2024/10/31 - 2024/10/31
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gianiさん
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田代~轟木宿を走破する全長4kmの道のりです(脇へ逸れる寄り道は除く)
佐嘉県なのに対馬藩の領地という特異な歴史を持つ鳥栖市東部と、普通に佐賀藩領だった鳥栖市西部を長崎街道沿いに走破します。緩い街道感が心地よいです。
何故田代では売薬が栄えたのか、明治政府の配置売薬業への迫害や西洋医学/薬学の登場に適応して、田代からサロンパスが発売された経緯など、興味深い背景が見えてきました。
前編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11942129#google_vignette
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは長崎市歴史民俗資料館で、対馬藩の特殊任務について学習します。
対馬藩主の宗氏は、室町時代から朝鮮との交易を生業としていました。朝鮮語に通じる家臣団を持ち、朝鮮国と室町幕府の間を取り持つ外交を一任されていました。長崎市歴史民俗資料館 美術館・博物館
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秀吉の朝鮮出兵で、日朝の外交は断絶します。徳川幕府は朝鮮との関係改善を図るために対馬藩に交渉を委ね、国交を回復させます。藩主宗義成は、必要ならば国書の偽造も厭いませんでした。対馬藩は農業生産が乏しく、交易によって生き延びた経緯が背景にあります。
オランダや清とは交易があったとはいえ、幕府が国交を結んだのは唯一朝鮮国だけでした。
江戸幕府以上に厳しい鎖国政策を行う朝鮮で、対馬藩は釜山に外交と交易を行うための倭館を開設し、藩士が常駐しました。鎖国令で東南アジアで活動していた日本人が帰国できなくなりましたが、対馬藩は異国の地釜山で商業活動を行うことが可能でした。 -
朝鮮通信使
1607年以降、朝鮮の外交団が徳川将軍に謁見する朝鮮通信使が派遣され、対馬藩は外交使節の接待等を恙なく取り計らわれるように手配する重責が委ねられました。
朝鮮との国交を通して、幕府は大陸の文化/科学技術、そしてアジアの政治情勢を把握しました。 -
対馬藩の外交団は単に語学に通じているだけでなく、直接交流や多くの書物を輸入/読破することで、相手の感性や思考も把握することで円滑な交渉を行います。また室町時代から続く外交の軌跡(外交文書)を逐一保管/活用します。
最も有名な外交官は、雨森芳洲(1668-1755 写真)です。 -
外交に対する見返りとして、幕府は対馬藩に朝鮮との(独占)貿易を許可します。朝鮮人参等が輸入され、水牛の角等が輸出されました。
さらに米の収量が見込めない対馬の土地を考慮し、肥前国田代に1万石相当の領地を与えて米を得られるように配慮します。藩の実勢は2万石でしたが、家格は10万石相当として扱われます。小藩にもかかわらず、九州各地に活動拠点を持ちました。
※のちに唐津~糸島周辺等の天領も加増されます。
※元々は豊臣政権が1599年に朝鮮出兵で交易が途絶えたことの補償として田代を与えました。 -
朝鮮:釜山に外交/通商館
壱岐:勝本に朝鮮通信使の接待所(茶屋)を設置
長崎:漂流民の相互護還および貿易品の買付
博多:蔵屋敷(後に廃止)
田代:代官所
他に江戸/大坂、西国大名の例に倣い京屋敷等。
では、田代領へ移動します。 -
くすり博物館を後にして九州横断道沿いに東進すると、
中冨記念くすり博物館 美術館・博物館
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長崎街道田代宿の東構口跡です。
たじろと濁音で発音します。
ここには追分石があり、右ひこ山道(写真奥)、左こくら・はかた道(20km/hの標識のある道)、と彫られています。 -
これが実物
九州経済中心地のひとつ日田や一大霊山へ通じる道筋が分岐し、九州隋一の長崎街道の宿場があるということは、対馬藩は良い金蔓を与えられたということです。 -
長崎方面へ少し進むと、
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十字路があり右折します。
ここまでの通り沿いは昌町/昌元寺町と呼ばれました。 -
こんな光景で、風情を感じます。新町です。
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通りの右側には、田代代官所の通用門(移設)と伝わるものが建っています。
門の裏側の破門には、宗家の家紋が入っているとのことです。 -
足元には、こんな感じで丁寧なガイドが。おかげで歩きやすかったです。
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田代宿の全容
5つの町から成り、防衛上の配慮で長崎街道は2回ほど辻で折れます。 -
佐藤製菓本舗の向かいにある八坂神社には、高杉晋作が第一次長州征討後に藩論を尊王攘夷派に返り咲かせた後に、田代を訪れたことが解説されています。九州の雄藩、福岡/佐賀の2藩の藩主が尊王攘夷運動を支援するよう奔走していました。
佐藤製菓本舗 グルメ・レストラン
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上町に入ります。
電柱には、あちこちにサロンパスの看板が付いています。 -
歴史を感じる呉服店
江戸時代の創業でしょうか
伝統と信用の店と書かれています。 -
田代小学校へ通じる路地を入ると、、、
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田代代官所跡
田代領を統治した代官所は、長崎街道に面した間口が86m奥行きは144mほどでした。建物は、街道沿いの東側には表家(副代官)、その奥が賄家(賄役)、街道沿いの西側には米蔵、奥には本家(代官)という配置でした。
対馬から代官/副代官/賄役等が赴任し、下役には手代以下の地役人が当たりました。高杉晋作が訪問した当時の代官は勤王派の平田大江でした。京/江戸の政変に伴い、平田は1865年に処刑されます。 -
対馬藩田代領
基肄郡上郷/下郷と養父半郡、田代町/瓜生野町の三郷両町から成り、1万3000石の生産力がありました。三郷は庄屋、両町は別当という地役人をまとめ役として統治します。 -
校門前で古いえびす様の描かれた石を発見。
鯛ではなく、なぜか鯉を掴んでいるのがミステリアス。 -
代官所の西側には、後の時代に藩校の東明館が建ちました。
1792年に稽古所が開かれ、1800年に東明館と呼ばれるようになります。 -
街道沿いの東明館跡の石碑は、1855年に移転した際の位置です。
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街道へ戻ると、向こうに久光製薬の巨大な建物が見えます。
代官所を中心に上町/下町に分かれます。 -
広及舎跡
1869年の勅令で旧大名華族に東京在住が課され、領地は国へ返還されますが、宗氏は大地主として田代の経営に当ります。広及舎はそのための法人で、旧代官所の役人が実務に当たりました。大正期に解散します。 -
高札場跡
幕府藩代官所からの御触れが掲示されました。最も人通りがある地点に設置されます。 -
後ろを振り返ると、こんな光景。
高札場はT字路に面しています。 -
久光製薬の敷地に沿って、長崎街道は左折します。
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この辻には、問屋場も営業しました。街道の物流は各宿場がリレー方式で行いました。隣の宿場から届いた荷物は、問屋場で解かれて引き取られるor人馬を付け替えて次の宿場へ運ばれました。最も大きな規模の仕事は参勤交代の大名行列で、薩摩藩90万石の一行です。
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久光製薬本社/鳥栖工場の入口があります。鳥栖市の有名企業で、江戸時代の田代売薬がルーツです。
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Vリーグ久光製薬スプリングスの本拠地。佐賀出身の江越選手らがユニチカから移入したのも今は昔です。
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本陣はここにありました。荒木家が経営に当たり、現在は空き地となっています。通常は大名や長崎奉行クラスの幕府官僚が宿泊します。外町は、旅籠等の宿泊施設が集中しました。
田代宿には、500軒以上が軒を連ねたそうです。 -
空地は久光の駐車場として借上。
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西構口の先は追分(分岐点)。
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追分石には、左くるめ道/右さがと案内しています。地名が平仮名表記なのが優しい配慮です。
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T字路を右折します
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長崎街道は左方向へカーブします。
焼き鳥BANK グルメ・レストラン
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大木川を横断してスワンコーポの先の進入禁止の標識があるT字路を右折します。
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いにしえ通りを横断し、次の古野町交差点を左折します。
田代領旧瓜生野町です。 -
八坂神社には、瓜生野町のプロフィールが紹介されています。本町/今町から構成されました。
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本町交差点には、鳥栖有数の和菓子店水田屋が営業しています。
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沿道には、情緒ある光景が。
当時の文献を紐解くと、この先に位置する轟木宿よりも栄えていたとのこと。
商店/酒屋が並ぶものの茶屋(宿泊施設)はないと記載されます。 -
旧長崎街道は、桜井整骨院の辻を右折します。
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こんな感じで情緒を醸し出します。
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JR長崎本線のガードを潜り、高架線の南側には菅原道真の姿見の池/腰掛石があります。大宰府よりも先なのに、、、
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道真の第五子を養子に貰った従者の三澄時還がここに隠居し、道真も度々実子に遭いに瓜生野まで足を延ばしたとのことです。道真は姿見の池に映った自分の顔を筆で描き、息子に渡したとのことです。面白い伝説です。
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鳥栖小学校の先に流れる小川は轟木川。
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こんな小さな橋ですが、江戸時代は架橋せずに飛び石を伝って横断したとのこと。
何故なら、対馬藩田代領と佐賀藩の境界線つまり国境(防衛線)だったからです。 -
なので、川向こうには佐賀藩が番所を構え、通行人をチェックしていました。
ここからは轟木宿です。上町エリアです。轟木川を挟んで、養父郡が佐賀/対馬藩領に分断されました。盟方 グルメ・レストラン
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足元には、対馬藩田代領/佐賀藩鍋島領と、分かりやすく境界線を表示。
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轟木宿
こんな感じでクランク状になっています。 -
日子神社の辻を左折します。
ここは中町で、正面の自治会館には、制札場が置かれました。一般には高札場と呼ばれ、幕府/藩のお触れが掲示されました。さらに、荷役人馬の公定賃金が明示されました。 -
途中の辻に脇へ逸れろという矢印が。左折します。
※ここは佐嘉県なので、地面の標示は佐賀市(上り線)を基準に設定されているので、ご注意を。写真は辻を素通りして直ぐの地点で後ろを振り返った構図です。 -
写真のエリアは勢屯と呼ばれ、藩主が御茶屋に宿泊/休憩する際に行列の一行が詰める施設でした。写真のY字路を左側に進み、更に左折すると、、、
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当時の石垣かもしれない立派な民家の敷地が現れます。
旧御茶屋跡です。御茶屋の第一義は藩主別邸で、宿場内に設けられる場合は大名本陣として西国大名/長崎奉行等が宿泊しました。国境なので、御茶屋が設けられました。当時の敷地は60×50mで環濠が巡らされました。なぜ街道沿いではないかというと、中世の豪族土々呂木氏の館跡を継承しているから -
旧長崎街道へ戻り西進すると、右へ折れます。
ここは下町で、13軒ほどの旅籠が立ち並び、人足/馬を用立てる人馬置所が設置されました。一般には問屋場と呼ばれます。 -
そのまま進むと新町エリアで、商店/職人(細工師/大工)が軒を連ねました。薬師川を渡る地点で轟木宿は終わります。長崎街道は中原/神埼/境原/佐賀宿と続きます。
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水田屋のある本町交差点まで戻って右折すると、その先は鳥栖駅です。1889年に九州最初の鉄道開通と同時に開設されました。1891年に佐賀まで支線が開通して以来、分岐駅として鉄道の町鳥栖の中心でした。1903年に現在地へ移転し、駅舎は1911年築です。
鳥栖駅 駅
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長崎と佐世保へ延びる路線の基点として、機関区と貨物駅が建設され、ピーク時は2000名が従事していました。
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1967年の航空写真を見ると、幅数百メートル長さ1km以上の操車場を中心とした鉄道用地が写っています。
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1984年の操車場廃止/2006年の貨物駅移転に伴い再開発が行われ、1996年にサッカースタジアム等が建設されました。
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翼を捥がれた鳥のような殺風景です。
駅前のサンメッセ鳥栖には、鳥栖歴史文化交流展示室という残念レベルの歴史展示があり、訪れる価値なしでした。 -
長崎街道(破線:赤)
高速道路を挟んで北側が全回の旅行記、南側が今回の走破ルートです。
続いて、中冨記念くすり博物館の田代売薬の展示へ移ります。 -
日本のくすりと文化
クスリの効果は、長年の経験の積み重ねで立証されたものが殆どである一方で、信仰や習慣に基づくものも少なからずありました。道教(中国)伝来のものに日本の文化が溶け込みました。
写真は神農(しんのう)と呼ばれる古代中国の神様で、人間に薬の知識と農耕技術を教えたとされ、人間の身体に牛の角が生えており、草木で身をまとっています。日本では配置売薬人を中心に信仰されました。 -
張り子のトラ
1822年に大坂でコレラ(虎列刺)が流行した際に、少名彦神社で行われる神農祭で配られたのが起源のお守り。コレラの当て字と虎の伝説が合わさったと思われます。虎は、絵馬等にも登場します。 -
鍾馗(しょうき)
玄宗の夢枕に現れ、病魔を追い払い病気を治したとされます。日本では江戸時代頃から疫病/魔除けとして端午の節句の絵や五月人形に用いられるようになりました。長いひげと官人の着物と大きな剣が描かれます。 -
白澤(はくたく)
人間の言葉を理解し、徳の高い治世者の世に出現するとされ、9個の目と6本の目を持ちます。白澤の絵は厄除けになるといわれ、江戸時代には枕元に置いたり道中のお守りとして携行したりしました。 -
本草綱目
李時珍によって初版が1596年に編纂。本草学は動/植/鉱物の薬用を研究する中国発祥の学問で、1892種の薬名/処方例/図解が掲載されています。日本には江戸時代初期に伝わります。写真は1653年に刊行された第二版。 -
大和本草(1709)
貝原益軒が編纂、1362種の本草/農作物/雑草が掲載されている。 -
生薬
自然由来(動/植/鉱物)の薬物で、現存する日本最古のものは756年に正倉院へ納められたものです。写真のような須恵器に納められ、添付された目録には約60種の生薬が記載されています。 -
丸薬の製造過程
江戸~明治中期まで、くすりは生薬を原料とする家内制手工業で作られていました。当時のくすりは丸薬/散薬/煎じ薬に分かれました。 -
①乾かす
陰干し/天日干し/炒って乾燥させました。
写真は炒り鍋で、竈にかけて火加減を調節しながらじっくりと乾燥させました。掻き出し口(写真左側)から薬草を取り出します。 -
②刻む
両手切(左):石の錘を載せた包丁を振り子のように揺らして使用し、石の重さを利用することで余り力を加えずに作業できます。
片手切(右):台座に立てられた支柱に包丁を差すことで、てこの原理を利用します。使用するうちに台が削れるので、台を回転させて使用しました。 -
③摺る(粉にする)
乳鉢/乳棒(左):いわゆる擂鉢/摺棒で、陶器の他にガラス/石/木製もある。
薬研(中):土台を膝で押さえ、生薬を入れた船の溝に円盤を転がして擂り潰します。普通は鉄製ですが、化学反応を起こす生薬は木/石製を使用しました。
ひき臼(右):上の回転臼を回すことで擂り潰します。田代では製薬用を「ひき臼」、餅用を「石臼」と呼んで区別しました。 -
④篩う(粒の大きさを揃える)
丸篩(左):手前は目の細かい金属製で「シイノ」、奥は目の粗い木製のもので「フルイ」と呼ばれました。
箱篩(右):内箱が篩で、外箱に蓋をして粉が飛び散らないようにしました。使用音から「ゴトゴト」と呼ばれます。 -
⑤合わせる
処方に従い調合します。
両替天秤(奥):材料を計量します。両替屋だけでなく薬屋も使用しました。
竿秤(手前):皿に測りたいモノを載せ、竿が水平になる位置まで錘を移動して測定値を出します。 -
⑥捏ねる
糊(米粉)/水飴などを混ぜて粘土状にします。
捏ね鉢(左):陶器以外に木製もあります。
ダルマ瓶(右):水を汲み置くための道具 -
⑦丸める
板丸/バラ丸の2方式に分かれ、熟練を要するので専門の製丸職人に外注した。左手前にあるのは、製丸運賃表。
製丸用バラ(手前右):刷毛で内側を湿らせ、種丸を入れ、薬の粉と水を振り掛けながら揺すり、種丸に粉を付着させて太らせます。この作業を繰り返すことで層が重なり、丸薬が大きくなります。
押出式製丸器(奥):捏ねたものを詰め、レバーを引いて板の上に絞り出します。生地の上にも板を被せて型取します。板丸と略す。 -
⑧箔付け
丸薬の表面を朱/金/銀の粉(手前右)で覆い、仕上げます。見た目をきれいにするだけでなく、防湿/防虫/防カビ効果があります。少量の場合は棗(なつめ:右奥)、多量ならバラ(左)で作業しました。 -
⑨包む
散薬は計量匙(右手前)/丸薬は計数匙(右奥)で効率的に計り、包丁(奥)で和紙を裁断し、版木(左)を当てて刷ったものに入れて、ひとつずつ折って包みます。 -
田代売薬
田代では江戸時代中期に、薬を製造して各家庭へ預けて販売する配置売薬産業が興りました。富山の置薬として有名な商法で、新規顧客宅に薬箱を預け、1年後に使用した分の薬を補充/代金を徴収する行商システムです。修験道がルーツの近江/大和と併せて、田代は四代売薬の一角を為しました。 -
田代の特性
筑前/筑後/肥前3国に接する対馬藩の飛び地で、長崎街道の宿場もあり、九州のみならず日本全国/中国/オランダの文化が交わる場所でした。こうした環境で製薬のノウハウが伝わったと思われます。生薬の仕入にも有利です。
越中富山は藩主が売薬を奨励したのに対し、田代代官所は若者の労働力が売薬に割かれることを嫌い、1761年には壮年者/1762年には郷村の売薬禁止令を出します。そんな中で奮闘の末、1788年に売薬制度が認可されます。 -
売薬業は株制になっており、定数制でした。四人の元締の下で、運上銀を藩に支払いました。売子(行商人)には札(身分証明証/行商許可証)が発行され、各地を回りました。
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他藩の人物の流入を厳しく取り締まる藩も多く、右下の廻下札は肥後細川藩領を回る際に携帯しました。往来手形と行商許可証を兼ねる独自の制度でした。その奥は往来手形で、久留米有馬藩の領内で行商する際に携行しました。左下は配置帳と呼ばれる販売台帳で、地域ごとに分冊されており得意先別に家族構成/家の行き方や目印/薬の種類や数などが記載されています。
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江戸時代の薬袋
薬名/屋号/効能が説明されています。朝鮮/対州の文字は、田代が朝鮮貿易を独占していた対馬藩をブランディングし、大陸を連想させるイラストも描かれています。 -
地道な努力が実り、幕末には商圏を九州/中国四国へ伸ばします。
※薩摩藩は厳しいスパイ対策で他所人の入国を絶対に認めず、空白地帯でした。 -
売薬取締規則(1870)
明治政府は売薬を目の敵とし、田代にとって試練となりました。売薬業者は東京の大学東校(現東京大学)で審査を受けて認可を貰う必要がありました。交通が未発達な中で、富山/滋賀と比べると圧倒的なハンディを背負います。 -
売薬取締規則では、秘方/秘伝/家法といった宣伝文句が禁止されたために、官許と書かれています。神仏夢想/家伝秘宝といった科学で説明できない宣伝文句は、封建時代とともに消え去ります。
東京で官許を得るハンディの中、田代行商人は1875年には北海道へ足を延ばします。 -
売薬規則(1877)
売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。 -
売薬印紙税規則(1883年)
売薬定価の1割という法外な収入印紙税を課しました。政府によれば、「無害無能で日用の必要品ではない売薬が莫大な利益を与えている」ことに対する懲罰的意味合いでした。この制度は1926年まで続きました。 -
久光製薬のルーツ
1847年に久光仁平が、田代で配置売薬業を生業とする小松屋を創業します。息子の与市は屋号を久光常英堂に改め、1869年には健胃消毒剤「奇神丹」を発売、日清/日露戦争で軍用薬に指定されます。1903年には、与市の息子4名が久光兄弟合名会社を設立し三郎が代表者となります。1905年に三郎は中冨家へ養子入りし、久光製薬社長は中冨家が世襲します。
※写真は海外で使用した幟なので、秘法と宣伝しています。 -
会社設立の動き
1903年の久光兄弟合名会社(現久光製薬)を始め、田代製剤合資会社、田代製剤合資会社、鳥栖製剤合資会社(後の鳥栖製薬)などが設立され、個人が集まって規模を大きくすることで向かい風へ立ち向かいました。それによって手工業→機械化/生薬→西洋技術の導入が可能になりました。 -
朝日万金膏(1905)
江戸時代から貼り薬に強かった田代が生み出したヒット作品。熱したゴマ油に四酸化三鉛や生薬類を入れて煮詰めた膏薬を和紙に展延したものです。まもなくロール式展膏機による大量生産が可能になります。スペイン風邪の流行で販路を世界へ伸ばしました。内服薬は越中、外用薬は田代と言われるようになります。 -
製造工程
①膏薬釜にごま油を入れ200度に熱し、鉛丹/生薬を投入後は温度を下げて数時間かけて煮詰めて膏体を作ります。
②展膏機に膏体を注ぎ、ロール状の和紙(10×0.3m)をローラーに挟んで付着させます。
③低温/低湿な環境で数時間乾燥させ表面に艶が出ると、膏体面を内側にして折り畳みます。
④型枠に和紙を入れ、重石で押さえて枠の切り込みに沿って裁断包丁と金槌で裁断します(写真)。展膏機の動力を含め、作業は人力で行います。膏体面を温めて広げて、患部に貼ります。 -
膏薬と種類
基材(油/蝋)で薬効成分を練り合わせた外用薬のことで、塗る/貼ることで使用します。
軟膏:基材で薬効成分を溶解/分散させたもの。常温で半固形の塗り薬。
テープ剤:粘着成分と薬効成分を混ぜたものを布/フィルムに展延/封入した貼り薬。
パップ剤:水分を含む粘着成分と薬効成分を混ぜたものを布に展延した貼り薬。 -
サロンパス(1934-)
朝日万金膏のヒットに胡坐をかくことなく短所(黒い貼り跡/刺激臭)を克服すべく、中冨三郎が生み出した製品。ゴムを基材として肌や服に色素が付かず、爽やかな芳香を伴い、効き目と使いやすさを兼ね備えました。50回以上の改良を重ねながら現在に至るロングセラーです。 -
類似品
サロンパスは、主成分のサリチル酸メチルが転じてサロン、プラスターが転じてパスと、薬名としてはオーソドックスな由来です。大ヒット商品となり、様々な類似品が登場しました。写真は、左からコロンパス/ロマンパス/モダンパス/サンハパス/エンパス。語呂の良さと音のイメージを熟考した本家は、日本で知らない人はいないであろう知名度です。 -
膏薬製造の行程
展膏機で布に膏体を塗布し、蜘蛛の巣型乾燥機に渦巻き状に布を巻きつけて効率よく乾燥させます。乾燥後は2巻きを1対として引き出し、作業台で1m間隔で裁断し、台紙を貼り合わせて製品の大きさに切り揃えて袋詰めします。写真は昭和初期のサロンパス製造ラインで、機械の動力を含め人力で製造しています。 -
昭和初期の久光兄弟合名会社の輸出記録
サロンパス部という部門があったようです。佐賀城下を中心とする肥前売薬は手工業/家内秘法にこだわり、衰退していったのとは対照的です。 -
大正時代の配置売薬の様子。
佐賀県立博物館でも、売薬は県の民俗の一部として多くの展示がなされます。佐賀県立博物館 美術館・博物館
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売薬人は、柳行季と呼ばれる5層に分かれる籠を持ち歩きました。重さは20kg以上になります。
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得意先には、預け箱もしくは預け袋に薬を入れて置いて行きました。
薬の効能/使用法を伝えるだけでなく、他の地域の文化や情報を伝え、縁談や相談に乗る存在でもありました。
1958年に国民健康保険法が制定されるまで薬の値段は高く、病院/薬局が近くにないという事情もあり、配置売薬は大きな役割を担っていました。 -
大正時代には、厚司と呼ばれる綿織物を羽織り、風呂敷に包んだ柳行季に蝙蝠傘を結んで旅しました。明治までは草鞋でしたが、地下足袋に代わっています。
昭和になるとカバンに荷物を入れ、洋装になります。 -
一回の行商は100日に及び、一日に数十件の得意先を回ります。土産として紙風船や広告チラシ等を渡し、夜は宿屋で帳簿や薬の整理をしました。
国民健康保険制度で物理面/負担額でも医療(医師/薬)が身近なものとなり、売薬は衰えていきます。 -
こちらは企画展
薬袋に込められたメーカーの思いや世相の繁栄を扱います。
薬袋(やくたい)とは薬を直接包む袋を指す専門用語で、袋/瓶/缶等があります。
便宜上、ここでは差袋や預け袋も展示されています。 -
キナエン
キナの基の皮から採れるキニーネを主剤にした解熱薬で、幕末にオランダ貿易で伝来しました。そんな由来を反映して、南蛮男のイラストや蘭方という文句を用いました。 -
まずは南蛮男のバラエティ、11名がエントリー。
田代からはキナ円/きなきなえん/きなきな丸/きなえん/キナキナ円が出場しています。 -
不老不死の願い
神農/鍾馗以外にも、胃腸薬には布袋、天狗(=修験者 主に大和売薬)、薬師如来/観音などが、神護による薬効をイメージさせました。
これらは法律で「家伝秘宝」「神仏夢想」といった科学的根拠のない宣伝文句や絵柄が禁止されることで消え去ります。 -
信頼の象徴
歴史上の人物/偉人の美徳や羨望のシンボルであり、富国強兵時代は軍人の強さが健康と結び付きました。また医学界の偉人/高僧も、薬効の信頼性と結び付けられました。コンテンポラリーでは伊藤博文/東郷平八郎/野口英世/貞明皇后、過去では華佗/弘法大師/薮井玄意などです。
※藪医者は本来名医を指しましたが、現在では逆の意味になっています。 -
七転び八起き(快復)を具現化したダルマや、症状を寄せ付けない/蹴散らす動物として馬、熊、牛、虎などの生き物も登場します。
-
戦争の記憶
購買意欲を上げる目的もある薬袋は、生活に密着した日用品であるために、世相を反映し戦争中の動向も映し出されます。
また政府/メディアによるプロパガンダの一環として用いられ、国旗/勇敢な兵士/愛国的なスローガンなどが描かれました。写真右の征露丸(正露丸)も日露戦争前後の世相を反映しました。最初に商標登録したのは鳥栖製薬合資会社で、現在は大幸薬品が所有しています。 -
戦後
消費者の意識が大きく変化し、過剰な内容は不信感を与えるようになります。シンプル/クリーンがトレンドで、絵柄としては笑顔の女性が好まれます。憧れの世界の観光地なども描かれました。
ナオール/スッキリ/サッパリ/ハッキリ等、短く覚えやすいキャッチフレーズも登場します。 -
イラストのモチーフ
最初の王道は、症状で苦しむ人の姿です。ユーモアを忘れない内容も多いです。 -
薬の効能を視覚的に描くこともあります。
腹薬なら胃腸の絵、子供の薬なら子どもの絵など、その絵柄が助けになります。 -
医師や看護婦は、服薬=医療を受けているというイメージを沸かせます。
-
薬の効果でスッカリ快復。
病を克服した晴れやかな表情。
以上が、メジャーな4つのモチーフでした。 -
詐欺的な表記はともかく、この程度は許してもらいたいですね。実際、鬼とか雷神とかはグレーゾーンとしてテレビCMにも登場していました。
長崎街道は中原宿/神埼宿と続きます↓
https://4travel.jp/travelogue/11964918
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