的にも最適でした。
※土佐藩(太平洋側)では捕鯨季には鯨組優先で、浦の漁が著しく制限されました。 -
古式(網取式)捕鯨
近代捕鯨に対する比較です。紀州から全国へ伝播し、鯨を網へ追い込んで絡めた後に銛で突く漁法です。陸の解体場で油を始め、あらゆるものを採取/利用します。獲物を探す山見を始め、数百人で組織的に行う洗練された人力漁法です。 -
浦の住民は漁業のみならず、領主の海運/海軍を担う存在でした。大内義隆が九州へ逃亡を計画した際には、後根盛道を頼っています(1551)。後根五郎左衛門は毛利軍の船頭として朝鮮出兵に従軍し、その功績によって1597年に早川姓を賜ります。
1591年には、毛利氏が大日比浦(青海島西側)に鯨油の上納を申し付けられていることから、既に捕鯨船業組織(後に鯨組と呼ばれる)が存在していました。 -
山見
沖合の島の頂上から昼夜交代制で海を見張ります。鯨が潮を吹いているのを見つけると、白旗を振って鯨の種類/方角を合図します。沖で待機している船は、合図を見ると浦へ報告するために大急ぎで帰港します。
山見は視力だけが頼りでしたが、後年には遠眼鏡や双眼鏡が導入されます。 -
知らせを受けると船団が発ちます。
網船は、クジラの行く先に網を建て回して待ち伏せします。
勢子船は、狩り棒で船縁を叩きながら鯨を網の中へ追い込みます。 -
網目は1mほどで、小さなミンククジラは網目から逃れるようになっていたそうです。
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網に絡まり自由を失った鯨に、船頭/鱸押が一斉に銛を撃ち込みます。
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網や縄は藁で編んだものでしたが、網を破られて取り逃がすことが多くありました。1675年に、早川清兵衛が芋(からむし)麻を考案して改善されます。右上は芋麻を蒸した状態、右下は手作業で繊維を細く撚り出したもの。このあと糸車で撚って縄にします。
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刃刺(羽指とも表記)が手形包丁(鼻刺し)を咥えて海に飛び込み、刺さった銛を手掛かりに鯨によじ登り、鼻(噴気孔)の穴下に切り込みを入れて、鱸押が麻縄を通します。
捕鯨用具等140点が、国の重要有形民俗文化財に指定されています。 -
鼻孔に通した麻縄を二艘の持双船に渡して鯨を挟み込み、別の船に乗り換えて陸まで運びます。
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引揚光景
右枠外にカングラサと呼ばれる轆轤が2つ据えてあり、その先には解体道具を納めた納屋があります。解体は旦那、小頭の采配の下に行われました。
大包丁で真背中の皮を縦に割き、続いて腹部の横脇に刃を入れ、皮の端に孔をあけてロープを通し、轆轤を巻きながら包丁が入れられました。 -
浜に漕ぎ帰り、ろくろで鯨を引き揚げながら解体作業が始まります。
保存技術が塩漬けしかなかったために、鮮度を保つよう引揚と並行して解体が行われています。 -
納屋に収納された道具の一例
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肉は10貫毎に切り分けられ、旦那小屋に積み重ねられていきます。旦那小屋は役方が評定を行ったりする場で、納屋の隣にありました。
500匁(1貫の半分)の生肉が、浦の各家庭に配れらました。当時鯨肉は庶民が口にできるものではありませんでした。 -
図では、骨を煮て油や膠等を抽出しています。解体されたクジラは捨てる部分はなく、徹底的に利用されました。脳油だけ抽出して、残りは捨てる西洋とは大違いです。仲買人が素早く各部を仕入れて配送しました。
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主な用途
赤肉:塩漬け食肉
膠:ゼラチン/香料/接着剤
油:照明用燃料/潤滑油/石鹸/稲の害虫駆除
髭:バネ等
腱:テニスラケットのガット
骨:肥料/飼料
食用は赤身のみならず、ベーコン、皮など多岐に及びます。骨/髭/歯等は工作資材となります。脳下垂体/甲状腺等は、新薬でホルモン剤の原料となります。 -
納屋では、油を抽出することを中心に各人が決められた仕事をこなしました。
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鯨組身分がはっきりとした縦社会で、数人の網頭(網元)が浦大名として君臨します。漁夫は10の職種に分かれ、職種によって身分と給料が違いました。上から順に1.沖合親仁(捕鯨作業の最高責任者)、2.網戸親仁(網作業/網船/納屋方を指揮)、3.宿老(4,5等を監督/評価し、鯨の検死を行う)、4.刃刺(捕鯨技術職のトップで銛打ち/持双船に繋ぐための鼻刺し)、5.鱸押(刃刺に次ぎ、鼻刺しに縄を通す)、6.船頭(各船に配置され、船に必要な物品を調達)、7.舸子(各船の乗組員で櫂漕ぎ等を担当)、8.山見(沖合を通過する鯨を発見/通報)、9.沖切(本部勤務で旗等で船に合図したり、鯨解体を担当)、10.箪笥持(13-18歳の少年が見習いとして担当、各船に2人配置され道具の保管や出し入れ/組事務所の雑用/網頭の供)
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古式捕鯨は非常に危険を伴う漁撈であり、海上安全の祈祷がなされました。エビスバンは舳先に付けられ、魔除け/海上安全等の信仰上の意味もありました。
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鯨回向
通の漁師たちは、捕鯨で奪った鯨の命を愛おしみました。捕獲した鯨は過去帳に記録して戒名/位牌を、胎児には戒名/墓を用意しました。毎年4月には5日間かけて鯨回向という法要を執り行いました。 -
とりわけ、母鯨の胎内から胎児が出てきた際は憐れみを感じました。上の写真の真ん中には、胎児を殺す意図は全くなかった旨を吐露しています。
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クダモリ(管銛)
クジラが網に掛かると船から投げて突き刺します。根が管になっていて、そこに椿木の柄を付けて使用します。長さ35-50mの縄を付いています。 -
ケン(剣)
網に掛かった鯨に銛を投げた後、やや弱った鯨の腰に突き刺して切ります。写真は刃先で、麻縄と繋がった椿の柄に付けて使用します。金属部分だけで7.5kgあります。 -
銛と剣は、こんな感じで柄に取り付けられます。
縄は金属部分と柄の部分に結ばれています。 -
上:ホンモリ(本銛)…椿の木の柄に直接固定させたもの。
下:クダ(管)…刃が鋭利で可動式のために、食い込みが良いです。
これらは縄は銛にのみ結び付けられています。 -
大包丁
解体の際、肉を切るために使用しました。 -
手前より、
カギ:解体の際、切りやすくするため肉にかけて引っ張った。
ヒカギ:油脂を採るために大釜で炊く際にもちいた。
骨鋸:骨を切断するのに用いた
マンリキ:大きな切り身を移動したり一か所にまとめる際に使用。
ニタリクジラの脊椎 -
絵を見ると、解体の様子がよく分かります。
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通の鯨組は約300名で構成され、不漁に見舞われると地域経済に甚大な影響をもたらしました。乱獲に伴い鯨は減少し、19世紀には不漁が常態化します。資金繰りには苦労が伴い、組員をほかの地域の鯨組に出向させることも行っています。他には、漁で芋網を損失したことが原因で資金状況が悪化することもありました。
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近代捕鯨
1899年に日本初の近代捕鯨組織「日本遠洋漁業株式会社」が仙崎に設立されます。銃で銛を撃ち、大型の鋼鉄船で世界の遠洋へ繰り出し、洋上で鯨を加工/冷凍保存することが特徴で、捕獲頭数も格段に多く、シロナガスクジラのような大型の鯨も捕獲できます。古式捕鯨の衰退に伴い、通の鯨組は1907年に解散します。 -
写真は、捕鯨砲で強力な火力で銛を撃ちます。
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1907年には、長門遠洋漁業株式会社が設立されます。1916年に長門遠洋漁業は、仙崎から下関/大阪へ本社移転し、現在のニッスイの前身となり社名も度々変わった日本遠洋漁業に吸収されます。1934年まで会社のロゴは、通鯨組のロゴである一〇(いちまる)で、いちまる会社として世間に認知されていました。
写真は1909年度の長門遠洋漁業の決算報告書。長崎/高知県沖と漁場が狭いせいか、現在にして約7000万円の損失を出しています。 -
青年宿
通の共同体は、年齢によって区分される社会的分担制度がありました。共同体で有用な男性を育てるべく、青年宿がありました。16,17歳になると若者組に入れられ、青年宿で相互扶助(海難救助/曳舟作業等)や自衛体制、礼儀/服従/技能といった漁村で必要なものを学びました。札順と呼ばれる厳格な序列が、浦の誇りと権威が育まれました。結婚または25歳前後になるまで所属しました。 -
では、街へ繰り出します。
海岸沿いには、メインロード(海岸道路)があります。 -
くじら資料館の裏側の通りが、旧道です。
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路地裏には、ご当地マンホールも。
1992年以降、下水道が整備されています。 -
猫が多いです。
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資料館の裏手にある清月庵
1679年に向岸寺5世讃誉上人の隠居所として建立されました。平成まで観音堂の名称でした。讃誉は、代々通鯨組の網頭(網元)を務めた池永家の次男です。捕鯨による恩恵への感謝と、鯨の慰霊のために鯨回向法要を始めました。 -
鯨墓
境内には、鯨墓があります。
鯨を解体する際に胎児が見つかると、意図せずに奪った命の芽への罪悪感に駆られました。1692年には、網元が胎児を埋葬した鯨墓が建立されます。青海島鯨墓 名所・史跡
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横には、元禄五年と刻まれています。墓石は高さ2.4m、胎児72体が埋葬されています。
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墓からの眺め
周囲は漁師町の光景 -
旧道を進みます。
郵便局の隣には、古い民家が。 -
この辺りが集落の中心です。
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階段を上って丘の上には、浄土宗向岸寺があります。集落の中心となるお寺です。1401年に禅宗西福禅寺として開基しますが、1537年に浄土宗へ転向し現在の寺名になります。
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金子みすゞの詩にも登場します。すぐ近くに父の実家があったためです。
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清月庵は現在無人のために、鯨回向は向岸寺で行われます。毎年鯨の漁が終わる4月ごろに行われました。
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左は、戒名が記された鯨位牌、右は鯨鯢過去帖です。過去帳には、母子の種類/捕獲地点/戒名/年月日等が一頭一頭記録されています。信仰の対象物のために、一般公開はされていません。
※鯨は雄クジラ、鯢は雌クジラを指します。 -
法要は鯨唄で締めくくられました。手を叩いて囃さず、手を擦り合わせるのが特徴で、鯨への慰霊の気持ちが表れています。
浦で祝い歌として歌う際も、長老が歌いだすまでは他の者は歌うことが許されない格調高い唄でした。 -
浦全体を見渡せる静かなお寺です。
網頭の一つ設楽家が奉納した七観音像が並びます。 -
向岸寺を後に旧道を進むと、金子みすゞゆかりのスポットが。父庄之助の生誕地、いわゆる実家です。
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1874年にこの地で石津家の四男として生まれ育ち、金子家へ婿養子に入ります。みすゞは、石津家でとてもかわいがられました。
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さらに進むと、早川家住宅が。通鯨組の網元の一つで、毛利家の配下で朝鮮出兵に従軍し、後根性から早川姓に改めました。
早川家住宅 名所・史跡
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建物は国の重文指定を受けていて、現在も生活中なので中は見られません。早川家は幕藩体制の中で、浦庄屋として通浦を治める地役人でした。299戸が焼けた1785年の天明大火で類焼したのを機に、廻船業を営む黒川家からこの建物を買い取りました。
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捕鯨の冊子には、18代当主早川義勝氏の写真が掲載されています。くじら資料館の館長も務めておられたようです。
海へ向かう面は、防風のための塀が巡らされています。 -
早川家付近の光景
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今更ですが、通という珍しい地名の由来は、青海島対岸の三隅から漁師たちが漁期に地の利のある青海島へ通って小屋を建てたのが起源です。そのうち定住する者が現れ、三隅から通っていたから通(かよい)という地名になりました。
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古式捕鯨より前には、北浦に肥前の海士が移住し、洗練された素潜り漁を伝えました。海士の格好に、歴史が反映されています。
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旧道を郵便局辺りまで戻り、坂を上って通漁港の反対側へ丘を越えます。
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生活感あふれる浦の光景
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通の反対側は段浦海岸で、外海(日本海)に面しています。
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段町の波止場
通鯨組が、鯨網に付着した苔を落とすために元禄年間(1688-1703)に築造した防波堤です。網船一艘が辛うじて通れる程度の入口です。 -
地味ですが、300年を超す現役の構築物です。
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里山は、長閑な光景。
この先の大日比には、萩名物ナツミカンの原木が植わっています。 -
漁師町全開の光景です。
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通漁港へ戻ってきました。
今も経済の中心は漁業です。 -
通くじら祭りでは、1992年以降クジラの引き揚げを再現します。
※実際は、解体設備の整った田の浦に引き揚げました。 -
その際に使用されるクジラ模型(船)。全長13.5mでナガスクジラを模しています。くじら丸の名称で船舶登録してあり、船外機も取り付けられます。髭は、本物の鯨の髭なのがチャームポイント。
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通には、1910-80年まで仙崎を結ぶ渡し船が航行されていました。通称、通い船。
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コンクリートで護岸される前の通漁港。
元禄年間に藩費で築造された全長65mの防波堤は、夜間に船を係留するためではなく、鯨網を打ち掛けて苔を除去するために建設されました。 -
旧道を400mほど進むと、住吉神社があります。通よりは田の浦に近いロケーションです。
住吉神社 寺・神社・教会
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海の守り神の定番です。
みすゞは、夏の例大祭の時期に帰省していたので、詩にも登場します。
大泊方向へ田の浦/大日比浦/紫野津浦と続きます。紫野津は、奇岩見学のゲートウェイとなっています。青海島自然研究路 公園・植物園
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おまけ
これは何でしょうか?鯨の身体の一部です。
正解はペニスです。
次は萩を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11978003
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