2024/11/05 - 2024/11/08
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ハイペリオンさん
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徳島の奥祖谷を訪れた後、壇ノ浦合戦後の
平家一族の逃亡ルートを調べることにした。
1185年の壇ノ浦の合戦において、安徳天
皇をはじめとした一族郎党が入水し、滅亡
したことになってはいるが、どうも実際に
は安徳天皇を奉じる主力は生き残り、四国
に上陸し、潜伏した節がある。
安徳天皇生存説は西日本の数か所で伝えら
れており、陵墓も存在し、それぞれ宮内庁
が参考陵として認めている。
陵墓がある地域の古文書には安徳天皇を奉
じてそこに居ついた平家一行の記録が残っ
ており、あながち荒唐無稽な伝説と否定で
きないところがある。
墓が数か所あるなど、不自然な部分も多い
が、まずは安徳天皇を奉じた平家一行が潜
行した場所として最も有力と思われる愛媛
の内子町と高知の越知町を訪ねた。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- 楽天トラベル
-
今回の旅では、この本を参考にした。
『平家秘史』伊藤加津子(1994 関西書院)
在野の研究者のようだが、平家落人
伝説の残る地を丹念に歩き、地元の
寺社に所蔵されている古文書を読み
解き、安徳天皇が壇ノ浦合戦後も平
家首脳の人物たちと生存していたと
結論付けた労作である。 -
今回は夜行バスで松山市から先の
八幡浜まで行くことにした。
そこからJR内子線に乗って内子
まで行くことにしていた。
しかしバスに乗ってから、案内で
内子で停まることを知り、そこで
降ろしてもらうことにした。 -
7時30分前に内子に着いたものの、
ここが内子町のどのへんなのかさっ
ぱりわからず、googleマップで内子
駅を探し、駅まで歩くことにした。
するとすぐ近くにめざす小田まで行
くバス停があり、バスがすぐ来るこ
とが分かった。
渡りに船である。
町営のバスに乗って379号線を約30
分走って、内子町役場小田支所に着
いた。 -
終点から内子に戻る形で国道を20分ほ
ほ歩いた。
山間部できれいな川が流れている。
橋の上からも底が見えるくらい水が澄ん
でいた。 -
寺前という集落の中に寺の入り口らし
きものがあったが、googleで確認した
らこれは違うようだ。 -
集落の狭い路地をもう少し行くと小さな
寺があった。 -
これが清盛寺。文字通り平清盛を祀った
寺である。
清盛寺と書いてせいじょうじと読む。 -
お寺なのになぜか鳥居がある。
まれにこういうところがある。
明治時代に神仏分離令がでて神社と寺
は分けられたが、それを免れた寺院の
ようだ。
明治以前はこういうのが普通だったら
しい。 -
相当樹齢を重ねたと思われる大木の向
こうに本堂がある。 -
右側には釣鐘堂。
-
相当古そうな祠だが、何が祀られてい
るのか。 -
本堂の手前の一角にかなり古いことが
わかる五輪の塔、つまりお墓がある。
周囲とは明らかに古さが違うことが分
かるくらいだ。 -
墓の前には登貴姫の墓とある。
登貴姫は平清盛の五女とされる女性で
ある。
かなりきれいな女性だったようで、清
盛のお気に入りだった。
この方は摂政藤原基通に嫁いでいて、
平家の都落ちの際、夫婦で同行したが、
夫は後白河法皇がいないので不安にな
り、途中で離脱した。
平家の都落ちは、まずは大宰府まで行
き、そこを追われると香川県の屋嶋に
落ち着き、そこを義経に急襲されると
関門海峡方面へ落ち、最終的には壇ノ
浦の合戦で滅亡した。
このすべての過程で彼女も同行してい
たのか、壇ノ浦の合戦の混乱の中で抜
け出して、伊方あたりに上陸してここ
まで逃げ延びて来たのか。 -
墓の後ろには梅の木がある。
亡くなった登貴姫の懐にあった種だっ
たそうで、墓のそばに植えることにし
たという。
大宰府を追われ、牛車も輿もなく、雨
の中を泥だらけになりながら福岡の筥
崎に着いた描写が『平家物語』にある。
京を追われ、西日本に居場所がなくな
ったかつて栄華を誇った一族の姿は、
何とも哀れを誘うものがある。
あのころYahooニュースがあれば、コ
メント欄には「当然の報い」などと心
無いコメントがあふれかえっていただ
ろうか。 -
壇ノ浦から四国まではかなり距離があ
り、源氏の残党狩りを避けて船で来る
のはかなり困難ではないかと思う。
なんせ登貴姫は人妻とはいえ10代の少
女、安徳天皇は10歳に満たない子ども
である。ほかにも戦争に参加できない
女官や文官もいたと思うが、足手まと
いになる彼らを戦争に随行させたかど
うか。
伊藤加津子が書いているように、屋島
に平家がいったん落ち着いた際に安徳
帝ら戦に参加できない者たちはあらか
じめ四国山中に潜伏させておいたと考
えるのが自然ではないかと言う気がする。 -
『平家秘史』には壇ノ浦の合戦後、平家
の主だった者たちは愛媛県の伊方越に上
陸し、枇杷谷(平家谷)→八幡浜→内子
→別子→徳島県三好郡城谷→高知県香美
市韮生→高知県高岡郡越知町と潜行して
行ったのではないかと書かれている。
三好郡山城谷は市町村合併で現在は三好
市となっている。
城谷から韮生に行く過程で6月に訪れた
奥祖谷にもいたのだろう。
奥祖谷はさすがに山奥すぎたのか、おそ
らく一部を残してそのまま南下し、高知
県の越知町周辺が平家落人主力の最終の
安住地だったようだ。 -
別子山には仮の宮が建てられ、安徳天皇
はここに留め置かれた。おそらく、安住
の地を見つけて、宮を建て、安徳帝を迎
える準備が整うまでは安全な別子山にい
させたのではないか。
平家落人の主力一行は東へ向かい、そし
て南下して越知町の山中に落ち着いた。 -
清盛寺を後に内子へ戻ることにする。
朝から感じていたが、山の中だからか
ちょっと寒い。
ぺらぺらのシャツ一枚で来たことを後
悔した。 -
小田から町営のマイクロバスでJR内子
線の内子駅まで戻って来た。 -
2両編成の特急で宇和島まで向かう。
-
宇和島駅構内のコンビニでおにぎり
を買い、昼食にした。 -
今度は予土線で終点の窪川まで向かう。
2時間ちょっとの電車旅である。
計画では宇和島から窪川行の電車に乗
れるのは18時ごろと予想していたが、
かなり早く乗れることになった。
明るいうちに窪川に着きそうだ。 -
14時36分、窪川駅着。
見事に何もない田舎の駅である。
こんなとこでタクシーを営業していて
も生活できるのだろうか。 -
駅のすぐ近くのまるか旅館が今夜の宿。
-
三畳一間の小さな部屋。ほとんどちょ
んの間だ。
客はたぶんぼく一人だろうと予想して
いたが、そんなことはなくて数人いた。
同じ時にお遍路をしている女性もチェ
ックインしていた。お遍路さん向けの
宿のようだ。
近くの食堂で酒を飲んでめしを食い、
宿に戻り風呂に入った。
口コミでお風呂の評判が良かったの
でどんなんだろうと思っていたが、
きれいな木製の湯船で、評判通りの
いい風呂だった。
夜行バスで3時間ほどしか寝ていな
かったので、すぐに眠った。 -
7時前に挨拶をして宿を出、7時過ぎ
の土讃線の高知行きに乗る。 -
1時間30分ほどで佐川駅に着いた。
佐川はNHKのドラマにもなった植物
学者、牧野富太郎が生まれたところ
である。
バスの時間までかなりあるので、喫
茶店でモーニングを注文。 -
路線バスに20分ほど乗り、横倉口で
下車。
周囲は田園と山が広がる静かな場所。
国道が走っているので車は通るが民
家はほとんどない。 -
国道を歩くとすぐにこんな看板が。
ここを安徳帝がいた場所として売り
出して行くつもりのようだ。 -
国道の脇に巨大な鳥居があった。
真ん中には菊の紋章があしらわれている。
右側には「横倉宮」と彫られた石の標識。 -
そして左側には「安喰天皇越知町陵墓」
の文字があった。
この山の頂上付近に安徳天皇を葬った
墓があるのだ。
しかし、ここから何と往復で十数キロ
もある。さすがにこれはきつい。1日
かかってしまう。
ここまで来て残念だが、陵墓訪問はあ
きらめざるを得なかった。
ここには陵墓とあるが、安徳天皇は壇
ノ浦で入水したことになっているもの
の、遺体は確認されておらず、生死は
不明である。
宮内庁はここをあくまで参考陵という
ことにしている。 -
その先には横倉神社というのがあった。
-
ここのご祭神は安徳天皇である。
-
横倉山の陵墓までは行けなくないので、
周辺の気になるところを見て回ることに
した。
まずはこのすぐ近くにあるという耳なし
地蔵に行くことにする。書いて字の如く、
耳がないお地蔵様である。 -
国道からすこし外れたところに古い
お堂があった。これだろうか。 -
中を除いたが祠があるだけだ。これで
はなさそうだ。 -
少し行くと風雨に浸食されたお地蔵
さまがあった。 -
しかしこれは耳がしっかり彫られている。
これでもないな。
google mapでもよくわからないので、
農作業の手伝いを終えた女性に尋ねた。
すると、竹藪の中の獣道のような山道
を下ったところにあるという。 -
この先にあるのか。
-
確かにお地蔵さまが2体鎮座していた。
-
埃をかぶった前掛けはボロボロである。
誰も手入れに来ていないようだ。
地元の人からも忘れられた哀れなお地
蔵さまである。 -
頭のところを見ると、確かに耳がない。
ここに伝わる民話はかの「耳なし芳一」
の物語とそのまんまである。
違うところと言えば、琵琶法師の名が
芳一ではなく、城了で盲目ではないこ
と。そして、役僧が芳一の体中にお経
を書いたものが、ここでは城了の体に
香水を振りかけたことになっているこ
とである。
城了という僧は松山の方から流れて来
てここに居つき、数年で亡くなったよ
うで、それを弔うためにこの小さな地
蔵を作ったという。 -
「耳なし芳一」の話では、芳一がいた
阿弥陀寺と安徳天皇陵までは100メー
トルもないくらい近いなど不自然な部
分があるため、原典はこの越知地方に
伝わる話ではないかと考えられる。 -
さて、あとは平知盛と平経盛の墓である。
横倉の山頂へ行く山道の途中にあるようだ。 -
その先には平資盛の石碑もあるが、ここ
までは行けないだろう。 -
平知盛は清盛の四男で、壇ノ浦の合戦まで源氏
と戦い続け、最後は「見るべきものは見た。
今は自害するのみ」と言って、錨を体に巻き付
けて入水したとされる人物である。
平経盛は清盛の異母弟で、彼も壇ノ浦まで戦い
続けたが、最後は入水した。経盛の子、敦盛は
一の谷の合戦で、海へ逃亡を図ったものの熊谷
直実に「逃げるは卑怯なり」と言われて、戻っ
て戦ったものの討ち取られた若き侍である。平
家物語もかなり有名な場面である。 -
『平家秘史』では、各地の古文書を読み
解いているが、最もよく出て来るのが、
平知盛の名前である。
どうやら彼は、壇ノ浦で入水したのでは
なく、戦線を離脱して逃げ延び、安徳天
皇と共にここまでやって来て、その後は
各地に潜行した平家落人を訪ね歩いてい
たのかもしれない。
やはり『平家物語』は歴史書ではなく
『三国志演義』同様、あくまで物語と考
えておいた方がいいのかもしれない。 -
戦況が思わしくなくなると逃亡を図る
など武士らしくないと現代の感覚では
思ってしまうが、追い詰められてにっ
ちもさっちも行かなくなればその場で
切腹ということもあったのだろうが、
関ケ原の合戦を見ともわかるようにや
ばいとなるとだいたい逃げている。
源平合戦でもっともひどいのは平維盛
だろう。彼は富士川の合戦で、甲斐源
氏が富士川を渡河した際に一斉に水鳥
が飛び立った音を聞いて、大軍に後ろ
に回られたと勘違いをしてパニックに
なり、一目散に京まで逃げた。汚名返
上にと向かった倶利伽羅峠の戦いでは、
源義仲軍に完敗して京まで逃げ、平家
都落ちでは奥さんと子どもを置き去り
にして一門と共に逃げ、屋島にいた時
に逃亡し高野山へ逃げたような情けな
い人物である。
結局、熊野沖で入水したということに
なっているが、それもどうだか。
とにかく逃げ回り続けて人生を終えた
人物である。 -
山道の脇の石垣のところが経盛の墓で
あるとgoogle mapは指示しているが、
それらしきものは見つからない。 -
ようやく「安徳天皇従臣 平維盛之墓」
という立て札だけが土に埋もれかけて
倒れているのを見つけた。
近くには墓石らしき四角い石が転がっ
ていた。 -
あとは知盛の墓だが、これが分からない。
どんなに細くても道であれば拡大すれば
表示されるgoogle mapにも知盛の墓へ
至る道は表示されないのだ。
経盛の墓を見て、坂を下っていると、鉄
製の橋が見えた。あそこを渡ればいける
かもしれないと斜面を下りようと思った
が、崖のようになっていて行くことはで
きなかった。 -
一旦国道に出て古い石垣がある山道を
上った。
周囲には民家はないのになぜか石垣が
組まれている。この先に何かありそう
だと期待は膨らむが。 -
このすぐ先にあることになっているのだ
が、ここから沢になっていて行きつけな
かった。 -
イノシシを獲るための罠も仕掛けられて
いる。変な罠に引っかかったら大変だ。
残念ながら知盛の墓を見るのはあきらめ
よう。 -
結局、横倉宮には行けなかったし、知盛
の墓も見つけられなかった。
時間不足がうらめしい。
バスが来るまで時間があるので道の駅近
くの食堂で、汁でびちゃびちゃのかつ丼
を食べ、佐川駅まで戻った。 -
安徳天皇陵とされるものはここ横倉
山だけでなく、西日本に数か所ある。
6月に行った奥祖谷には安徳天皇を
火葬に付したという場所もある。
これはどういうことなのか。
『平家秘史』によると二位の尼(平
時子)や平徳子らは「儲の君(もう
けのきみ)」と称して、安徳帝と同
年代の男児を育てていたらしい。
おそらく落人たちはこの児たちを安
徳帝と称して奉じていたものと思わ
れる。
もし壇ノ浦で入水したとしてもそれ
は身代わりだったかもしれないし、
そもそもそんな光景はあくまで物語
上の脚色だったのかもしれない。
写真のない時代である。子どもにそ
れなりの装束を着せて安徳帝だと主
張すればそれで通ってしまうだろう。 -
別子山に留め置かれたままの「安徳帝」
は結局そこで亡くなったようだ。
つまり、横倉山に来た「安徳帝」が本物
ということなのだろう。
各地には安徳天皇参考御陵があり、その
地の「安徳帝」の死亡年が記録されている。
いくつか挙げると、
大阪府能勢町 文治2(1187)年死亡
鳥取県中津 建久4(1193)年死亡
そして横倉山のは正治2(1200)年で
ある。
いずれも若い時に亡くなっている。 -
佐川駅から高知まで行き、土讃線の特急
まで時間があるので駅周辺をぶらぶら。 -
岡山行き特急はアンパンマン号だ。
かんべんしちくりい~。 -
内部もこんな感じ。恥ずかしい。
-
阿波池田で徳島線に乗り、日が暮れて
徳島に着いた。 -
駅から10分のところにある剣山ホテル
が今夜の宿。 -
普通のビジネスホテルである。
チェックイン時に居酒屋のビール券をも
らったので、その居酒屋まで行ったが満
席だと断られ、仕方なしに駅前の上座の
王将で晩飯。わびしいぜ。 -
朝7時前のバスで徳島港の南海フェリー
乗り場まで来た。
ここから和歌山港行きのフェリーに乗る。
フェリー代金と南海電車難波行きの切符
を通しで買って2500円。かなりお得で
ある。
大阪から四国へ行くにはこれが最も安く
速く楽だと思う。 -
時間が来たので乗船開始。
-
船内には車で乗り込んだ人もいて、そこ
そこ人がいた。しかし、お座敷、テーブ
ル席、座席といろいろあって、どこでも
過ごせる。バスのようにじっとしていな
くていいし、外に出ることもできる。
実に気楽な2時間だった。
和歌山が見えてきた。 -
日本史を詳しく調べていくと、規定事実
とされているものと違っているのではな
いかと思えるものが多い。
特に敗者の歴史はかなり不当に貶められ
たり簡略化されたりしている。
これら敗者の真実に少しでも近づけるよ
うな旅をこれからも続けていきたい。
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